誰そ彼の輪郭

誰そ彼の輪郭

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第一章 罅割れた日常

意識が浮上する感覚は、いつも水底から引き上げられるそれに似ていた。冷たく、重い。霧島朔(きりしま さく)は、大学の講義室の硬い椅子の上で、ゆっくりと瞼を開いた。窓から差し込む午後の光が、埃をきらきらと舞わせている。教授の退屈な声が反響し、周囲の学生たちはノートにペンを走らせていた。ごくありふれた、日常の断片。だが、何かが違う。肌に纏わりつく空気の密度が、ほんの少しだけ異質なのだ。

「――だから、昨日の影山くんの話は面白かったよな」

隣の席に座る幼馴染の響子が、朔の横顔にそっと囁きかけた。その声に含まれた親密さに、朔は内心で眉をひそめる。影山? 聞き覚えのない名だ。

「影山って、誰だ?」

「え?」

響子は心底不思議そうな顔で、ぱちぱちと瞬きを繰り返した。「何言ってるの、朔。あんたの親友じゃない。昨日も三人でカフェに行ったでしょ?」

記憶に、そんな事実は存在しない。昨日の朔は、一人で古書店を巡り、夕方には帰宅したはずだ。響子の瞳の奥に映る自分は、嘘をついているようには見えなかった。彼女の中では、それが真実なのだ。まただ、と朔は悟る。ごく稀に訪れる「空白」。自分が世界から認識されなくなる、呪いのような時間。

講義が終わり、重い足取りで帰路につく。ポケットの中で、冷たく硬い感触が指先に触れた。祖父の形見である、古びた銀の懐中時計。いつからか、この「空白」から戻るたびに、それは必ず朔の手の中にある。蓋を開くと、止まったままの長針と短針。そして、つるりとしたガラスの内側に、滲んだインクのような黒い染みが一つ、浮かんでいた。それはまるで、遠くから覗き込む、誰かの瞳のようだった。

第二章 聞こえぬ声

テレビのローカルニュースが、淡々とした口調で失踪事件を報じていた。画面に映し出された顔写真に、朔は息を呑む。高校時代の恩師、佐伯だった。穏やかで、いつも朔の描く拙い小説を「君にしか書けない世界だ」と褒めてくれた、唯一の理解者。

「……先生」

呟きは、誰にも届かずに部屋の空気に溶けた。佐伯が最後に目撃されたのは、街外れの古い神社だという。そこは、土地に縛られた強い「遺念」が漂う場所として、地元では畏れられていた。死者の未練が霧のように滞留し、生者の心を惑わす――迷信だと笑い飛ばすには、その場所の空気はあまりに冷たく、静かすぎた。

その夜、朔は再び深い眠りのような「空白」に落ちた。次に目覚めた時、彼は自室のベッドに横たわっていた。窓の外は白み始めている。言いようのない喪失感が胸を締め付け、慌ててポケットを探った。あった。冷たい懐中時計が、まるで朔の存在を証明するかのように、そこに在った。

ガラス面に浮かぶ影は、その輪郭を濃くし、微かに人の顔のように見えた。そして、その隣に、新たな染みが一つ、増えている。ぞわりと背筋を悪寒が駆け上った。

スマートフォンの着信音が、静寂を切り裂く。響子からだった。

「朔? 大丈夫? 最近ずっと顔色悪いよ。影山くんもすごく心配してた」

「……響子、頼むから教えてくれ。影山って、一体誰なんだ」

電話の向こうで、響子が困惑したように息を呑む気配がした。「だから……朔の、一番の親友じゃない。昨日も、佐伯先生のこと、二人で心配して……」

朔の過去を知る人間が、一人消えた。そして、朔の記憶を上書きするように、影山という男の存在が色濃くなっていく。まるで、朔という存在の土台が、少しずつ、しかし確実に、別の何かに置き換えられていくようだった。

第三章 影の輪郭

自分の「空白」の時間に、「影山律」という存在が世界に現れている。朔は、そのおぞましい仮説を認めざるを得なかった。そして、佐伯先生の失踪は、その「影山」と無関係ではないはずだ。

朔は大学の図書館に籠り、郷土史や民俗学の書物を漁った。埃っぽい書架の奥で見つけた一冊の古書に、求める記述はあった。『遺念論』と題されたその本には、こう記されていた。

――世界には、稀にその存在が希薄となる「空白の人間」が生まれる。彼らの空虚は、行き場を失った遺念を強く引き寄せる。遺念は、人々の無意識の願望を触媒とし、その空白を埋めるための「架空の存在」を練り上げる。それは、遺念にとって、現世に再び根を張るための格好の器となるのだ――

つまり、「影山律」は、俺の周囲の人間の無意識と、どこかの誰かの強い未練が、俺の「空白」を利用して生み出した怪物だというのか。

図書館からの帰り道、ひやりとした風が首筋を撫でた。それは単なる秋風ではなかった。粘り気のある、明確な意志を持った冷気。

「……さく……」

背後から、掠れた囁き声が聞こえた。落ち葉を踏む自分の足音以外、何も聞こえないはずの道で。振り返っても、そこには誰もいない。ただ、夕闇に染まり始めた空が広がっているだけだ。だが、確かに聞こえた。それは、自分ではない何者かの声。遺念の声だった。

第四章 代償の殺人

第二の犠牲者が出たのは、その三日後のことだった。朔が唯一心を開いていた、アルバイト先の先輩。彼は自宅マンションで、胸を鋭利な刃物で一突きにされて殺害されていた。警察は怨恨の線を疑っているが、犯人に繋がる物証は何一つ見つからなかった。

朔は、自分の足元が崩れ落ちていくような恐怖に駆られた。佐伯先生も、先輩も、どちらも「霧島朔」という人間を深く知る、数少ない存在だった。彼らが消えることは、朔という人間の輪郭が、この世界から削り取られていくことと同義だった。

震える手で、響子に電話をかける。喫茶店で落ち合った朔は、堰を切ったようにすべてを話した。「空白の時間」のこと。「影山律」という存在のこと。そして、懐中時計に増え続ける、不気味な顔の影のこと。

「……これが、証拠だ」

朔がテーブルに置いた懐中時計のガラス面には、今や二つの苦悶に歪む顔が、はっきりと浮かび上がっていた。それはまるで、佐伯先生と殺された先輩の死の表情を写し取ったかのようだった。響子は言葉を失い、青ざめた顔で時計と朔の顔を交互に見つめた。彼女の瞳に、ようやく恐怖と理解の色が浮かぶ。

その時だった。

朔の世界が、ぐにゃりと歪んだ。視界が急速に白んでいく。耳の奥で、キーンという金属音が鳴り響く。まずい、また「空白」が来る。今ここで意識を失えば、次に目覚めた時、世界はどうなっている?

「朔っ!」

響子の悲鳴が遠のいていく。その声に重なるように、無数の冷たい囁き声が、脳内に直接響き渡った。

『我々は、ここに在る。我々は、この世界に、再び、生まれ落ちるのだ』

意識が途切れる直前、朔は見た。響子の背後、喫茶店のガラス窓に映った自分の姿が、自信に満ちた笑みを浮かべる、見知らぬ男の顔へと変貌していくのを。

第五章 浸食する存在

目覚めは、驚くほど穏やかだった。差し込む朝日が心地よい。霧島朔はベッドから身を起こし、見慣れた自室を見渡した。だが、そこは「霧島朔」の部屋ではなかった。壁に貼られたポスターは、内向的な朔が決して選ばないであろう、明るいロックバンドのものに。本棚には、社交術や自己啓発の本が並んでいる。

鏡の前に立つ。そこに映っているのは、間違いなく自分の顔だ。しかし、その瞳に宿る光は、かつての気弱なそれとはまるで違う。自信に満ち、人を惹きつけるような、強い光。

彼は、自分が「影山律」になったのだと、何の疑問もなく理解した。

コンコン、とドアがノックされ、響子が入ってきた。彼女は少し心配そうな顔で、律の額に手を当てる。

「律、起きた? 昨日、喫茶店で急に倒れるから心配したよ。それに、『霧島朔』って誰かの名前? 夢でも見てたの?」

その言葉は、冷たい刃のように律の胸――その奥深くに残された、朔の最後の残滓――を貫いた。響子の記憶から、「霧島朔」は完全に消え去っていた。

机の上に、あの懐中時計が置かれている。律はそれを手に取った。かつて無数の顔の影が浮かんでいたガラス面は、まるで新品のように磨き上げられ、一点の曇りもない。

カチ、カチ、カチ。

止まっていたはずの針が、静かに、しかし力強く、新しい時を刻み始めていた。

第六章 誰そ彼の輪郭

大学へ向かう道すがら、誰もが彼を「律」と呼んだ。「よぉ、律!」「影山くん、おはよう!」。その声に、彼は完璧な笑顔で応える。世界は「影山律」を何の疑いもなく受け入れ、祝福しているようだった。霧島朔という、存在の薄かった青年がいた痕跡は、どこにもない。

ふと、律は街角の古い時計屋のショーウィンドウに目を留めた。埃を被ったアンティーク時計の中に、かつて自分が持っていたものとよく似た、銀の懐中時計が飾られている。

そのガラス面に、一瞬だけ、悲しげな瞳をした誰かの顔が映ったような気がした。

それは、完全に消え去ったはずの、霧島朔の顔だったのかもしれない。あるいは、これから生まれる新たな「空白」を喰らい、世界に生まれ落ちようと待っている、名もなき遺念の顔だったのかもしれない。

律は小さく首を振ると、何事もなかったかのように雑踏の中へと歩き出した。彼の輪郭は、茜色の夕日を浴びて、もはや誰にも揺るがされることのない、確固たる「存在」としてそこに在った。

誰そ彼時(たそかれどき)。世界の境界が曖昧になる、黄昏の空の下で、一つの存在が消え、一つの存在が始まった。その事実を覚えている者は、もうどこにもいない。

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