忘却のレセプター

忘却のレセプター

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第一章 苦い珈琲の味

古書店『アウリガ』の扉が開くたび、古紙の甘い匂いと湿ったインクの香りが、雨音の隙間を縫って僕、湊(ミナト)の鼻腔をくすぐる。今日は一日中、空が泣いていた。棚に並ぶ背表紙の森も、心なしか重く沈んでいるように見える。

そんな灰色の午後に、彼女は現れた。

水滴をまとったトレンチコートの裾を気にしながら、栞(シオリ)と名乗った女性は、震える手で小さな包みをカウンターに置いた。

「彼が、いたんです。確かに、ここに」

掠れた声だった。彼女の瞳は、ありえないものを見てしまった子供のように、不安げに揺れている。包みから現れたのは、何の変哲もないマグカップ。縁が少し欠けている。

「ハルキ、という名前でした。私の、恋人。でも、今朝起きたら、彼の部屋は空っぽで、友人も、家族さえも、誰も彼のことを覚えていないんです。まるで、最初から存在しなかったみたいに」

僕は黙って頷き、カップを手に取った。指先が陶器の冷たさに触れた瞬間、舌の上に微かな気配がよぎる。僕は目を閉じ、祈るようにして、カップの縁をそっと舐めた。

――広がるのは、深く焙煎された豆の、焦げる寸前の苦味。その奥に、ミルクを入れ忘れた後悔のような、微かな甘み。そして、明け方の静けさの中で、誰かが囁く声の温かさ。

「……彼は、いましたね」僕は目を開けて告げた。「とても苦いけれど、優しい味の珈琲を淹れる人だ」

栞の瞳から、堰を切ったように大粒の涙がこぼれ落ちた。

この世界では時折、嘘が現実を侵食する。誰かがついた些細な嘘が、世界のディテールを密かに書き換えるのだ。ほとんどの人間はその変化に気づかない。昨日まで青かったはずの郵便ポストが赤くなっても、「元々赤かった」と思い込むだけ。だが僕の舌だけが、書き換えられる前の真実の『味』を覚えている。僕は他者の失われた記憶を、味覚として感じ取ることができるのだ。

第二章 虹色の砂時計

ハルキという青年の痕跡は、綺麗に消え去っていた。住民票も、SNSのアカウントも、栞のスマートフォンの写真フォルダからも。まるで神様が丁寧に消しゴムをかけたように。

「これほど完璧な消失は、ただの嘘じゃない。もっと巨大な何かが関わっている」

店の奥、僕だけの書斎で、埃をかぶった桐の箱を開ける。中には、くびれた硝子に虹色の結晶が詰められた、古びた砂時計が鎮座していた。僕の能力を増幅し、同時にその代償から守ってくれる唯一無二の道具、『記憶の砂時計』だ。

「栞さん。ハルキさんとの、一番強烈な思い出を教えてください」

彼女は俯き、ぽつりぽつりと語り始めた。初めて二人で訪れた海辺のこと。強風にあおられて、彼の帽子が飛ばされたこと。笑いながら追いかける彼の背中と、その手に握られた、甘酸っぱいレモネードのこと。

彼女の言葉に呼応するように、砂時計の中の結晶が数粒、ひときわ強くまたたいた。僕はそのうちの一粒をつまみ上げ、静かに舌の上に乗せた。

瞬間、世界が反転する。

舌を刺す鋭い炭酸の刺激。目の覚めるようなレモンの酸味と、夏の陽射しを溶かし込んだような蜂蜜の甘さ。耳元で潮騒が轟き、砂の粒子が肌を撫でる感触が蘇る。そして聞こえた。優しい青年の声が。「大丈夫、僕が君を忘れないから」。

それは、ハルキが存在したという、何より雄弁な真実の味だった。

しかし、強烈な記憶を味わった代償は、即座に訪れる。脳の片隅が、ふっと冷たくなる感覚。あれは確か、小学生の頃の夏祭り。金魚すくいの屋台の前で、父とはぐれて泣いた記憶。その情景が、色褪せた写真のように掠れ、消えていく。僕は壁に手をつき、軽いめまいが過ぎ去るのを待った。砂時計の結晶は、有限だ。そして僕の記憶も。

第三章 書き換えられる風景

ハルキが遺した数少ないメモの断片から、彼が『アルゴス・プロジェクト』という巨大都市開発計画を追うジャーナリストだったことが判明した。僕と栞は、その計画の中心地だった湾岸エリアへと向かった。

そこは今、美しい芝生と近代的な噴水が整備された、市民の憩いの場となっていた。家族連れが笑い、カップルが寄り添っている。どこにもおかしな点はない。

だが、僕が地面に触れ、その土のかけらを口に含んだ瞬間、穏やかな風景は味覚の中で地獄へと変わった。

――錆びた鉄が焦げ付く不快な味。硫黄の悪臭。そして、鼓膜を突き破るような無数の悲鳴がもたらす、強烈な酸味。

ここは公園などではない。かつて、大規模な地盤沈下事故が起きた場所だ。多くの命が、この美しい芝生の下に埋もれている。

「彼は、この事故の真相を追っていたんだ」僕の声は震えていた。「プロジェクトの欠陥を隠蔽するために、事故そのものが『なかったこと』にされた。そして、真実に近づきすぎた彼も…」

その時、空を見上げた僕は息を呑んだ。いつも見慣れていたはずのオリオン座の三ツ星が、ほんのわずかに歪み、四つの星になっている。栞も、他の誰も、その異常に気づかない。世界の書き換えが、加速している。巨大な嘘が、今この瞬間も現実を蝕んでいるのだ。

第四章 巨大な嘘の正体

調査の末、僕たちは一つの名前に辿り着いた。黒川剛志。アルゴス・プロジェクトの最高責任者であり、現在は市政に絶大な影響力を持つ権力者。彼こそが、この『巨大な嘘』の発信源に違いなかった。

雨の夜、僕たちは黒川の屋敷に忍び込んだ。書斎に飾られていた一枚の写真が、僕の足を止める。そこには、幼い少女と幸せそうに微笑む若き日の黒川が写っていた。その少女の顔に見覚えがあった。事故の犠牲者リスト、その消されたはずのデータの中にあった名前だ。

「まさか…」

「真実など、人を不幸にするだけだよ」

背後から、冷たい声が響いた。黒川が、感情の読めない瞳で僕たちを見据えていた。

「あの事故で、私は娘を失った。だが、私の嘘は、世界を書き換えた。この世界では、事故は起きていない。娘は病気で死んだことになっている。悲劇は、少しだけマシな物語に変わったのだ。ハルキ君は、その安寧を壊そうとした」

彼の言葉は、単なる責任逃れではなかった。それは、耐えがたい真実から逃れるための、父親の歪みきった愛の叫びだった。その強烈な意志が、現実をねじ曲げるほどの力となって世界を汚染していたのだ。

「私の嘘は、皆を幸せにするための嘘だ!」

黒川が叫んだ瞬間、世界のきしむ音が聞こえた。目の前に立つ栞の輪郭が、陽炎のように揺らぐ。彼女の瞳から、ハルキを想う光が、ほんの少しだけ薄れていくのがわかった。巨大な嘘が、最後の真実さえも飲み込もうとしていた。

第五章 最後の結晶

もう、時間がない。

躊躇は、敗北を意味する。僕は懐から『記憶の砂時計』を取り出した。そして、迷わずそれを逆さまにすると、口を開け、残っていた全ての虹色の結晶を喉の奥へと流し込んだ。

「ミナトさん、だめ!」

栞の悲鳴が遠のいていく。

刹那、僕の脳髄を、宇宙の創生にも似た情報の奔流が焼き尽くした。

地盤沈下で命を落とした人々の最後の恐怖。

我が子の名を呼び続けた母親の慟哭。

真実を暴こうとしたハルキの、インクと正義の味。

栞とハルキが交わした、レモネードの甘酸っぱい約束。

無数の失われた記憶が、甘味、苦味、酸味、塩味、旨味、そして名付けようのない幾千もの味となって、僕という存在の器を満たし、砕き、溢れ出していく。

同時に、僕自身の記憶が、猛烈な速度で剥がれ落ちていった。

母が作ってくれた卵焼きの優しい甘さ。

初めて自転車に乗れた日の、風の匂い。

古書店のカウンターから見える、雨の景色。

栞、という名前の、温かい響きさえも。

僕は、僕でなくなっていく。視界が真っ白に染まっていく。

第六章 真実の味

僕の身体から、虹色の光が解き放たれた。それは嘘を浄化する真実の奔流。僕が味わい、僕という存在と引き換えに解放した、世界が失ってしまった記憶の全てだった。

光は黒川の屋敷を、街を、世界を包み込む。

音を立てて、現実が『修復』されていく。美しい公園は、犠牲者の名前が刻まれた慰霊碑へと姿を変えた。空の歪んだ星座は、古来からの正しい配置を取り戻す。街行く人々がふと足を止め、忘れていたはずの悲しい事故と、それに立ち向かった一人の勇敢なジャーナリストの存在を、まるで昨日のことのように思い出す。

黒川は、愛する娘の死という、彼が最も恐れた真実と再び向き合い、子供のように泣き崩れた。

栞は、ハルキとの全ての記憶を鮮やかに取り戻し、その頬を熱い涙で濡らした。そして彼女は、光の中心で静かに佇む僕を見た。その瞳には、感謝と、そしてどうしようもない哀しみが浮かんでいた。

第七章 記憶の図書館

全てが終わり、僕は古書店『アウリガ』の椅子に座っている。窓の外では、あの日のような雨が降っている。僕はこの店が何なのか、自分が誰なのか、もう思い出せない。ただ、ガラスを伝う雨粒の軌跡を、生まれたての赤子のような、無垢な瞳でじっと見つめているだけだ。

「ミナトさん…」

優しい声がして、振り向く。そこには、僕を見つめて静かに微笑んでいる女性がいた。どうしてだろう、彼女を見ると、胸の奥が少しだけ温かくなる。

「ありがとう」

彼女はそう言って、涙を拭った。僕は、なぜ感謝されているのかも分からなかったが、ただ穏やかに微笑み返した。すると、僕の口から、まるで自分のものではないような言葉が、ひとりでにこぼれ落ちた。

「……レモネードは、甘酸っぱい味がする。誰かを想う、優しい味だ」

それは、僕が失ったはずの記憶の味。

湊という個人の物語は、砂時計の結晶と共に消え去った。だが、この身体には、この魂には、僕が守った世界の無数の真実が、永遠に消えない『味』として刻み込まれている。

僕はもう、湊ではない。

世界そのものの、『生きた記憶の図書館』になったのだ。

僕の言葉を聞いた栞は、もう一度だけ、悲しみと愛しさに満ちた美しい涙を流すと、何も語らず、ただ静かに僕の隣に座った。雨音だけが、二人の間に流れていた。

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