嘘と残響のプリズム

嘘と残響のプリズム

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第一章 色褪せた街と透明な人々

僕、湊(みなト)の瞳には、世界は常に油絵のように色彩が滲んでいる。それは比喩ではない。人々が過去に残した感情の痕跡――「残響」が、僕には色として視えるのだ。アスファルトに染み付いた焦燥の鼠色、公園のベンチに佇む追憶の薄紫、そして街路樹の葉陰で揺れる、嫉妬の淀んだ緑。この能力のせいで、僕の世界はいつも騒がしく、そして少しだけ息苦しかった。

この街では、嘘をついた人間の身体が透明になる。些細な嘘なら指先が霞む程度だが、悪意に満ちた大嘘は、その人間を半ば透けた幽霊に変えてしまう。彼らは物理的な実体を失いながらも、意識だけはそこに留まり、真実を告白するまでその姿で彷徨う。それがこの世界の理(ことわり)だった。

だから、街角で腕だけが消えたサラリーマンや、胴体から下が透けている主婦とすれ違うのは、ありふれた日常風景だった。人々は透明な部分を隠すように服を着こなし、何事もなかったかのように日々をやり過ごしている。嘘で透けた身体と、感情の残響が放つ色。そんな歪な現実が、僕の日常だった。

その均衡が崩れ始めたのは、秋風が吹き始めたある日の午後だった。

行きつけの花屋の老婆、チエさんが消えた。彼女は店先で、泣きじゃくる孫娘の頭を撫でていた。孫娘が落として割ってしまった花瓶を、自分が壊したと嘘をついたのだ。彼女の小さな手のひらが、ふっと透けていく。僕はその光景から目を逸らした。

だが、チエさんは孫娘を抱きしめ、囁いた。「大丈夫だよ。おばあちゃんはね、あなたのことが、本当に、本当に大切だから」。その言葉は、一点の曇りもない純粋な真実だった。彼女の全身から、朝焼けのような温かい黄金色の光が放たれる。あまりの眩しさに僕が目を細めた、その一瞬。

チエさんの姿は、光の粒子となって霧散し、跡形もなく消え失せていた。

残されたのは、泣きじゃくる孫娘と、地面に揺らめく、あまりにも優しい黄金色の残響だけ。僕はその場に立ち尽くし、全身の血が冷えていくのを感じた。なぜだ。嘘が人を透明にする世界で、なぜ、絶対的な『真実』が人を消し去るんだ?

第二章 消滅の連鎖

チエさんの消滅は、始まりに過ぎなかった。

ニュースは連日、同様の事件を報じた。長年の確執の末に心からの謝罪を口にした兄弟。死の淵で、妻に偽りない愛を告げた夫。生まれたばかりの我が子を抱きしめ、無垢な感情を伝えた母親。彼らは皆、最も純粋な真実を語った瞬間、光と共に消滅した。

世界は静かなパニックに陥った。人々は真実を語ることを恐れ、口を噤むようになった。本音を隠し、当たり障りのない嘘で日常を塗り固める。街から色鮮やかな感情の残響が消え、代わりに疑念や恐怖が放つ、濁った灰色の霧が立ち込めていった。僕の目には、世界そのものが色褪せ、死に向かっているように見えた。

消滅事件を調べるうちに、奇妙な共通点に気づいた。消えた人々は皆、掌サイズの滑らかな石を所持していたのだ。それは「色を失った虹の石」と呼ばれる、ただの透明な石ころだった。僕も持っている。幼い頃に亡くなった母が、お守りだと言って握らせてくれた、唯一の形見だ。

石を光にかざしてみる。何の変哲もない。冷たい感触が指先に伝わるだけだ。だが、これが消滅の鍵だというなら、母の死にも何か関係があるのかもしれない。母は僕の能力を知る唯一の人間だった。そして、いつも悲しそうな目で僕を見ていた。

「この世界は、優しい嘘でできているのよ、湊」

母が遺した言葉が、頭の中で木霊する。優しい嘘? この、嘘が人を罰する世界が? その言葉の意味を、僕はまだ理解できずにいた。

第三章 虹の石の囁き

焦りと孤独が、僕を蝕んでいった。自分の能力を誰にも打ち明けられず、世界が壊れていくのをただ見ていることしかできない。僕は自分自身に、ずっと嘘をつき続けていた。この力は呪いなんかじゃない、平気だ、と。

その夜、自室のベッドで膝を抱え、僕は心の底から呟いた。

「僕は……独りでも、大丈夫だ」

それは、僕が自分についた、最も強い嘘だった。

瞬間、左腕の感覚がふっと遠のく。見れば、肩から指先までが完全に透き通り、向こう側の壁がはっきりと見えた。嘘が僕自身を蝕んだのだ。絶望が胸を締め付ける。その時だった。

握りしめていた母の形見の石が、淡い光を放ち始めた。それは僕の心の奥底にある孤独と悲しみを映したかのような、深く、静かな藍色だった。そして、どこからか、直接脳に響くような囁き声が聞こえた。

――本当は、誰かにそばにいてほしい。

ハッとして、僕はその言葉を震える声で口にした。「本当は……誰かに、そばにいてほしい」。すると、どうだろう。透明だった左腕に血が通い、瞬く間に元の姿を取り戻した。手のひらに目を落とせば、石の藍色は消え、再びただの透明な塊に戻っていた。

これが、虹の石の力。嘘を打ち消すための『真実の言葉』を教え、持ち主を元に戻すための道標だったのだ。

ならば、この世界全体を覆っている「最大の嘘」も、この石が暴いてくれるかもしれない。消滅の謎を解く鍵は、そこにあるはずだ。僕はコートを羽織り、夜の街へ飛び出した。目指す場所は一つ。この街で最初の消滅が起きたとされる「始まりの広場」だ。

第四章 世界の亀裂

「始まりの広場」は、街の中心にありながら、今は誰も寄り付かない不気味な静寂に包まれていた。だが、僕の目には違う光景が映る。そこは、ありとあらゆる感情の残響が混ざり合い、渦を巻く、色彩の坩堝だった。喜びの黄色、怒りの赤、悲しみの青、そして名前のつけられない無数の色が、互いを喰らい合うように蠢いている。

広場の中央には、風化した石碑が一つ。僕は渦巻く色彩の嵐に目を眩ませながら、ゆっくりと石碑に近づいた。その表面に、そっと指を触れる。

次の瞬間、世界から音が消えた。

視界が真っ白に染まり、色彩の洪水が僕の意識を飲み込んでいく。強すぎる残響だ。それは、個人の感情などではなかった。何百万、何千万という人々の、絶望と、希望と、そして――「完全な真実だけが存在する世界を」という、狂気にも似た強烈な願いの色だった。

脳裏に、知らないはずの光景が流れ込んでくる。嘘と偽りが蔓延し、誰もが互いを信じられなくなった、荒廃した世界。人々が真実を渇望し、やがて科学の力で精神と思念だけの仮想世界を創り上げる計画を立てる。それが「プロジェクト・プリズム」。

彼らは、自らの肉体を捨て、存在そのものをエネルギーに変え、この世界を創造したのだ。

第五章 虚構の楽園

真っ白な光の中で、僕は世界の真実を識った。

僕らが生きるこの世界は、過去に滅んだ別世界の住民たちが、その最後の願いを込めて創り上げた『仮想の楽園』だった。彼らの世界は嘘に蝕まれ崩壊した。だからこそ、この新しい世界では嘘は罰せられ、真実は尊ばれる、完璧な法則が設定された。

だが、それは最大の矛盾を孕んでいた。

この楽園そのものが、「辛い現実から逃げ出した」という、巨大で、そして優しい嘘の上に成り立っていたからだ。

人々が「純粋な真実」に触れて消滅していたのは、罰ではなかった。それは、帰還だったのだ。この仮想世界を支える「嘘」の根幹が、真実の力によって剥がれ落ち、創設者たちが元いた「現実(=肉体を失った無の世界)」へと還っていく現象。消滅は、この虚構世界の終わりが近いことを示す、崩壊の兆しだった。

「君が、最後の鍵だ」

光の中から、思念体となった創設者たちが語りかけてくる。彼らの姿はなかったが、その声は後悔と、そして微かな希望に満ちていた。

「我々は失敗した。真実だけを求めた結果、真実によって消え去る世界を創ってしまった。だが、この世界で生まれた君には、選択肢がある」

彼らは僕に二つの道を示した。一つは、この世界の真実を知った上で、それを隠し通すという「最大の嘘」をつき、この虚構の楽園を維持し続ける道。もう一つは、全てを受け入れ、他の人々と同じように「真実」と共に消滅し、本来の世界へ還る道。

第六章 君が選ぶ色の未来

僕は真っ白な世界から、元の広場へと引き戻された。手の中には、まだ透明なままの虹の石が握られている。この石に、僕の最後の嘘を、あるいは最後の真実を、刻む時が来た。

この美しい嘘の世界を、僕は愛していた。感情の色は時に僕を苦しめたが、チエさんが残した愛情の金色のように、心を温めてくれる色も確かに存在した。嘘をついて透けてしまった人々も、真実を語れずにもがく人々も、皆、必死に生きていた。不完全で、矛盾だらけで、それでも輝いていた。

それを、僕が終わらせるのか?

空を見上げる。そこには、プログラムされた偽りの青空が広がっていた。だが、その青は、僕が今まで見てきたどんな悲しみの青よりも、澄んでいて、美しく見えた。

ポケットから取り出した虹の石を、強く、強く握りしめる。もし僕が「この世界は本物だ」と嘘をつけば、石は何色に染まるだろう。世界を救いたいという願いの、純粋な金色だろうか。それとも、全てを欺く罪悪感の、深い黒だろうか。

あるいは、もし僕が「これが僕の真実だ」と、この世界の終わりを受け入れたなら。僕は光となって消え、この石だけが、後に残るのかもしれない。

どちらを選んでも、それは僕だけの真実だ。

僕はゆっくりと口を開いた。僕が紡ぐ言葉が、この世界の未来の色を決める。

「僕は――」

風が吹き、広場に渦巻いていた感情の残響が、僕の選択を待つかのように、静かに揺らめいていた。

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