第一章 腐った林檎のソナタ
月島律の人生は、常に不快な味と、やかましい色彩に満ちていた。彼は共感覚(シナスタジア)の持ち主だった。人々の声は彼の舌の上で様々な味となり、街を流れる音楽は彼の網膜にまだらな模様を描く。例えば、幼馴染の陽気な声は「蜂蜜レモンの酸味」、上司の叱責は「焦げ付いた鉄の味」として感じられた。世界は彼にとって、感覚の洪水であり、混沌だった。故に、律は調律師という職を選んだ。ピアノの前に座り、音の高低だけを純粋に追求する時間だけが、彼の世界から不純な味と色を消し去ってくれる唯一の聖域だったからだ。
その聖域が、ある雨の日の電話で侵された。「律くんか。僕だ、響野だ」。受話器から流れてきたのは、旧知の天才ピアニスト、響野玲の声。彼の声はいつも律に「澄み切った湧き水の味」を感じさせた。だが、その日の声は違った。水は濁り、微かな泥の味が混じっている。「頼みがある。僕のピアノが、嘘の音を奏でるんだ。調律してほしい。至急に」。
嘘の音を奏でるピアノ。その詩的な、しかし不穏な表現に、律は胸騒ぎを覚えた。翌日、玲の住む海沿いの瀟洒な屋敷を訪れた律を迎えたのは、駆けつけた警察官と、泣き崩れる玲の妻、瑤子だった。
玲は、書斎で冷たくなっていた。傍らには空の睡眠薬の瓶。警察は早々に事件性なしと判断を下した。しかし、律は書斎の中央に鎮座する、黒檀のグランドピアノから目が離せなかった。許可を得て鍵盤に触れる。ポーン、と鳴らした中央のハ音。完璧なピッチ。調律は狂っていない。だが、その音を核として生まれる倍音の連なりが、律の脳を直接殴りつけるような強烈な感覚を引き起こした。
それは、腐ってぬかるんだ林檎を無理やり口に詰め込まれたような、甘く不快な味。そして視界には、病的な黄緑色とどす黒い赤が、粘液のように混じり合うイメージが広がった。
これは、ただの音ではない。音に込められた、強烈な悪意と絶望。響野玲は、こんな音を奏でる人間ではない。そして何より、この音は、彼の死が単なる自殺ではないと、律の本能に告げていた。完璧に調律されたピアノが奏でる、存在しないはずの不協和音。律の孤独な捜査は、その腐った林檎の味から始まった。
第二章 嘘の味、偽りの色
警察が引き上げた後、律は改めて関係者から話を聞くことにした。彼の捜査方法は一つしかない。相手の言葉がもたらす「味」と「色」を分析することだ。
最初に口を開いたのは、未亡人となった瑤子だった。「主人は……最近、新しい曲作りに悩んでいました。ええ、少し、神経質になっていたかもしれません」。彼女の言葉は、まるで上質なシルクのように滑らかだった。だが、律の舌には、甘ったるい香水の風味の奥に、ピリリと痺れるような苦い薬品の味がこびりついた。彼女の瞳に浮かぶ悲しみの色は、まるで舞台照明で照らされた作り物の青だった。
次に話を聞いたのは、玲の一番弟子だという青年、東儀奏(とうぎ かなで)。彼は師の死を心から悼んでいるように見えた。「先生は僕の光でした。先生のいない音楽界なんて……」。彼の言葉は、焦がしたカラメルのような味がした。甘い憧憬の中に、ほろ苦い嫉妬が確かに混じっている。彼の語る追憶の色は、燃えるようなオレンジ色の中に、時折、煤のような黒い影が混じった。
最後に会ったのは、玲の長年のライバルと目されていたピアニスト、霧生響(きりゅう ひびき)だった。彼は玲の訃報にも顔色一つ変えず、冷ややかに言った。「天才の夭折はよくある話だ。惜しいが、彼の時代は終わった。それだけのことだろう」。彼の言葉には、味がなかった。氷を舐めているかのような、無機質な冷たさだけが舌に残る。彼の放つオーラは、一切の光を反射しない、 абсолютная (アブソリュート)・ゼロの黒。感情の色彩が、そこには存在しなかった。
三者三様の話。しかし、誰もが何かを隠している。律は屋敷の書斎に戻り、再びピアノの前に座った。あの「腐った林檎の味」の正体は何なのか。彼は鍵盤を一つ一つ確かめるように弾いていく。単音では何も感じない。特定の和音か? いくつものコードを試すが、あの強烈な不快感は再現できない。
自分の感覚だけが頼りの捜査は、深い霧の中を一人で歩くようなものだった。共感覚という、誰にも理解されない能力。それは呪いであり、孤独の証明だった。玲はなぜ、あんな音を残したのか。いや、残されたのか。もしかしたら、これは自分にしか解けない、死者からのメッセージなのではないか。その考えに至った時、律は書棚の隅に挟まっていた一冊のノートに気づいた。それは、玲が書きかけていた、未完成の楽譜だった。
第三章 沈黙の和音
その楽譜は、嵐のような激しいパッセージで始まっていた。律は楽譜をピアノの譜面台に置き、震える指で最初の音を奏でた。玲の魂が乗り移ったかのような、悲痛で、しかし美しい旋律。律は没頭して弾き続けた。曲は中間部で穏やかな調べに変わり、そして、ある特定のフレーズに差し掛かった。
その瞬間、再び、あの感覚が律を襲った。
「――ッ!」
腐った林檎の味。病的な黄緑色と黒ずんだ赤の渦。
間違いない。この楽譜の、この部分だ。律は楽譜に記された和音を凝視した。音楽理論的には、決して不自然ではない、むしろ洗練された響きを持つはずの和音だった。しかし、律の感覚にとっては、それは紛れもない「毒」だった。
なぜだ? なぜ、この和音だけが?
律はハッとして、ある可能性に思い至った。この和音を構成する三つの音。その調律が、他の音と、ごく僅かに、常人には聴き分けられないレベルで、ずらされているのではないか。彼は愛用のチューナーを取り出し、一つ一つの音を計測した。
結果は、律の予想を根底から覆した。
調律は完璧だった。一ヘルツの狂いもない。
では、この不快な感覚はどこから来るのか。律は頭を抱えた。自分の感覚が狂っているのか? それとも、この謎には、もっと別の次元の答えがあるのか?
その時、彼の脳裏に、霧生響の「味のない言葉」と「色のないオーラ」が蘇った。感情が欠落したかのような、あの不自然なまでの無。それは、感情を押し殺している人間のそれとは違った。まるで、最初からそこに何もないかのような、空虚な無だった。
そうだ。もし、犯人が、自分と同じ共感覚者だったら?
その仮説は、全てのピースをあるべき場所に嵌めていくようだった。犯人は、玲を殺害した後、ピアノに細工をした。それは物理的な細工ではない。共感覚者にしか知覚できない、「感覚の罠」だ。特定の和音を弾いた時、ある種の「感覚の不協和音」が生じるように、音の倍音構造を巧みに調整したのだ。それは、玲が共感覚者であることを知る者による、悪趣味な挑戦状であり、嘲笑だった。
「響野さん、あなたも……僕と同じだったのか」
律は呟いた。孤独だと思っていた世界に、もう一人、同じ感覚を持つ人間がいた。そして、その人はもうこの世にいない。呪いだと思っていたこの能力が、初めて死者との間に細い絆を結んだ瞬間だった。しかし、その絆は、玲が遺した最後のメッセージを解読するという、重い使命を律に課していた。玲は、犯人の仕掛けた「感覚の罠」に気づき、死の直前、その罠を逆用して、真犯人を示すメッセージを上書きしたのではないか。この「腐った林檎の味」こそが、玲のダイイングメッセージなのだ。
第四章 調律される魂
律は、霧生響を玲の屋敷に呼び出した。書斎のピアノの前に座った律は、やってきた霧生に静かに告げた。
「玲さんが遺した曲を、聴いていただけますか」
霧生は無表情のまま頷いた。律は、あの未完成の楽譜を奏で始めた。激しく、そして悲しい旋律が部屋を満たす。そして、問題のフレーズに差し掛かった時、律は霧生の顔を注視した。
和音が鳴り響いた瞬間、霧生の氷のような仮面が、僅かに、本当に僅かに、歪んだ。眉間に刻まれた皺は一瞬で消えたが、律は見逃さなかった。
「……見事な曲だ。未完なのが惜しまれる」
霧生の言葉は、相変わらず味がしなかった。だが、律にはもう分かっていた。
「この和音を聴いた時、どんな味がしましたか? どんな色が見えましたか?」
律の問いに、霧生の瞳が鋭く光った。「何を言っているのか、意味が分からないな」
「僕も、あなたも、同じなんですよ」律は続けた。「僕たちには、音に味や色がついて回る。玲さんもそうだった。だからあなたは、彼に嫉妬した。彼の才能は、あなたと同じ土俵で、しかしあなたを遥かに凌駕していたからだ」
霧生は黙っている。律は立ち上がり、彼に向き合った。
「あなたは玲さんを殺害し、彼を嘲笑うためにピアノに『感覚の罠』を仕掛けた。この和音を弾くと、共感覚者には『無味無臭の虚無』を感じさせるように。あなたの内面そのもののようにね。玲さんが共感覚者なら、その屈辱が分かるだろうと」
「……憶測だな」
「ええ。でも、玲さんはあなたの想像を超えていた。彼は死の間際に、あなたの仕掛けた『虚無の和音』に、たった一つの音を上書きしたんです。あなたの音楽を聴いた時に、彼がいつも感じていたであろう、一つの感覚を。それは、熟れた才能が内側から腐っていくような……そう、『腐った林檎の味』だ」
その言葉が引き金だった。霧生の無表情が崩れ、憎悪に満ちた色が浮かび上がった。それは、律がピアノから感じた、あの病的な黄緑とどす黒い赤そのものだった。
「あの男は! いつも私の先を行っていた! 私だけが理解できるはずの世界で、あの男は私よりも遥かに美しい音色を見ていた!」
事件の真相は、孤独な共感覚者同士の、あまりにも歪んだ愛憎劇だった。霧生は逮捕され、事件は解決した。
律は一人、夕暮れの書斎でピアノの前に座っていた。呪いだと思っていた能力が、死者の声を聞き、真実を明らかにした。それは、初めて彼の能力が誰かのために役立った瞬間だった。孤独な魂が、音を通して別の魂と繋がったのだ。
彼は静かに鍵盤に指を置いた。そして、玲が遺した曲を、今度は最後まで、心を込めて奏でた。メロディーは悲しみを超え、やがて穏やかな光に満ちたフィナーレへと向かっていく。その音色は、律の心の中で、温かいオレンジ色と、ほんのり甘いミルクティーの味に変わっていった。
世界は相変わらず感覚の洪水に満ちている。だが、今の律には、それが少しだけ違って聞こえ、違った味に感じられた。街の喧騒も、人々の話し声も、全てがこの世界を構成する一つのシンフォニーなのだと。彼はこれからも調律師として生きていく。ピアノの音だけでなく、世界に満ちる無数の音に、そしてその奥にある人々の魂の響きに、耳を澄ませながら。