***第一章 静寂に満ちる歓喜***
私の仕事は、物に触れ、そこに遺された感情の残響を聴くことだ。人は私を「感情調律師」と呼ぶ。表向きは古美術品の修復家だが、時折、伊吹刑事のような無骨な男が、常識では律しきれない事件を持ち込んでくる。
「響野さん、またあんたの力が必要になった」
受話器の向こうで、伊吹刑事の低く、疲れた声が響いた。彼の声には、いつも事件現場の鉄と血の匂いが混じっているように感じる。
現場は、都心の一等地に聳え立つタワーマンションの最上階。被害者は、現代音楽の寵児と謳われた作曲家、月島奏(つきしま かなで)。書斎は内側から鍵が掛けられた完全な密室で、荒らされた形跡は一切ない。毒物も検出されず、外傷もなく、死因は急性心不全とされた。だが、伊吹刑事は腑に落ちないと言う。
「状況だけ見ればただの病死だ。だが、妙なんだ。彼の顔が……まるで恍惚としたまま、笑って死んでいるように見えた」
重厚なマホガニーの扉を開けると、空気が震えた。そこは音のない音楽で満たされていた。壁一面の楽譜、グランドピアノ、使い込まれた指揮棒。そして、その空間の中心に、月島奏が死の瞬間に放ったであろう感情が、濃密な霧のように漂っていた。私は薄い手袋を外し、彼が突っ伏していたデスクの冷たい木肌に、そっと指先で触れた。
瞬間、奔流が私の中に流れ込む。
それは、絶望でも、恐怖でも、苦痛でもなかった。
純粋な、一点の曇りもない、至高の『歓喜』。
全身の細胞が歓声(うた)い、魂が天へと駆け上がっていくような、絶対的な幸福感。脳髄を焼き尽くすほどの多幸感に、思わず膝が折れそうになる。こんな感情は初めてだ。人が殺される――あるいは、死にゆく瞬間に抱く感情とは到底思えなかった。
「……どうだ、響野さん。何か感じたか?」
背後で伊吹刑事が息を殺している。私はゆっくりと目を開け、震える声で答えた。
「ええ……。でも、信じられない。ここに残っているのは、ただ、ひたすらに純粋な……喜びだけです。まるで、神の御業に触れたかのような、歓喜が」
伊吹刑事は眉間に深い皺を刻んだ。
「歓喜、だと? 殺されたかもしれない男が、死ぬ間際に?」
この不可解な感情こそが、事件の唯一の鍵だった。密室で死んだ天才作曲家が遺した、あまりにも場違いなダイイング・メッセージ。私は、この静寂に満ちる歓喜の謎を解き明かすべく、深く、昏い感情の海へと漕ぎ出す覚悟を決めた。
***第二章 不協和音の肖像***
月島奏の人生は、その音楽のように劇的だった。若くして才能を見出され、数々のコンクールを総なめにしたが、ここ十年は深刻なスランプに陥っていたという。我々は、彼の周辺に渦巻く不協和音を一つひとつ聴いて回ることにした。
最初に話を聞いたのは、月島の弟子であり、近年その才能を師に脅威とまで言わしめた若き作曲家、新堂誠(しんどう まこと)。彼は師の死に憔悴しきった様子だったが、その瞳の奥には、抑えきれない野心が揺らめいていた。
「先生は……完璧を求めるあまり、ご自分を追い込みすぎていた。僕が新しい曲を発表するたびに、焦燥感を募らせておられたようです。あの日も、先生は『もうすぐだ、神の領域に触れる一曲が完成する』と、狂気じみた目で語っていました」
新堂の言葉には、師を悼む響きと、自らがその座を継ぐことへの期待が奇妙に同居していた。彼が月島の才能に嫉妬し、そのプレッシャーから解放されたいと願っていたとしても不思議ではない。しかし、彼の感情の底流にあるのは焦燥と野心であり、あの純粋な『歓喜』とは似ても似つかない。
次に会ったのは、月島の妻、小夜子(さよこ)だ。芸術家の妻という仮面の下で、彼女は夫の才能が枯渇していく様に絶望していた。
「あの方は、もう音楽を生み出せなくなっていました。リビングで空っぽの五線譜を前に、何時間も、何日も動かないこともあった。私との生活も、音楽のための道具でしかなかった。正直に言えば……解放された、という気持ちがないわけではありません」
彼女の感情は、長年の抑圧から解き放たれた安堵と、空虚感の入り混じった灰色の感情だった。これもまた、『歓喜』とは程遠い。
伊吹刑事は、月島が巨額の借金を抱えていたこと、彼の作品の権利を巡ってレコード会社とトラブルになっていたことなどを突き止めた。容疑者リストには何人も名が挙がり、誰もが動機を持っていた。だが、彼らの感情をどれだけ探っても、あの現場にあった天上の歓びとは繋がらない。まるで、異なる次元の出来事のようだった。
私は再びあの書斎を訪れる許可を得た。月島の肖像が、まるで全てを見透かすように私を見つめている。私はグランドピアノの鍵盤に触れた。冷たく、滑らかな象牙の感触。そこから流れ込んできたのは、月島の長年にわたる苦悩と渇望だった。指が震え、鍵盤が鳴る。不協和音。彼の人生そのもののような、救いのない音だった。
なぜ、これほどの苦悩を抱えた男が、最後に『歓喜』を感じたのか。犯人が彼を殺害し、その犯人が歓喜した? いや、あの感情はあまりに純粋で、他者への悪意や達成感といった不純物を含んでいなかった。あれは、月島奏自身の感情に違いない。
だとすれば、彼はなぜ、喜んだのか。死の淵で。
***第三章 旋律は自らを奏でる***
捜査は暗礁に乗り上げた。伊吹刑事は、結局ただの病死として処理するしかないと諦めかけていた。だが、私には確信があった。あの『歓喜』の感情は、この事件の本質を指し示す唯一の羅針盤なのだと。
私は三度、月島の書斎を訪れた。許可された時間はわずかだ。目を閉じ、全ての意識を指先に集中させ、もう一度、デスクに触れる。あの奔流のような歓喜が、再び私を包み込む。今度は流されない。その感情の核へ、さらに深く潜っていく。
何度も、何度も、追体験を繰り返す。すると、その絶対的な幸福感の奥底に、今まで気づかなかった微かなニュアンスを感じ取った。それは『完成』の感覚。そして、全てから解き放たれる『解放』の安堵。パズルの最後のピースがはまった時のような、宇宙の秩序と一体化するような、完全なる調和の感覚。
その瞬間、雷に打たれたような衝撃が全身を貫いた。
私は、根本的な思い違いをしていたのかもしれない。
これは、殺された者の感情ではない。
そして、殺した者の感情でもない。
これは、月島奏が、自らの死の瞬間に、偽りなく感じていた感情そのものなのだ。
では、誰が彼を殺した?
違う。問いが間違っている。
『何が』彼を殺したのか?
私は部屋を見渡した。壁一面の楽譜。グランドピアノ。そして、デスクの上に散らばる、書きかけの五線譜。そこに、インクが滲んだ最後の音符があった。
仮説が、狂気じみた旋律となって頭の中で鳴り響く。
月島奏は、スランプの末に、ついに神がかった一曲を完成させたのだ。彼が追い求め続けた、完璧な一曲を。
そして、その完成した旋律を、頭の中で奏でた。あるいは、実際にピアノで音にしたのかもしれない。
その音を聴いた瞬間、あまりの美しさ、あまりの完璧さに、彼の心臓は耐えきれなかった。至高の芸術は、それを生み出した創造主の魂を、肉体から引き剥がしてしまった。彼の精神は、自らが創造した音楽と共に天上の歓喜へと達し、肉体だけが地上に残された。
犯人は、人間ではない。
彼を殺したのは、彼自身が生み出した『音楽』だった。
だから、密室は完璧だった。誰も入る必要はなかったのだから。だから、彼の顔は恍惚としていた。彼は人生で最高の瞬間に、その人生を終えたのだ。
これは殺人事件ではない。芸術による、あまりにも美しく、そして残酷な自死だ。
***第四章 残響のレクイエム***
「……馬鹿なことを言うな、響野さん」
私の突飛な推理を聞いた伊吹刑事は、呆れたように首を振った。「音楽が人を殺す? SFじゃあるまいし」
「物理的な証拠は何一つありません。あるのは、私が感じ取った、あの『歓喜』の感情だけです。でも、それ以外に、この密室と彼の表情を説明できるものがありますか?」
私の目は、真剣だった。伊吹刑事はしばらく黙り込んでいたが、やがて何かを思い出したように、部下に指示を出した。
「……月島のデスクにあった楽譜を、専門家に解析させてみてくれ」
数日後、伊吹刑事から連絡があった。彼の声は、困惑と畏怖に染まっていた。
「専門家が、匙を投げた。あの楽譜は……人間が演奏することも、理解することも、ほとんど不可能だそうだ。数学的なまでに完璧な構造を持ちながら、その旋律は、聴く者の精神の根幹を揺さぶる何かを含んでいる、と。一人の研究者は、解析中に気分が悪いと言って倒れた。まるで、禁断の知識に触れたかのように……」
事件は、公式には「持病の心疾患による突然死」として処理された。月島奏が遺した最後の楽譜は、危険物として警察の資料庫の奥深くに封印された。世界がその旋律を耳にすることは、もうないだろう。
私は、自分の能力について、少しだけ考え方が変わった。これまで、私は死者の無念や悲しみを晴らすために、この力を使ってきた。感情とは、誰かとの関係性の中で生まれるものだと信じていた。
しかし、月島奏の『歓喜』は違った。それは誰にも向けられていない。内側から湧き上がり、彼自身を完結させた、絶対的な感情だった。芸術とは、創造とは、時にそれほどまでに純粋で、孤独で、そして人の命すら奪うほどの力を持つものなのかもしれない。
あの日以来、私の耳には時折、聴こえるはずのない旋律が響くことがある。それは、月島奏が最後に聴いた、歓喜のレクイエムの残響なのかもしれない。
最高の芸術は、人を救うのか、それとも滅ぼすのか。
その答えは、おそらく誰にも分からない。ただ、封印された楽譜のように、世界には触れてはならない美しさが確かに存在するのだということだけを、私は静かに受け止めていた。その真実の重みに、私の心は静かに調律されていくのだった。
感情調律師と歓喜の密室
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