第一章 沈黙のプレリュード
古いグランドピアノの内部は、静謐な小宇宙だ。埃と木の匂いが混じり合い、フェルトと金属が息を潜めて出番を待っている。俺、音無響(おとなしひびき)は、その宇宙の調和を取り戻す調律師だ。チューニングハンマーを握り、一本の弦を弾く。キィン、と澄んだ音が工房に響き渡り、やがて空気の中に溶けていく。俺にとって、この瞬間だけが唯一の安らぎだった。
かつて、俺はピアニストだった。神童と呼ばれ、未来を嘱望された。だが、ある日を境に、俺の世界は不協和音に満たされた。人の「内なる音楽」が聞こえるようになってしまったのだ。喜びは軽快なワルツに、悲しみは重苦しいアダージョに、怒りは耳障りなクラスターコードに聞こえる。人の感情が、望みもしないのに絶えず耳に流れ込んでくる。その混沌に耐えきれず、俺は舞台を降りた。今では、言葉を発しないピアノだけが、俺の心を乱さない唯一の対話相手だ。
その日も、工房で古いベヒシュタインの修理に没頭していると、ドアベルがけたたましく鳴った。そこに立っていたのは、見覚えのある憔悴しきった顔。国内屈指のヴァイオリニスト、高遠(たかとお)だった。彼の内側からは、弦が切れそうなほど張り詰めたヴィオラの悲鳴が聞こえてくる。
「音無君、頼む。玲奈を…月島玲奈を診てやってくれないか」
月島玲奈。彼女は次世代の天才と謳われるピアニストで、高遠の婚約者だ。太陽のような笑顔と、情熱的な演奏で聴衆を魅了する彼女の音楽を、俺もかつては好んで聴いていた。
「診る、とは? 俺は医者じゃない。ただの調律師だ」
「違うんだ! 玲奈から…彼女から、音楽が消えたんだ」
高遠に連れられて訪れた月島のマンションは、モノクロームの映画のように色彩を失っていた。窓から差し込む光さえも、どこか力がない。そして、リビングの中央に置かれたスタインウェイの前に、彼女は人形のように座っていた。
月島玲奈は、そこにいた。しかし、彼女の内に在るはずの、あの奔放で輝かしい音楽が、完全に消え失せていた。完全な沈黙。それは死んだピアノの弦よりも空虚で、絶望的な無音だった。彼女の瞳は美しいガラス玉のように澄んでいたが、何も映してはいない。笑うことも、泣くことも、もちろんピアノを弾くこともしないという。
「一週間前、コンクールのための新曲を仕上げた直後から、急にこうなったんだ。精神科にも連れて行ったが、原因は不明だと…」高遠が絞り出すように言った。
俺はゆっくりと彼女に近づいた。彼女の内なる沈黙は、ただの精神的な落ち込みなどではなかった。そこには、何者かによって完璧に音が「抜き取られた」ような、暴力的な空白があった。まるで、美しい音色を奏でていたオルゴールから、櫛歯(くしば)だけがごっそりと抉り取られたかのような、不自然な欠落。これは事故でも病でもない。誰かが、彼女の魂そのものである音楽を「盗んだ」のだ。俺の全身に、忘れていたピアニストとしての血が逆流するような、戦慄と怒りがこみ上げた。
第二章 不協和音の残響
俺は高遠に事情を話し、独自の調査を開始した。警察に話したところで、魂を盗まれたなどと信じる者はいないだろう。これは、俺にしか聞こえない音を追う、孤独な捜査だ。
まず、玲奈が「沈黙」する直前に完成させたという新曲の楽譜を見せてもらった。そこには、彼女らしい情熱と繊細さが同居する、息をのむほど美しい旋律が記されていた。しかし、楽譜の最終小節の余白に、奇妙な記号が一つ、鉛筆で小さく書き込まれているのを見つけた。それは古い音叉を図案化したような、見慣れないマークだった。
「このマークに心当たりは?」
高遠は首を横に振る。「いや…ただ、最近玲奈は、あるコレクターと会っていた。美術品や骨董品を集めているという、風変わりな人物だ。確か、『マエストロ』と名乗っていた」
マエストロ。その名前は、俺たちの業界でも一部で囁かれていた。決して表には姿を現さず、才能ある若手芸術家に接触しては、そのインスピレーションの源を天文学的な価格で買い取るという謎のパトロン。だが、その実態を知る者は誰もいなかった。
俺は過去の記憶をたどった。この数年、玲奈と同じように、突然スランプに陥り、活動を休止した若き芸術家たちが何人かいたことを思い出す。彫刻家、画家、そして音楽家。世間は彼らを「燃え尽き症候群」だと片付けたが、もし彼らもまた、魂の核心をマエストロに盗まれていたとしたら?
俺は自身の能力を研ぎ澄まし、玲奈が最後に訪れた場所、彼女が会った人々との記憶に残る音の残響を追った。彼女の部屋、練習スタジオ、行きつけのカフェ。どこも、彼女の華やかな音楽の残り香は薄れ、代わりに奇妙な不協和音が微かに響いていた。それは、深く澱んだ嫉妬と、満たされない渇望が歪に混じり合った音色。犯人が残した、唯一の手がかりだった。
数日間の調査の末、俺は一つの場所にたどり着いた。都心から離れた、古い倉庫街の一角。そこから、あの不協和音が最も強く聞こえてくる。重い鉄の扉を開けると、中は別世界だった。薄暗い空間に、何百というアンティークのオルゴールがガラスケースの中に鎮座している。壁一面の棚に並ぶ様は、まるで音楽の墓標のようだ。そして、その一つ一つから、かつては誰かの魂だったであろう、か細い旋律が漏れ聞こえてきた。玲奈のものとよく似た、しかし持ち主を失い、ただ虚しく繰り返されるだけの旋律が。ここは、盗まれた音楽たちの霊廟だった。
「ようこそ、響。君がここに来ることは分かっていたよ」
空間の奥の闇から、聞き覚えのある声がした。車椅子に乗った一人の男が、静かに姿を現す。その顔を見た瞬間、俺は息を呑んだ。時間が、凍り付いた。そこにいたのは、俺がかつて唯一ライバルと認め、そして親友だった男。事故でピアニスト生命を絶たれたはずの、神楽坂奏(かぐらざかかなで)だった。
第三章 砕かれたフーガ
「奏…? なぜ、お前がここに…」
俺の声は震えていた。奏は穏やかに微笑んだが、その瞳の奥には、俺の知っている光はなかった。代わりに、俺が追い続けてきたあの不協和音――嫉妬と渇望の渦が、静かに揺らめいていた。
「僕が『マエストロ』だよ。驚いたかい?」
奏はそう言うと、手元にあった小さな銀色の音叉をそっと指で弾いた。キィン、という澄んだ音が、オルゴールたちの悲しい旋律と共鳴し、空間全体を震わせる。
「ピアニストは指を失うと、何も生み出せなくなる。僕の音楽は、あの日、事故と共に死んだ。自分の内側から音が消え、世界はただの雑音に満ちた地獄になった。…でも、気づいたんだ。音楽は、奪うことができる、と」
奏の告白は、淡々としていた。彼は事故の後、音響物理学と心理学を狂ったように学び、人の精神の根幹を成す「内なる音楽」に共鳴し、それを抜き取る特殊な音叉を開発したのだという。彼は、自らが失った美しい音楽を、他人の魂から収集していたのだ。玲奈の楽譜にあったマークは、彼の音叉の紋章だった。
「玲奈君のプレリュードは傑作だった。僕のコレクションに加えるのに、ふさわしい逸品だ」
奏は恍惚とした表情で、棚の一つを指さした。そこには『月島玲奈 プレリュードOp.28』と記された真新しいオルゴールが置かれていた。
俺は怒りと悲しみで、言葉を失った。だが、それ以上に俺を打ちのめしたのは、彼の次の言葉だった。
「最初にこの音叉を試したのは、君だったんだよ、響」
記憶の扉が、軋みを立てて開く。ピアニストだった頃、俺はコンクールを前に原因不明のスランプに陥った。音が聞こえなくなり、指が動かなくなり、そして…あの混沌とした能力が目覚めた。あれは、ただのスランプではなかった。
「君の音楽が欲しかった。誰よりも輝いていた君の才能が。でも、君の音楽はあまりに複雑で、あまりに強すぎた。僕の音叉では、それを完全に抜き取ることができなかったんだ。結果として、君の魂の調律を狂わせ、他人の音が流れ込むようにしてしまった…すまないと思っているよ。僕の、唯一の失敗作だ」
全身の血が凍りつくような感覚。俺を苦しめ続けてきたこの呪われた能力は、親友の歪んだ嫉妬が生み出したものだった。俺の人生を根底から変えたあの出来事が、彼の最初の犯行だったのだ。憎しみ、憐れみ、裏切られた悲しみ。俺の内側で、感情のオーケストラがめちゃくちゃな不協和音を奏で始める。価値観が、世界が、足元から崩れ落ちていく。
第四章 未完成のソナタ
「さあ、響。今度こそ、君の音楽を完成させ、僕のコレクションに加えよう」
奏はそう言うと、車椅子を静かに動かし、俺に向かって音叉を構えた。その銀色の先端が、悪魔の指揮棒のように見えた。
だが、俺はもう逃げなかった。俺は奏を通り過ぎ、倉庫の片隅に置かれていた一台のアップライトピアノの前に座った。鍵盤は埃を被り、調律も狂っているだろう。だが、構わなかった。
「奪うことはできないさ、奏。音楽は、奏でるものだからだ」
俺は鍵盤に指を置いた。そして、弾き始めた。それは、かつて俺と奏が、二人で夜を徹して練習したショパンのノクターン。だが、旋律はオリジナルとは違っていた。そこには、俺がこの能力を得てから聞いた、数え切れない人々の心の音――喜びも、悲しみも、怒りも、そして目の前にいる奏の絶望と渇望の不協和音さえも、すべてが織り込まれていた。
俺の音楽は、完璧な調和からはほど遠い。だが、そこには魂の叫びがあった。奪われた玲奈の音楽への祈りがあった。道を誤った親友への、鎮魂歌があった。
奏の手から、音叉が滑り落ちた。カラン、と乾いた音を立てて床を転がる。彼の頬を、一筋の涙が伝っていた。
「…そうだ。これが…これが、音楽だ。奪うものでも、箱に閉じ込めるものでもない…。生きて、呼吸しているものなんだ…」
俺が最後の和音を弾き終えると、奏はゆっくりと立ち上がった。そして、壁一面のオルゴールに向き直り、一つ一つ、その蓋を開け始めた。解放された旋律は、すぐに持ち主の元へ完全に戻るわけではないだろう。だが、微かなこだまとなって、あるべき場所へと旅立っていくのが、俺には聞こえた。
奏は、何も言わずに倉庫から去っていった。彼がどこへ向かったのかは分からない。だが、彼の内側から聞こえていたあの痛ましい不協-和音は、最後にはほんの少しだけ、穏やかな響きに変わっていた。
数ヶ月後、俺は小さなコンサートホールのステージに立っていた。客席には、まだ完全ではないが、少しだけ表情を取り戻した玲奈と、彼女を支える高遠の姿が見える。
俺は鍵盤に指を置き、深く息を吸った。客席から聞こえてくる、一人一人の内なる音楽。それは喜び、不安、期待、悲しみが入り混じった、不完全で、不協和音だらけの交響曲。かつては呪いでしかなかったその音が、今では信じられないほど愛おしく感じられた。
俺は弾き始める。これは、誰かのために奏でる音楽だ。失われた者たちのために。道を失った友のために。そして、不完全なまま生きていく、すべての人々のために。
音楽は、決して完成しない。人もまた、同じだ。だからこそ、僕らは奏で続けなければならないのだ。自らの魂の、未完成なソナタを。