愛する嘘と、朽ちない誓約

愛する嘘と、朽ちない誓約

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第一章 震えない掌

雨の匂いがした。

黴びたカーペットと、湿気を吸った古紙の澱んだ空気が、弁護士事務所の応接室に充満している。

壁に掛けられたカレンダーに目をやる。

日付を示す数字は、黒い染みのように崩れ落ちていた。

『10月』までは読めるが、その先はインクが重力に負け、判読不能な模様を描いている。

本棚の判例集も同様だ。

背表紙の金文字は剥がれ落ち、ただの分厚い紙束へと還りつつある。

『真実の変容』。

記録が物理的に劣化し、デジタルデータさえもビットの海へ溶けていくこの世界で、過去を繋ぎ止める術は失われたはずだった。

だが。

目の前の老弁護士が差し出した封筒だけが、異様な存在感を放っていた。

「藍沢悠様からの、最期の依頼です」

取り出された便箋。

その紙面を見た瞬間、喉の奥が引き攣った。

黒い。

あまりにも、黒すぎる。

まるで数秒前に万年筆を走らせたかのように、インクのエッジが鋭く紙に食い込んでいる。

周囲のすべてが輪郭を失っていく世界で、その文字だけが暴力的なまでに鮮明だった。

『誓約(ヴォートゥム)』。

劣化を免れる唯一の絶対契約。

その代償に、術者の命そのものを要求するとされる禁断の術式。

「……読んでください」

私は便箋を受け取る。

指先が微かに痺れた。

右手に宿る、忌々しい能力が反応しかけている。

他人の嘘に触れると、電流のような痙攣が走る私の右手。

『漣へ』

懐かしい筆跡。

毎朝、食卓のメモに残されていた、少し右上がりの文字。

『これを読んでいる頃、僕はもういない。

許してほしい。僕は君を愛していなかった。

僕が君に近づいたのは、君の「嘘を見抜く能力」を利用し、組織の内部情報を盗み出すためだ。

この遺言状は、組織との取引の証に過ぎない』

心臓が早鐘を打つ。

呼吸が浅くなる。

嘘だ。

あの日々が演技だったはずがない。

冬の朝、冷え切った私の足を、自分のふくらはぎで挟んで温めてくれた体温。

喧嘩をした夜、背中合わせのベッドで、不器用に私の小指に絡めてきた指先。

焦げたトーストを笑い合い、安いワインで祝った何でもない夜。

あの五感の記憶すべてが、偽りだったというのか?

私は右手に全神経を集中させる。

震えろ。

頼むから、震えてくれ。

これが「嘘」だと、私の体に教えてくれ。

しかし。

私の右手は、凍りついたように静止していた。

筋肉の収縮ひとつない。

死人の手のような、完全な沈黙。

「……嘘だろ」

声が掠れる。

震えがないということは、これは「真実」なのか?

それとも。

「香月様」

弁護士が事務的に告げる。

「藍沢様は、指定の場所へ行くよう書き残されています。東湾岸、第4倉庫」

私は遺言状を握り潰した。

愛する者が嘘をつく時だけ、私の能力は無効化される。

この沈黙は、悠の言葉が真実だからか。

それとも、私がまだ彼を愛しているからか。

どちらにせよ、私は地獄にいた。

第二章 空白の記録

東湾岸、第4倉庫。

潮風が錆びたトタンを叩き、不快なリズムを刻んでいる。

スマホを取り出し、悠が追っていた事件の記事を検索する。

画面に表示されたのは、虫食いだらけのテキストだった。

『20XX年、●●建設は……(データ破損)……により、多額の……』

肝心な固有名詞はすべて黒いノイズに覆われている。

『真実』はこうして、誰の記憶からも消されていく。

倉庫の扉は半開きになっていた。

中から、男たちの低い声が漏れ聞こえてくる。

「手帳がないぞ」

「確かにここに来たはずだ。あの秘書が持っていた」

私は身を翻し、積み上げられたコンテナの影に滑り込んだ。

隙間から覗く。

中央の空間に、男が倒れていた。

胸を赤く染めたその男は、悠が接触していた政治家の秘書だ。

その周囲を、スーツ姿の二人組が苛立ちながら探っている。

殺し屋だ。

「おい、こっちを探すぞ。建材の下かもしれん」

二人が死体から離れ、奥の棚へ向かう。

今しかない。

私は音もなく駆け出した。

死体の横に滑り込む。

秘書の左手は、不自然な形で建材の隙間に伸びていた。

死の直前、何かを隠そうとしたように。

手を突っ込む。

指先に、冷たい革の感触が触れた。

あった。

悠の、藍色の革手帳。

それを引き抜いた瞬間、背後で足音が止まった。

「――おい」

気づかれた。

私は振り返りもせず、コンテナの迷路へと飛び込んだ。

「逃がすな!」

「撃て!」

乾いた銃声が響く。

弾丸がコンクリートを削り、破片が頬を掠める。

私は二階へと続くキャットウォークへ駆け上がり、鉄骨の陰に身を隠した。

荒い息を整えながら、手帳を開く。

白紙だった。

文字はどこにもない。

インクが飛んだのではない。最初から書かれていないのだ。

だが、私は知っている。

悠が昔、得意げに見せてくれた子供じみたトリックを。

『大事なことはね、熱の中に隠すんだ』

ポケットからライターを取り出す。

ページの下から火を炙る。

紙が焦げる寸前、茶色い文字が浮かび上がった。

『第4倉庫。ここは囮だ』

心臓が跳ねる。

『完璧な遺言状(ヴォートゥム)も、僕の裏切りも、すべて君を遠ざけるための演技だ。

そうしなければ、奴らは君を殺す』

視界が滲んだ。

文字が揺れる。

『僕は嘘をつく。

僕の嘘が完璧であればあるほど、君は僕を憎み、安全な場所へ逃げられるから』

右手を見る。

震えていない。

悠は知っていたのだ。

私が「愛する者の嘘」を見抜けないことを。

それを逆手に取り、命を賭けて私を守るための檻を作った。

「馬鹿野郎……」

愛されていないと知れば、私が諦めるとでも思ったのか。

それとも、真実を知っても尚、怯えて逃げ出すような男だと?

私は手帳をめくる。

最後のページに、URLとパスワードの入力欄を示すQRコードが浮かび上がった。

世界の根幹を揺るがす『原本』データへの鍵。

だが、パスワードの記載はない。

あるのは、手書きの走り書きだけ。

『Password: The day we became accomplices.(共犯者になった日)』

下から、男たちの足音が近づいてくる。

鉄階段がきしむ音。

私はスマホを取り出し、アクセス画面を開いた。

第三章 真実の代償

「共犯者になった日」

悠と私の記念日など、いくらでもある。

出会った日。

初めてキスをした日。

同棲を始めた日。

だが、悠がそんな安直な日付を鍵にするはずがない。

思考を巡らせる。

悠にとって、私たちが単なる恋人を超え、運命を共にする「共犯者」になった瞬間とは?

記憶の底から、ある雨の日の光景が蘇る。

――あれは、初めて私が自分の「能力」を悠に打ち明けた夜だ。

化け物だと怖がられるのを覚悟で、震える手を見せた私に、彼はただコーヒーを淹れて言った。

『なら、僕の嘘もいつかバレちゃうね』

そう言って彼は、私の震える右手を両手で包み込んだ。

『でも大丈夫。君の手が震えない時、それは僕が本当のことを言っているか、君が僕を愛し続けてくれている証拠だから』

あの日だ。

愛という名の、甘美な共犯関係が結ばれた日。

日付を打ち込む。

指が震えることはない。

これは賭けではない。確信だ。

『認証成功』

画面に文字列が奔流となって溢れ出す。

巨大な不正の証拠。

消されたはずの真実。

画面の下部に、「アップロード」のボタンが点滅している。

指が止まる。

これを押せば、世界はひっくり返る。

組織は崩壊し、社会は混乱するだろう。

そして、私自身も二度と平穏な生活には戻れない。

悠が命を捨ててまで守ろうとした「私の安全」は、このボタン一つで水泡に帰す。

彼の願いを裏切るのか?

彼が最期についた、あの完璧な嘘を無駄にするのか?

足音がすぐそこまで来ている。

銃口の冷たい気配。

私は目を閉じる。

悠の笑顔が浮かぶ。

「君には、光の中で生きていてほしい」

そんな彼の声が聞こえた気がした。

「……ごめん、悠」

私は呟く。

謝罪ではない。愛の言葉だ。

君は僕を守ろうとした。

でも、僕は君の「意志」を守りたい。

君が命を懸けて暴こうとした真実を、闇の中に葬らせはしない。

君の嘘が僕への愛なら。

僕の裏切りもまた、君への愛だ。

「見つけたぞ!」

男が踊り場に姿を現す。

銃口が私に向けられる。

私は男を見据え、笑った。

かつてないほど、晴れやかな気分だった。

「遅いよ」

指先に力を込める。

アップロードボタンを押した。

送信バーが一瞬で右端まで走り抜ける。

銃声。

熱い衝撃が左肩を貫いた。

スマホが手から滑り落ち、床に叩きつけられる。

だが、画面には『送信完了』の文字が輝いていた。

データは放たれた。

もう誰にも、消すことはできない。

私は崩れ落ちそうになる体を、手すりで支える。

痛みよりも先に、胸の奥から熱いものが込み上げてきた。

自分の右手を見る。

静かだ。

微塵も震えていない。

世界は嘘で満ちている。

記録は消え、記憶は薄れる。

インクは滲み、データは壊れる。

それでも。

この掌に残る「震えのなさ」だけは。

君が遺した、朽ちることのない愛の証明だけは。

永遠に、真実だ。

遠くでサイレンが聞こえる。

雨雲の隙間から、薄い光が差し込んでいた。

AIによる物語の考察

**深掘り解説文**

**登場人物の心理**:
藍沢悠は、愛する香月漣を守るため、自らへの憎悪を承知で「愛していない」という完璧な嘘をついた。彼の行動は、漣への深く歪んだ愛と、彼女が自身の意志を継ぐ「共犯者」となることへの絶対的な信頼を抱いていた証。漣は、悠の痛ましい嘘の裏に隠された真意と愛を読み解き、守られる存在から、彼の遺志を継ぎ、真実を暴く「裏切り者」へと覚醒します。

**伏線の解説**:
劣化を免れる「誓約」による遺言状は、失われゆく真実の中で悠の意志を永遠に刻みます。漣の「右手の震え」は、愛する者の嘘を判別できない制約が、悠の偽装を完璧にし、最終的に「揺るぎない愛」の証明となる。熱で浮かび上がる手帳の文字は、二人の過去と結びつき、真実を照らす鍵です。

**テーマ**:
本作は、記録が劣化し真実が変容する世界で、「愛」と「意志」がいかに唯一不変の真実たりえるかを問います。自己犠牲を伴う「愛する嘘」と、それを継ぐ「愛する裏切り」が交錯し、真の愛と信頼が持つ、朽ちることのない強さと可能性を描き出しています。
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