時の澱に眠る願い
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時の澱に眠る願い

第一章 残響の街

霧雨が石畳を濡らす港町。僕、アキの肌には、その冷たさとは違う、もう一つの感覚がまとわりついていた。それは時間の歪みが引き起こす微弱な振動。この街に暮らすようになってから、こめかみの奥で鳴り続ける低周波の耳鳴りのように、それは僕の日常に溶け込んでいた。

人々は皆、その身に生きた時間の証を刻んでいる。長く生きれば生きるほど、その輪郭は薄れ、やがて向こう側の景色が透けて見えるようになる。それがこの世界の理。老いるとは、透明になること。そして、最後には光の中に溶けて消えることだと、誰もが信じていた。

だが、近頃はその理が狂い始めている。

「急速透明化現象」

本来、数十年かけて進むはずのそれが、わずか数週間で人を虚空へと攫っていく。僕は、その現象が起きた場所に残る、常人には感知できない「残響」を追っていた。

港の突端、今はもう主を失った灯台へと歩を進める。またひとつ、強い残響が僕を苛んでいた。ズキリ、と脳を直接握り潰されるような痛みが走る。数日前までここにいた灯台守が、昨日の朝、家族の前から忽然と姿を消したのだという。彼の生きた時間は、まだ透明になるには早すぎたはずだった。

灯台の入り口、湿った石段の上に、それは落ちていた。砂糖菓子のように微かに煌めく、小さな結晶。時間の流れからこぼれ落ちた悲しみの澱。「時の澱」と、僕はそれを呼んでいる。

そっと指で拾い上げようとした、その時だった。

「そこで、何をしているの」

振り返ると、一人の女性が立っていた。雨に濡れた黒髪を肩で切り揃え、父親のものを借りてきたような大きな外套を羽織っている。その瞳は、失われた何かを探すように、不安と、そして僕への鋭い警戒心で揺れていた。彼女の身体はまだ、命の色を濃く宿している。

「父のいた場所に、何かあったんですか」

彼女が、消えた灯台守の娘、エラだとすぐにわかった。彼女の全身から放たれる強い悲しみが、僕の肌をピリピリと震わせる。僕は彼女の問いに答えられず、ただ、握りしめた時の澱の冷たさだけを感じていた。僕の肉体は時間の流れから隔離されている。何百年生きようと、この青年の姿のままだ。彼女のように、当たり前に時間を重ねて透明になっていくことすら、僕には許されていない。

だから、彼女にかける言葉を、僕は持たなかった。

第二章 澱が映す幻影

街を見下ろす丘の上の、廃墟となった時計塔。そこが僕の住処だった。止まったままの巨大な歯車たちが、僕と同じように、時の流れから取り残されている。

持ち帰った灯台守の「時の澱」を、そっと手のひらに乗せる。結晶に意識を集中させると、冷たい感触が熱を帯び、指先から記憶の奔流が流れ込んできた。

空間が歪む。目の前に、灯台のランプ室の幻影が広がった。そこに立つ、日に焼けた灯台守の姿。彼の身体は、すでに半分透けている。だが、その表情に恐怖はない。むしろ、どこか安堵したような、穏やかな微笑みさえ浮かべていた。

『エラ……すまない。でも、もう行かなくては』

彼の声が、空間に直接響く。視線は、港を見下ろす窓の外、遠い水平線の先へと注がれている。彼の身体から金色の光の粒子が立ち上り、まるで空に吸い込まれていくかのように、その輪郭が急速に掻き消えていく。

『ああ……なんて、自由なんだ』

最後に残ったのは、娘への想いと、不思議なほどの解放感。そして、僕には理解できない、高みへと至る歓喜だった。

幻影が消え、僕は激しい頭痛と共に現実へと引き戻される。急速透明化は、悲劇ではないというのか? まるで、自ら望んで消えているかのようだ。これまで集めた他の「時の澱」も同じだった。残された家族への未練の奥に、必ずと言っていいほど、この奇妙な「解放感」が潜んでいた。

数日後、エラが時計塔を訪ねてきた。僕の不審な行動を嗅ぎつけたのだろう。彼女は固い表情で僕を問い詰めた。

「あなたは、父の失踪について何か知っている。あの時も、何かを隠していた」

隠し通すことはできない。僕は覚悟を決め、自らの能力と、「時の澱」が見せる幻影について、ありのままを話した。彼女は最初は信じられないという顔をしていたが、僕が彼女の父親の最後の言葉を口にすると、その瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。

「父は……自由になった、と?」

「僕にも、まだ理解できません。でも、これは単なる失踪ではない。彼らは何かを求めて、どこかへ向かっているのかもしれない」

その日から、僕とエラの奇妙な共同調査が始まった。彼女は街に残された記録を調べ、僕は次々と発生する現象の現場で「時の澱」を集める。孤独な観測者だった僕の隣に、初めて他者の体温が寄り添った。それは、止まっていた僕自身の時間を、ほんの少しだけ動かすような、不思議な感覚だった。

第三章 時間の防波堤

エラの調査によって、急速透明化現象が、街の地下に広がる古代遺跡の周辺に集中していることが判明した。そこは「時間の流れが不安定な場所」として、古くから立ち入りが禁じられている領域だった。

僕たちは、意を決して遺跡の深部へと足を踏み入れた。空気が澱み、壁を伝う雫の音だけが響く。奥へ進むにつれて、僕を苛む振動は激しさを増し、立っていることさえ困難になるほどの頭痛が全身を貫いた。

「アキ、大丈夫!?」

エラが僕の腕を支えてくれる。彼女の憂いを帯びた瞳を見ていると、不思議と痛みが和らぐ気がした。

そして、僕たちは遺跡の最深部、広大な空洞に辿り着いた。その中央に、それは鎮座していた。僕の背丈ほどもある、巨大な「時の澱」の結晶。無数の人々の願いと記憶が凝縮され、内側から淡い光を放っている。この街で消えた、全ての人々の名残がここにあるのだ。

僕は何かに導かれるように、その結晶へと手を伸ばした。

指先が触れた瞬間、世界が砕け散った。

時間と空間の感覚が失われ、僕の意識は、この世界の創生まで遡る。膨大な情報が、濁流となって脳内になだれ込んできた。

――この世界は、緩やかに死につつある。目に見えぬ「時間汚染」が全てを蝕み、存在そのものを摩耗させているのだ、と。

人々が老いて透明になるのは、その汚染によって存在が削られているに過ぎない。そして急速透明化とは、汚染された時間から逃れるため、人々が無意識のうちに自らの存在を分解し、より安定した高次元の領域へと移行しようとする、魂の緊急避難だったのだ。

その時、僕の脳裏に直接、声が響いた。冷たく、感情のない、まるで機械のような声だった。

『観測者よ。ようやく真実に辿り着いたか』

「誰だ……?」

『我らはこの世界の調律者。そして、お前は我らが創りし「防波堤」』

声は語る。僕の、時間の流れから隔離された不老の肉体は、この世界に蔓延する時間汚染を吸収し、留め置くための器なのだと。僕が存在し続けることで、汚染の進行は緩和され、世界は延命してきた。

しかし、その代償として、僕という巨大な「重し」が、人々が高次元へ移行するのを阻害していた。彼らが完全に解放されず、中途半端な「残響」や「時の澱」としてこの世に留まってしまうのは、すべて僕のせいだったのだ。

エラの父親も、他の消えた人々も、僕という楔に魂を縛り付けられ、完全な自由を得られずにいる。

僕の存在こそが、この世界の悲劇の源だった。人々を救うふりをして、実は最も深く彼らを苦しめていた。その残酷な真実が、僕の心を粉々に打ち砕いた。

第四章 透明なる選択

意識が現実に戻ると、僕は空洞の床に膝をついていた。隣で、エラが息を呑んで僕を見ている。僕が結晶に触れた瞬間、彼女にも真実の一端が伝わったのだろう。彼女の顔は蒼白だった。

「アキ……あなたが……」

彼女の声が震えている。

僕は、彼女の父親を、この街の人々を、この苦しみの連鎖に縛り付けていた元凶。憎まれても仕方がなかった。だが、エラの瞳に浮かんでいたのは、憎しみではなかった。それは、僕という孤独な存在に向けられた、深い、深い哀れみだった。

「……どうすれば、みんなを解放できる?」

僕の口から、かろうじて言葉が紡がれる。

答えは、もうわかっていた。僕がこの世界から消えるしかない。僕が溜め込んだ全ての時間汚染と共に、僕自身が消滅すれば、人々を縛る楔はなくなる。

僕はゆっくりと立ち上がり、エラに向き直った。

「エラ、ありがとう。君と会えて、僕は……僕の止まっていた時間が、少しだけ意味を持てた気がする」

「いや……行かないで!」

彼女が僕の腕を掴む。その温もりが、僕の決意を鈍らせそうになる。僕はそっとその手を振りほどき、微笑んでみせた。生まれて初めて、誰かのために、心の底から笑えた気がした。

僕は再び、巨大な時の澱へと向き直る。そして、自らの存在のすべてを解放するイメージを、強く、強く念じた。

僕の身体に、初めての変化が訪れた。指先から、ゆっくりと輪郭が薄れ、透き通っていく。何百年も変わることのなかった肉体が、ようやく時の流れに身を委ねていく。それは痛みではなく、むしろ温かい光に包まれるような、穏やかな感覚だった。

僕が光の粒子に変わっていくにつれて、巨大な結晶が呼応するように輝きを増す。やがて、結晶は砕け散り、そこから無数の光の蝶が舞い上がった。この街で消えた人々の魂だ。彼らは僕という呪縛から解き放たれ、空洞の天井を突き抜け、本当の自由へと昇っていく。

薄れゆく意識の中、エラが僕の名前を叫ぶ声が聞こえた。光の奔流の中に、僕は一瞬、微笑みながら手を振る灯台守の幻影を見た気がした。

アキが消えた後、街から急速透明化現象はなくなった。人々は再び、穏やかな時間の流れの中で、ゆっくりと身体を透き通らせていく日常を取り戻した。それが真の救いだったのか、それともただの忘却なのか、もはや誰にもわからない。

エラは時折、あの港の突端に立つ。かつて父がいた灯台を見上げ、そして、どこまでも広がる空を眺める。

そこにはもう、彼を苛んだ時間の残響も、父の苦しみの痕跡もない。

ただ、静かで、どこまでも優しい時間が流れている。一人の孤独な観測者が、その身を賭して世界に遺した、切なくも美しい解放の余韻だけを、頬を撫でる潮風に乗せて。

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