虚無の色のレクイエム

虚無の色のレクイエム

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第一章 色のない部屋

音葉朔(おとはさく)の世界は、常に過剰な色彩で溢れていた。怒りは網膜を焼く緋色、喜びは弾ける黄金の飛沫、そして嘘は濁った泥のような黄土色。彼は、他人の感情がオーラとして見える「共感覚」の持ち主だった。その能力は、時として鋭利な刃物のように彼の心を抉り、彼はいつしか人との間に透明な壁を築き、古書の修復師という静寂な仕事に安息を見出していた。

そんな朔にとって、色彩研究家の彩森(あやもり)教授は唯一の例外だった。老教授の周りには、常に春の陽だまりのような穏やかな若草色のオーラが漂い、朔の神経を優しく撫でてくれるのだ。だから、その知らせを聞いた時、朔の世界からは一瞬にしてすべての色が消え去った。

警察からの連絡を受け、教授の書斎に足を踏み入れた朔は、言葉を失った。そこは、彼の知る彩森教授の部屋ではなかった。壁一面を埋め尽くしていた世界中の色彩見本、色鮮やかな学術書、窓辺に置かれたプリズム――そのすべてが、まるで魂を抜き取られたかのように色褪せ、モノクロームの濃淡に成り果てていた。空気は重く冷たく、インクと古い紙の匂いだけが、かろうじてここが書斎であったことを示している。

安楽椅子に深く身を沈めた教授は、眠るように穏やかな顔をしていた。しかし、その亡骸の周りには、奇妙な現象が起きていた。死の直前の恐怖や苦痛の色がない。それどころか、生命が消えた後に残るはずの静かな灰色のオーラさえ存在しなかった。そこにあるのは、ただの「無」。朔がこれまで一度も見たことのない、感情とも生命とも結びつかない、完全な空白。まるで、空間の一部がごっそりと抉り取られたかのような、異質な空虚だった。

「老衰による心不全。事件性はありません」

刑事の言葉は、色を失った部屋に無機質に響いた。だが、朔には確信があった。これは、ただの死ではない。この異常なまでの「色の喪失」は、教授が殺されたことを示す、声なき叫びだ。

刑事たちが引き上げた後、朔は一人、部屋に残った。教授の机の上、開きっぱなしの古書の間に、一枚のカードが挟まっているのに気づく。彼はそれをそっと抜き取った。それは、何の変哲もない、真っ白なカードだった。インクの染み一つ、エンボス加工の一つもない、完璧なまでの白。しかし、朔がそれを指先でなぞった瞬間、彼は微かな違和感を覚えた。それは、色ではない。温度でもない。だが、彼の感覚が、その白が「尋常ではない」と告げていた。これが、恩師が残した最後のメッセージだと、朔は直感した。

第二章 饒舌な色彩

警察が事件性なしと結論付けた以上、朔が頼れるのは自身の能力だけだった。彼は教授の死の直前に彼を訪ねていたという二人の人物に会うことにした。

最初に訪ねたのは、新進気鋭の若手研究員、神崎(かんざき)だった。彼は教授の研究の後継者と目されていたが、その野心は誰の目にも明らかだった。研究室で会った神崎の周りには、焦燥と嫉妬が入り混じった、燃え盛るような赤紫のオーラが渦巻いていた。

「先生が亡くなるなんて、信じられません。あんなに元気だったのに……」

神崎の言葉とは裏腹に、彼のオーラは「好機」と叫んでいた。朔は、その感情の奔流に吐き気すら覚えながら、核心に迫る質問を投げかけた。

「最後に教授とお会いした時、何か変わったことはありませんでしたか?」

「いえ、特に……。いつものように、新しい顔料の研究について熱心に語っておられました」

神崎のオーラの縁が、嘘を示す黄土色に僅かに滲む。彼は何かを隠している。だが、それが教授の死に直接結びつくものなのか、朔には判断がつかなかった。

次に会ったのは、教授に多額の借金をしていたという美術商の黒田(くろだ)だった。古美術品が並ぶ薄暗い店内で、黒田は終始俯き、その全身は恐怖と後悔を示す深い藍色と絶望の鉛色に染まっていた。

「私が……私のせいで先生は……」

彼は言葉を詰まらせ、懺悔するように語った。事業の失敗で多額の負債を抱え、教授に金の無心をしていたこと。最後に会った日も、金のことで口論になったこと。

「先生を追い詰めてしまった……」

黒田のオーラは、彼の言葉が真実であることを示していた。しかし、そこに殺意の色はなかった。あるのは、取り返しのつかない後悔と、自らを責める苦悩の色だけだ。

朔は混乱していた。神崎は何かを隠し、黒田は自責の念に駆られている。どちらも怪しい。しかし、あの「無」のオーラに繋がる決定的な色が見つからない。それどころか、彼らの強烈な感情の色がノイズとなり、朔の思考を麻痺させていく。能力に頼れば頼るほど、真実は遠ざかっていくようだった。真っ白なカードを握りしめ、彼は自らの無力さに苛立ちを募らせていた。世界はこんなにも饒舌な色彩で満ちているのに、なぜ自分は真実の色だけを見つけられないのか。

第三章 見えない悪意

調査は行き詰まった。朔は自分の能力に、そしてそれに依存しきっていた自分自身に絶望しかけていた。彼はもう一度、原点に戻ることにした。色を失った、あの書斎へ。

許可を得て再び足を踏み入れた部屋は、相変わらずモノクロームの静寂に包まれていた。朔は、自分の目を、共感覚というフィルターを一旦外すように意識した。ただの「物」として、部屋のすべてを観察し直す。床の染み、本の配置、空気の流れ。彼はまるで古書を修復するように、慎重に、丹念に、部屋の細部を検証していった。

そして、書棚の奥、教授が最も大切にしていた研究ノートの山の中から、一冊だけ装丁の違うノートを見つけ出した。表紙には『VIII』というローマ数字だけが記されている。ページをめくると、そこに記されていたのは、朔の理解を、そして常識を遥かに超えた研究の記録だった。

『第8の色覚』

ノートはそう題されていた。人間が知覚できる可視光線――赤から紫までの7色のスペクトル。教授は、その外側に存在する「第8の色」、人間には知覚できない「スペクトル外の色」を追い求めていたのだ。そして、数ヶ月前、ついにその「色」を生成する特殊な顔料を合成することに成功したと記されていた。

教授はそれを『虚無の色(ネザー・クロマ)』と名付けていた。

その顔料は、周囲の光を異常な効率で吸収・屈折させる特性を持つ。人間の目には、それはただの「白」か、あるいは「透明」にしか見えない。しかし、特定の波長の紫外線、ブラックライトを照射した時のみ、その存在を示す特有の燐光を放つという。

ページをめくる朔の手が震えた。最後のページに、震えるような文字で追記があった。

『警告:ネザー・クロマは、皮膚に接触することで作用する強力な神経毒性を持つことが判明。即効性があり、心機能の停止を引き起こす。痕跡は一切残らない』

全身に鳥肌が立った。これだ。これが、あの書斎から色を奪い、教授のオーラを「無」に変えたものの正体だ。犯人は、この『虚無の色』を使って教授を殺害したのだ。朔の共感覚は、あくまで人間が知覚できる「色」に紐づいた感情を読み取る能力。だから、この「見えない色」が放つ、純粋で無機質な悪意を、彼は知覚できなかったのだ。

あの真っ白なカードは、ダイイングメッセージだった。教授は、自らを殺した「見えない色」の存在を、そのカードで示そうとしていたのだ。朔は自分の能力が初めて通用しない絶対的な悪意の存在に直面し、戦慄すると同時に、心の奥底で静かな闘志が燃え上がるのを感じた。もう、色に頼ることはできない。ここからは、純粋な論理と観察力だけが武器になる。

第四章 心のスペクトル

朔はホームセンターで強力なブラックライトを手に入れ、夜を待った。最初の目的地は、神崎の研究室だった。

「音葉さん、また何か……?」

怪訝な顔をする神崎を制し、朔は部屋の明かりを消し、ブラックライトのスイッチを入れた。紫色の光が室内を照らし出す。実験器具や薬品が不気味な光を放つ中、朔の目は一点に釘付けになった。神崎の白衣の胸ポケットに差された、一本の万年筆。そのペン先だけが、まるで暗闇に浮かぶ亡霊のように、禍々しい青白い燐光を放っていた。

「それは……教授が開発した『虚無の色』ですね」

朔の静かな声に、神崎の表情が凍りついた。彼の周りを渦巻いていた赤紫のオーラが、一瞬にして恐怖の深い青に変わる。

「何を……言っているのか……」

「教授のノートを読みました。あなたはその研究成果を独り占めするために、教授を殺した。私の能力を知っていたあなたは、感情の色が見えないこの毒を使えば、完全犯罪が成立すると考えたのでしょう」

神崎は、教授の研究を盗み見るうちに『虚無の色』の毒性を知った。そして、学会での発表を目前に控えた教授から、共同研究者としての名を外されたことに逆上し、犯行に及んだのだ。彼は、教授にインクが切れたと嘘をつき、毒を塗ったその万年筆を差し出した。教授が何気なくペン先を指で確認した、その一瞬が命取りとなった。

観念した神崎のオーラが、絶望の鉛色に沈んでいくのを、朔はただ静かに見つめていた。警察への通報を終え、研究室を出た朔を、冷たい夜風が迎えた。事件は解決した。だが、彼の心には達成感とは違う、不思議な静けさが広がっていた。

数日後、朔は彩森教授の墓前に立っていた。墓石に供えられた白い花を見つめながら、彼は自分の世界が少しだけ変わったことに気づいていた。もう、他人の感情の色に振り回されることはない。あれは、世界を構成する無数のスペクトルの、ほんの一部に過ぎないのだ。自分の能力は万能ではない。世界には、自分の知らない「色」が、まだ無限に広がっている。

その時、ふと、視界の端に新しい光が映った。それは、今まで見たことのない、どんな感情とも結びつかない、淡くも温かい、名付けようのない「色」だった。それは教授の墓石からではなく、隣で静かに手を合わせる、見知らぬ老婆の周りから放たれていた。

朔は、初めて自分の意志で、その色をただ美しいと思った。

人の心も、この世界も、自分の知覚できる範囲よりずっと豊かで、複雑で、そして美しい。その真実を教えてくれたのは、皮肉にも「見えない色」が引き起こした悲しい事件だった。

朔は空を見上げた。そこには、悲しみの青や感謝の金色だけではない、未来への希望のような、まだ名前のない無数の光の気配が満ちていた。彼は、その光の中で、静かに微笑んだ。

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