第一章 砂嵐の遺言
雨音だけが、僕の世界の全てだった。
正確には、ヘッドホン越しに流れる「雨の録音データ」だ。本物の雨は不規則すぎて、僕の神経を逆撫でする。管理された音、周波数が調整されたノイズだけが、この過敏な耳を鎮めてくれる。
「……すみません、営業中でしょうか」
重たい鉄の扉が軋み、湿った風と共に老婆が入ってきた。
僕はヘッドホンを少しずらす。
「『音響修復堂』へようこそ。どのようなご依頼で?」
目の前の老婆は、仕立ての良い着物を着ていたが、その裾は泥で汚れていた。震える指先が、バッグからカセットテープを取り出す。
プラスチックのケースは黄ばみ、ラベルには震える筆跡で『私の罪』とだけ書かれている。
「亡くなった夫の遺品です」
彼女の声は、枯れ葉が擦れるような乾いた音がした。
「夫は、死ぬ間際に言いました。『あのテープには、お前への裏切りと、俺の罪が入っている。絶対に聞かずに捨ててくれ』と」
「それを、聞きたいと?」
「ええ」
彼女は真っ直ぐに僕を見た。その瞳の奥には、恐怖と、それ以上の執着が燃えていた。
「夫は善人でした。でも、最期に私を見る目は……何かに怯えていた。裏切りとは何か。女か、金か、それとも過去の犯罪か。……私は真実を知ってからでないと、彼を本当に弔うことができないのです」
僕はテープを受け取った。
安物のノーマルポジション・テープ。保存状態は最悪だ。
「再生しても、ザーッという砂嵐のような音しか聞こえません。どうか、このノイズを取り除いて、夫の『罪』を暴いてください」
僕、一ノ瀬蓮(いちのせ れん)には、特殊な才能がある。
常人には聞こえない音の層を聞き分ける「絶対聴覚」だ。雑踏の中で落ちたコインの音と、その年号すら聞き分けられる。
「引き受けました。ただし、何が出てきても僕は関知しませんよ」
「構いません。……覚悟はできています」
老婆――静子さんは、カウンターに万札の入った封筒を置いた。
僕は機材の電源を入れる。真空管が温まり、オレンジ色の光が灯る。
ヘッドホンを装着し、再生ボタンを押す。
『ザザッ……ザザーッ……』
激しいホワイトノイズ。その奥底に、確かに「何か」が埋もれていた。
第二章 周波数の海へ
深夜二時。
スタジオの中は、静寂と電子音だけが支配していた。
モニターに表示された波形は、狂った心電図のように乱高下している。
「酷いな、これは」
磁気テープは伸びきり、意図的に傷つけられた形跡すらあった。旦那さんは、これを本当に隠滅したかったらしい。
僕はイコライザーのつまみをミリ単位で操作する。
高音域のヒスノイズを削る。低音のハムノイズを抑える。特定の周波数帯だけを抽出する。
まるで、泥水の中から砂金を拾うような作業だ。
『……ぅ……ぁ……』
ノイズの隙間から、男の声が漏れ出した。
苦しげだ。呼吸が荒い。
(誰かと争っているのか?)
僕はさらにフィルターを重ねる。環境音を分析する。
背後に聞こえるのは、時計の秒針。そして、遠くで鳴る踏切の音。このリズムからすると、場所は彼らの自宅か。
声の主、夫である正蔵(しょうぞう)氏は、誰かと話しているわけではない。
独り言だ。
しかし、言葉になっていない。嗚咽のようにも、激昂しているようにも聞こえる。
僕は自分の耳を、波形の「向こう側」へダイブさせる。
常人なら「雑音」として処理する音の粒を、脳内で映像化していく。
布が擦れる音。
――彼は、何かを握りしめている。
何かが床に落ちる音。
――ペンだ。何かを書こうとして、落とした。
そして、壁に頭を打ち付けるような鈍い音。
(これは「罪」の告白じゃない)
僕は直感した。
これは、もっと切実で、もっと根源的な恐怖との戦いだ。
「……くそっ……なんで……」
言葉が浮かび上がってきた。
「……忘れたく、ない……」
忘れたくない?
僕は作業の手を止めた。背筋に冷たいものが走る。
依頼人の静子さんは言っていた。「夫は善人だった」と。そして「裏切り」と言っていたと。
もし、その「裏切り」の意味が、彼女が想像するものと全く違っていたとしたら?
僕は、ある仮説に基づき、アプローチを変えた。
ノイズを除去するのではなく、ノイズのリズムを解析する。
この『ザザッ』という音は、口元にマイクを近づけすぎた時の吐息だ。そして、時折入る『パチッ』という音は、涙がマイクに落ちた音だ。
彼は泣いている。
泣きながら、必死に言葉を紡ごうとしている。
最後のレイヤーを剥がした瞬間、その声は、あまりにも鮮明に僕の鼓膜を震わせた。
僕は息を呑み、思わずヘッドホンを外した。
静寂が痛い。
そこにあったのは、誰かを傷つけるための刃物のような言葉ではなかった。
あまりにも脆く、そして残酷なほどの「愛」だった。
第三章 空白のラブレター
翌日の夕方。
雨は上がっていたが、空はまだ鉛色だった。
静子さんが再び店に現れた。一晩で十年老け込んだように、その顔色は悪い。
「……出ましたか」
「ええ。修復は完了しました」
僕は一枚のCD-Rをカウンターに置いた。
「聞きますか?」
静子さんは、石像のように固まったまま、小さく頷いた。
僕はスピーカーのボリュームを上げる。
部屋の空気が張り詰める。
再生が始まった。
『……静子。……聞こえるか』
ノイズ混じりの、しかし確かに聞き取れる夫の声。
静子さんの肩が跳ねた。
『俺は……嘘をついていた。……俺は、お前を裏切ることになる』
テープの中の正蔵氏は、途切れ途切れに語り始めた。
『最近……物がどこにあるか分からない。昨日は、帰り道が分からなくなった。……医者は、認知症だと言った』
静子さんが息を呑む音が聞こえた。
『俺は、自分が自分でなくなるのが怖い。……何より、お前のことを忘れてしまうのが、死ぬより怖いんだ』
テープの向こうで、男が泣き崩れる音がする。
『俺はプライドの高い男だ。お前に、ボケていく惨めな姿を見せたくない。……だから、俺は黙っていることにした。これが俺の罪だ』
『……だが、これだけは残しておきたい。俺の記憶が消えても、この声だけは残るように』
一瞬の沈黙。
そして、絞り出すような声が響いた。
『愛してる。……静子。お前と出会えて、俺の人生は光に満ちていた。……すまない。俺は、お前を置いていく。……俺の記憶の中から、お前がいなくなってしまうことを、許してくれ』
『……愛してる。……愛して……』
プツン、と唐突に録音は切れた。
テープが伸びていたせいで、最後の言葉は余韻もなく消滅していた。
店の中に、再び静寂が戻る。
しかし、それは以前の冷たい静寂ではなかった。
「……馬鹿な人」
長い沈黙を破ったのは、静子さんの濡れた声だった。
「私のことなど、忘れるわけないでしょう。……あんなに、あんなに毎日、私の名前を呼んでくれていたのに」
彼女はカウンターに突っ伏し、子供のように泣きじゃくった。
夫が隠したかった「罪」とは、愛する人を忘れていく自分への絶望と、それでも彼女を守りたかった弱さだったのだ。
「裏切り」とは、共に老いていく約束を守れなかったことへの悔恨だったのだ。
僕は、何も言わずにティッシュの箱をそっと差し出した。
彼女の涙が枯れるまで、一時間、二時間。
僕はただ、その泣き声を「音」として聞いていた。
それは、どんな美しい音楽よりも、人間らしく、温かい響きを持っていた。
エピローグ ノイズのない世界
静子さんが帰った後、店の中は不思議なほど静かだった。
彼女は帰り際、「ありがとう」と言って、あの泥で汚れた着物を少し誇らしげに揺らして去っていった。
僕はいつものようにヘッドホンを手に取る。
再生ボタンを押そうとして、ふと指を止めた。
いつもなら耐えられないはずの、換気扇の回る音、遠くの車のクラクション、そして自分の心臓の鼓動。
それらが今は、不快なノイズではなく、世界が生きている証のように感じられた。
「……今日は、いいか」
僕はヘッドホンを机に置いた。
雨上がりの街の音が、開いた扉から流れ込んでくる。
それは、修復されたばかりのテープのように、少し雑然としていて、けれどひどく鮮明だった。