第一章 静寂のコンチェルト
警視庁捜査一課の刑事、時枝譲(ときえだ ゆずる)は、息を殺して現場に足を踏み入れた。そこは、世界的なヴァイオリニスト、長峰宗一郎の邸宅にある防音スタジオだった。重厚な扉は内側から施錠され、窓には鉄格子。完璧な密室で、長峰は愛用のストラディバリウスを抱きしめるようにして、冷たくなっていた。刺殺だった。床に広がる血溜まりは、まるで深紅の湖のようだった。
だが、時枝の視線を釘付けにしたのは、無惨な死体でも、壁に飾られた数々の金のトロフィーでもない。長峰の白くなった指先が、かろうじて触れている一枚の楽譜だった。
「これか」
隣に立つ若手の鑑識官が、困惑した声で呟いた。
「はい。これが、例の…『結晶』かと」
その楽譜は、奇妙な存在感を放っていた。紙は真新しく、インクの染み一つない純白。しかし、そこに書かれたインクはひび割れ、まるで何十年も前に書かれた古文書のように色褪せている。専門家の鑑定を待つまでもなく、物理法則を無視した代物だった。
ここ数年、稀に報告されるようになった奇怪な現象。被害者が殺害されるその瞬間に、その人物の人生で「最も幸福だった記憶」が、何らかの形で物質化して現場に残される。メディアは面白おかしく「追憶のアーティファクト」などと呼んだが、時枝たちはそれを、静かな敬意とわずかな畏怖を込めて「記憶の結晶」と呼んでいた。
時枝は手袋をした手で、慎重にその楽譜を拾い上げた。インクのかすれた匂いが、ツンと鼻をつく。それは、喜びと、そして取り返しのつかない喪失の香りだった。書かれていたのは、誰も聴いたことのない、甘く切ない旋律の断片。長峰宗一郎ほどの男が、人生の最後に思い描いた最も幸せな記憶が、この無名の曲だというのか。
「完璧な演奏家は、完璧な密室で死ぬ。まるで出来の悪い小説だな」
時枝は誰に言うでもなく呟いた。彼の心は、この超常的な遺留品の美しさに揺さぶられることなく、むしろガラスの破片を踏むような、冷たい苛立ちを感じていた。他人の幸福の残骸を拾い集めるのが、いつから自分の仕事になったのだろうか。彼は、ポケットにしまい込んだ自身の褪せた記憶に、気づかないふりをした。
第二章 不協和音の容疑者たち
長峰宗一郎という男は、弦を弾けば天使の歌声を奏でたが、その私生活は不協和音に満ちていた。捜査線上に浮かび上がった人物は、誰もが強烈な動機を持っていた。
一番弟子である青年、桐野蓮。彼は類稀な才能を持ちながらも、完璧主義者の長峰から常に罵倒され、精神的に追い詰められていたという。「先生は、僕の音楽を殺そうとしていた」と、桐野は虚ろな目で語った。
長年連れ添ったマネージャーの相馬は、長峰の莫大な遺産の受取人だった。彼は「先生は芸術の鬼でした。それ以外は空っぽな人でしたよ」と、どこか寂しそうに微笑んだ。
そして、かつて長峰とトップの座を争った老ヴァイオリニスト、安曇。彼はスキャンダルによってキャリアを絶たれ、その原因が長峰の画策だったと信じていた。「奴は私の人生を奪った。死んで当然の男だ」と、憎悪を隠そうともしなかった。
時枝は彼ら一人一人に、あの楽譜を見せた。だが、誰もが首を横に振るばかり。桐野は「見たこともない曲です」と怯え、相馬は「先生のレパートリーにはありません」と断言し、安曇は「奴の音楽など、知ったことか」と吐き捨てた。
捜査は壁にぶつかった。長峰の冷徹な人物像と、あの甘美な旋律がどうしても結びつかない。時枝は、押収された長峰の日記をめくった。そこには、演奏会への執念、ライバルへの嫉妬、弟子への失望といった、乾いた感情の羅列が続くだけだった。あの楽譜が生まれたであろう、温かい記憶の痕跡はどこにも見当たらない。
夜、時枝は一人、誰もいない捜査本部のデスクで、結晶のレプリカ写真を見つめていた。幸福の残骸。それは、死者が生きた証でありながら、生者には決して理解できない聖域のようにも思えた。彼は無意識に、自分のデスクの一番下の引き出しに手を伸ばしかけたが、寸前で思いとどまり、固く拳を握りしめた。他人の記憶に深入りすれば、自分の封印した記憶までが溢れ出してしまいそうで、恐ろしかった。
第三章 砕かれたフーガ
事件が膠着して一週間が過ぎた頃、第二の惨劇が起きた。長峰の一番弟子、桐野蓮が自室のマンションで死体となって発見されたのだ。死因は、長峰と同じく心臓を鋭利な刃物で一突き。現場はまたしても密室だった。そして、彼の傍らには、新たな「記憶の結晶」が残されていた。
それは、一枚の古びた電車の切符だった。日付は五年前。区間は、桐野が住んでいた地方都市から東京まで。何の変哲もない、色褪せた紙片。だが、その切符はインクが滲むこともなく、折り目ひとつない完璧な状態で、まるで昨日印刷されたかのように存在していた。
「なぜ、切符なんだ…?」
若手刑事が呟く。桐野蓮の人生で最も幸せな記憶が、五年前に乗ったただの電車だというのだろうか。長峰の楽譜との関連性も全く見えない。二つの事件は、異なる旋律を奏でる独立した悲劇のように思えた。捜査本部は絶望的な空気に包まれた。
時枝は、二つの結晶のレプリカ写真を並べ、眉間に深い皺を刻んだ。静寂のコンチェルトと、砕かれたフーガ。楽譜と切符。無関係に見える二つの遺留品を、彼は何時間も見つめ続けた。
その時、脳裏に電撃が走った。共通点がない、のではない。視点を変えれば、あまりにも明白な共通点があった。
「どちらも、『一人では完結しない記憶』だ」
楽譜は、演奏者と作曲者がいて初めて意味をなす。切符は、目的地があり、そこに待つ誰か、あるいは共に旅する誰かがいてこそ、ただの紙片以上の価値を持つ。
これは、被害者だけの記憶ではない。誰かと「共有」した幸福の記憶なのだ。
時枝はすぐに長峰の過去を洗い直させた。すると、一つの名前が浮かび上がった。四十年前、長峰がまだ無名だった頃、共に音楽活動をしていたという一人の作曲家。名を、日向聡(ひゅうが さとし)という。日向は一つの曲を遺して忽然と姿を消し、その後、楽壇から完全に忘れ去られていた。
時枝は、桐野が上京した五年前の日にちと、長峰のスケジュールを照合した。その日、長峰は地方のコンクールで審査員を務めていた。桐野がグランプリを受賞した日だ。長峰は、才能を見出した無名の青年に、その場で東京行きの切符を手渡し、「私の元で学びなさい」と告げたという。
二つの結晶が、一本の線で繋がった。犯人は、被害者たちと「幸福な記憶を共有した人物」だ。そして、その記憶を、まるで自分の所有物のように考えている。
第四章 追憶のレクイエム
日向聡は、都会の片隅にある古いアパートで、ひっそりと暮らしていた。時枝がドアをノックすると、痩せこけた老人が静かに姿を現した。部屋にはピアノが一台と、壁一面の楽譜。そして、テーブルの上には、長峰の事件現場にあったものと全く同じ旋律が書かれた、黄ばんだ楽譜の束が置かれていた。
「あの曲は、私が作った」日向は、時枝を真っ直ぐに見つめて言った。「宗一郎と二人で、夜を徹して作り上げた、私たちの青春そのものだった」
彼の声は穏やかだったが、その瞳の奥には、熱に浮かされたような狂気が宿っていた。
「宗一郎は、私の曲を捨ててスターになった。私はそれでいいと思っていた。だが、彼が殺された時、あの楽譜が彼の『記憶の結晶』として現れたと知って、すべてが変わった。彼は忘れていなかった!彼の人生で最も輝いていた瞬間は、私と共にあったんだ!」
日向は恍惚とした表情で語った。彼は長峰を殺したのではない。彼を殺したのは、別に存在する長峰に恨みを持つ第三者だった。だが、日向は、長峰の死によって生まれた「結晶」を、神からの贈り物だと信じた。彼は現場に忍び込み、それを盗み出した。それが、彼の犯した最初の罪だった。
「あの楽譜は、私の魂の半分だ。私の手元にあるべきものだ。そして、気づいたんだ。宗一郎の幸福な記憶は、他にもある。彼の音楽を受け継いだ、あの若者の中に」
日向は、桐野蓮の中に、長峰と共有された新たな「幸福な記憶」を見出した。そして、それを「結晶」として手に入れるためだけに、桐野を殺害したのだった。怨恨でも、金のためでもない。ただ、他者の中に生きる、自分の輝かしい過去の記憶を、物質としてコレクションするために。歪んだ愛情と、過去への異常な執着が生んだ、あまりにも切ない犯行だった。
「記憶は、時間と共に薄れていく。だが、結晶になれば、永遠だ」
日向はそう言って、静かに両手を差し出した。
事件は解決した。だが、時枝の心には、冬の空のような虚しさが広がっていた。日向は、忘れ去られることを恐れただけなのかもしれない。誰もが、心のどこかで抱いている恐怖。
自席に戻った時枝は、ずっと開けるのを躊躇っていたデスクの一番下の引き出しを、ゆっくりと開けた。中には、一枚の色褪せた写真が入っている。数年前に病で亡くした妻と、幼い娘が、満開の桜の下で笑っている写真だ。彼の、決して物質化することのない「記憶の結晶」。
時枝はそっと写真に触れた。温かいはずの記憶が、指先に冷たく感じられた。だが、彼はもう逃げなかった。失われた温もりを、忘却への恐怖を、彼は静かに受け入れた。
記憶は、結晶にならなくてもいい。薄れても、霞んでも、この胸の中にある限り、それは確かに自分の人生の一部なのだ。
時枝は写真を引き出しに戻し、静かに鍵をかけた。窓の外では、灰色の空から、今年最初の雪が、まるで砕け散った記憶の欠片のように舞い落ちていた。