沈黙のレクイエム

沈黙のレクイエム

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第一章 触れ得ぬ残響

古文書修復師である僕、水原響(みずはら ひびき)には、秘密があった。乾いたインクの匂いが満ちるこの仕事場で、僕だけが聞いている音がある。古い紙に指を触れると、それを書き記した人間の咳払いが。年代物の革装丁を撫でれば、持ち主の遠い溜息が、耳鳴りのように脳内で響くのだ。

これは呪いだった。歴史の断片が、意味をなさないノイズとなって僕の日常に侵食してくる。それは決して鮮明な声や言葉ではなく、風に千切れた囁きや、遠雷のような感情の残響に過ぎない。だから、僕はいつも薄い手袋を嵌め、世界との間に一枚の壁を作って生きてきた。歴史の沈黙を、僕は誰よりも渇望していた。

その日、大学の史料編纂室から持ち込まれたのは、一つの木箱だった。老教授が興奮気味に語る。「メソポタミアの未解読領域から出土した、奇妙な粘土板だ。楔形文字とは全く違う、未知の線刻が施されている」。

箱を開けると、赤茶けた粘土の板が、緩衝材の中で静かに息を潜めていた。大きさは掌に収まるほど。表面には、鳥の足跡のようにも、あるいは流麗な舞の軌跡のようにも見える、繊細な線がびっしりと刻まれている。僕は知らず、息を呑んだ。その造形は、無骨な古代の遺物というより、一つの芸術品のように見えた。

「頼む、水原君。君の腕で、これ以上の風化を食い止めてほしい。このひび割れが、歴史の謎を永遠に葬ってしまう前に」

僕は頷き、覚悟を決めて手袋を外した。冷たく、乾いた粘土の感触が指先に伝わる。その瞬間だった。

――聴こえた。

いつものノイズとは全く違う、澄み切った音が鼓膜を震わせた。それは、一人の女性が口ずさむ、哀しくも美しい旋律。言葉は分からない。だが、その歌声には、星月夜の下で祈りを捧げるような、静かで、切実な響きがあった。ノイズではない。意味を持った、完全な「音楽」だった。

僕は愕然として粘土板から手を離した。歌声は途切れ、仕事場にいつもの沈黙が戻る。心臓が早鐘を打っていた。あれは何だ? 数多の遺物に触れてきたが、こんな経験は初めてだった。

粘土板のひび割れは、まるで泣きはらした後の瞼のように痛々しく見えた。あの歌声は、この傷の奥から漏れ出しているのだろうか。僕は呪いと呼んだこの力に、初めて抗いがたい好奇心を覚えた。この粘土板は、歴史に何を伝えようとしているのか。そして、この歌声は、誰の、どんな想いなのだろうか。

第二章 歌声が紡ぐ幻影

その日から、僕は粘土板に憑りつかれた。修復作業の合間に、何度も素手でそれに触れ、あの歌声を聴いた。旋律は常に同じだったが、聴くたびに新たな感情の機微が伝わってくるようだった。それは故郷を想う望郷の念であり、愛する者を悼む哀悼の情であり、そして、何かを諦めるような深い諦観の色を帯びていた。

僕は大学の図書館に通い詰め、未知の線刻について調べ始めた。しかし、あらゆる文献を漁っても、類似する文字体系は見つからない。主流の歴史学者たちは、僕の持ち込む拓本を一笑に付した。「偽作か、あるいは古代人の気まぐれな落書きだろう」。彼らにとって、記録されていない歴史は存在しないのと同じだった。

途方に暮れていた僕に、一人の男が声をかけた。安斎と名乗る、白髪の老歴史家だった。彼は主流の学会からは異端視されているが、その知識の深さは誰もが認めるところだった。

「その線刻…『アカラ』の民のものかもしれん」

安斎先生の書斎で、僕は初めてその名を聞いた。アカラ王国。古代史の片隅に、伝説としてのみ語られる幻の王国。いくつかの伝承にその名が見えるだけで、存在を裏付ける物証は何一つ見つかっていない。「豊かで、芸術を愛し、そして一夜にして忽然と姿を消した民」として描かれているという。

「先生、この粘土板は…」

「もし本物なら、世紀の大発見だ。だが、なぜ今まで一つも遺物が出てこなかったのか。それが最大の謎だ」

安斎先生の協力を得て、僕たちの共同研究が始まった。先生は古文書からアカラの民の生活様式や世界観を読み解き、僕は粘土板に触れ続けた。歌声を何度も、何度も聴き、その音の響き、旋律の構造を五線譜に書き起こしていった。それは、まるで耳の聞こえない作曲家が頭の中の音を紡ぎ出すような、孤独で骨の折れる作業だった。

数ヶ月が過ぎた頃、僕の聴く歌声に変化が訪れた。最初は一人の女性の声だけだったのが、次第に重なり合い、やがて壮大な合唱へと変わっていったのだ。老若男女の幾千もの声が、同じ旋律を、同じ祈りを込めて歌っている。その歌声は、僕の魂を揺さぶり、書斎の窓から見える現代の街並みが、まるで蜃気楼のように色褪せて見えた。

僕の頭の中には、幻の王国アカラの情景が浮かび上がっていた。白い石造りの街並み。風にそよぐ豊かな麦畑。そして、夕暮れの広場で、この歌を共に口ずさむ人々の姿。僕は確信していた。この歌声の先に、歴史から忘れ去られた人々の真実が眠っているのだと。この歌を完全に解読した時、アカラ王国は伝説から、確固たる歴史へと生まれ変わるのだ。その使命感が、僕の心を熱くしていた。

第三章 忘却への祈り

季節が一周する頃、僕たちはついにパズルの最後のピースを手に入れた。安斎先生が、古代周辺国家の交易記録の片隅に、アカラの線刻と酷似した記号を発見したのだ。それは音節文字であり、僕が書き留めた楽譜と照らし合わせることで、ついに歌の「歌詞」がその意味を現し始めた。

期待に胸を膨らませ、僕は翻訳された言葉を読み上げた。

「おお、偉大なる時の流れよ」

「我らの名を、記憶から洗い流したまえ」

「我らの生きた証を、沈黙の砂に埋めたまえ」

言葉が続かなかった。そこに綴られていたのは、王国の栄華を誇る叙事詩でも、神々への賛歌でもなかった。それは、自らの存在が忘れ去られることを願う、悲痛な祈りの言葉だった。

「我らの喜びも、悲しみも、全てを無に帰し」

「我らの歴史を、永遠の空白としたまえ」

「これぞ我ら、アカラの民が捧げる、最後の祈り」

「どうか、我らを忘れよ。どうか、我らを語るな」

全身から血の気が引いていくのが分かった。僕が美しいと感じたあの旋律は、後世へのメッセージではなかった。これは「忘却のレクイエム」。自らの歴史を、その手で完全に消し去ろうとした民の、最後の鎮魂歌だったのだ。

安斎先生が、重い口を開いた。「…伝承には続きがあった。アカラ王国は、治療不能の疫病と、それに乗じた残忍な侵略によって、地獄のような苦しみのうちに滅びた、と。彼らはあまりの絶望の果てに、自分たちの苦しみが歴史として語り継がれることを拒んだのかもしれん。自らの存在そのものを、後世への呪いにしたくなかった…」

頭を殴られたような衝撃だった。僕が追い求めていた真実は、これだったのか。僕が、失われた歴史を取り戻すという使命感に燃えていた行為は、彼らの最後の、そして唯一の願いを踏みにじる冒涜に他ならなかったのだ。

あの幾千もの歌声が、今や僕を責め立てる呪詛のように聞こえた。「見つけるな」「語るな」「そっとしておいてくれ」と。僕が幻視した美しい王国の風景は、彼らが守りたかった、しかし守りきれなかった過去の幻影に過ぎなかった。

僕は粘土板を睨みつけた。そのひび割れは、もはや歴史の傷ではない。忘れられたいと願った人々の、悲痛な叫び声が固まったものに見えた。僕はこの真実を、世界に公表すべきなのか? 彼らの願いを裏切り、彼らの苦しみを歴史という名の展示台に晒す権利が、僕にあるのだろうか。僕の能力は、歴史の謎を解き明かす鍵ではなく、開けてはならない墓を暴くための、呪われた道具だったのかもしれない。

第四章 歴史の守り人

数日間、僕は仕事場に閉じこもった。答えは出なかった。歴史の真実を追求することは、研究者としての正義だ。しかし、死者の尊厳を守ることは、人としての正義ではないのか。二つの正義が、僕の中で激しく衝突していた。

安斎先生が僕の仕事場を訪ねてきた。やつれた僕の顔を見て、何も言わず、ただ静かに茶を淹れてくれた。

「水原君」と、先生は言った。「歴史とは、勝者が書き記したものだけではない。語られなかったこと、意図的に消されたこと、その沈黙の総体でもある。君は、誰にも聞こえなかった沈黙の声を聴いた。…それをどうするかは、聴いてしまった君にしか決められない」

先生の言葉は、僕の心に深く染み渡った。そうだ。僕は彼らの声を聴いてしまった唯一の人間なのだ。ならば、僕がすべきことは一つしかない。

翌日、僕は大学へ向かい、修復を終えた粘土板を老教授に返却した。

「どうだったかね? 何か分かったかね?」

「いえ…残念ながら」と僕は静かに首を振った。「特殊な樹脂でひび割れを完全に充填し、これ以上の劣化は防ぎました。ですが、線刻の解読は不可能でした。おそらく、古代人の一種の模様、装飾のようなものでしょう。学術的な価値は、おそらく…」

僕は言葉を濁した。嘘をつく胸の痛みよりも、ある種の安堵感が勝っていた。教授は残念そうな顔をしたが、僕の完璧な修復作業には満足してくれた。粘土板は、再び『解読不能の遺物』として、資料室の深い棚に戻されていく。もう誰も、その表面を素手でなぞることはないだろう。

仕事場に戻った僕は、アカラ王国に関する全ての資料、書き留めた楽譜、翻訳した歌詞を、シュレッダーにかけた。紙片が舞い散る中、僕はあの歌声を思い出していた。それはもはや呪詛ではなく、安らかな子守唄のように聞こえた。

僕は手袋を外すと、窓枠にそっと手を置いた。古い木造の建物だ。微かな残響が脳裏をよぎる。かつてここで行われたであろう会話の断片、笑い声の残滓。僕は、それらの音に静かに耳を傾けた。

僕のこの力は、歴史を暴くためのものではない。歴史の沈黙を守るために、忘れ去られたいと願った人々の祈りに寄り添うためにあるのかもしれない。僕は歴史の探求者ではなく、「歴史の守り人」になろう。誰にも知られず、ただ一人、声なき声に耳を澄ませ、その安らかな眠りを妨げないように。

夕日が差し込む仕事場で、僕は一人、静かに目を閉じた。もうあの粘土板の歌声は聞こえない。だが、僕の心の中では、アカラの民が捧げた忘却のレクイエムが、いつまでも優しく響き続けていた。歴史の壮大な流れの中で、一つの物語が、僕というたった一人の墓守を得て、永遠の沈黙へと還っていった。

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