硝子の棺と壊れた時計
第一章 雨とノイズ
降りしきる雨は慈悲などではなく、都市の汚濁を路面になすりつける粘液のようだった。
湿ったアスファルトの匂いに、鼻腔を刺す鉄錆の臭気――いや、血の匂いが混じる。規制線の黄色いテープが雨風に打たれ、痙攣したように音を立てていた。
「……ひどいモンだ。脳味噌ごとスプーンで掬われたみたいにな」
鑑識官の呟きが、雨音に紛れて聞こえる。
灰崎零は、濡れたトレンチコートの襟をかき合わせ、泥濘んだ路地裏へと足を踏み入れた。視線の先、ゴミ集積所の陰に、糸の切れた人形のように崩れ落ちた男の遺体がある。
後頭部に埋め込まれた「記憶スロット」。その蓋はバールのようなもので強引にこじ開けられ、中身であるはずの記憶晶体(メモリークリスタル)は抜き取られていた。空洞になったソケットの闇が、灰崎を見つめ返している。
「灰崎さん。……読めますか」
刑事の声は遠くのノイズのようだった。灰崎は無言で薄い革手袋を外す。冷たい雨が素肌を叩く感触。彼はゆっくりと膝をつき、遺体の硬直した指先に、自らの指を重ねた。
接触(リンク)。
瞬間、視界が弾け飛ぶ。
脳髄に焼きごてを当てられたような激痛。網膜の裏側で、他人の「最期の光景」がザラついたノイズ混じりの映像として再生される。
――ぬかるんだ足音。迫りくる革靴。
――恐怖で収縮する心臓の鼓動。喉に張り付く酸っぱい胃液の味。
『助けてくれ、俺は何も知らない、ただ命令されただけだ……!』
男の思考がハウリングする。
視界の端、水たまりに映る犯人の影。顔は見えない。だが、その手には鈍く光る真鍮の塊が握られていた。
懐中時計だ。
それも、今まさに灰崎の胸ポケットに入っている、壊れたアンティーク時計と酷似している。
男の視界が、犯人の差し出した時計に吸い寄せられる。
カチリ、と蓋が開く音。
その瞬間、男の意識は恐怖すら置き去りにして、プツリと断線した。
「ぐっ……!」
灰崎は荒い息を吐き、泥水の中に手をついた。
逆流した胃液をアスファルトに吐き出す。読み取ったのは映像だけではない。男が最期に感じた、魂を削り取られるような喪失感と、犯人から発せられるどす黒い殺意の波長。
「灰崎さん!?」
「……犯人の顔は見えない」
灰崎は口元を拭い、よろめきながら立ち上がった。嘘ではない。だが、犯人が被害者の耳元で囁いた言葉が、鼓膜にこびりついて離れない。
『返してもらうぞ、零(レイ)。お前が“削除”した、俺たちの地獄を』
灰崎は震える手で胸ポケットの上から時計を握りしめた。
動かないはずの秒針が、ドクン、と不整脈のように一度だけ跳ねた気がした。
第二章 共鳴する空白
自室に戻っても、指先の震えは止まらなかった。
デスクの上に置かれた壊れた時計。酸化して黒ずんだ真鍮のボディ。灰崎はウィスキーを煽るが、体の芯に巣食う悪寒はアルコールでは焼き払えない。
「俺が削除した……地獄だと?」
灰崎には十歳以前の記憶がない。施設で保護された時、彼が持っていたのはこの壊れた時計だけだった。
医師は「解離性健忘」と診断したが、記憶の売買が横行するこの街では、過去などいくらでも改竄できる。だが、灰崎の空白はあまりに深淵で、底が見えなかった。
彼は上着を掴み、再び雨の街へと飛び出した。
じっとしていられなかった。犯人からの接触を待つだけの安楽椅子探偵など演じていられるか。
彼は記憶を頼りに、被害者の男がかつて所属していたという、今は廃墟となった旧市街の「第3実験棟」へと向かった。
崩れかけたコンクリートの壁。焼け焦げた柱。
灰崎は廃墟の中を歩く。瓦礫の山に触れるたび、微弱な残留思念(サイコメトリー)が脳を刺す。
――熱い。
――痛い。
――扉が開かない。
無数の子供たちの絶望が、棘となって指先から流れ込んでくる。脂汗が額を伝う。
灰崎は、煤けた床に落ちていた小さな金属片を拾い上げた。それは、懐中時計の歯車の一つだった。
バチッ!
指先から青白い火花が散る。
脳内でフラッシュバックが炸裂する。
炎の匂い。鼻をつく、髪の毛が焦げる臭気。
『レイ兄ちゃん!』
誰かの叫び声。だが、その声はすぐに炎の轟音にかき消される。
灰崎は膝をつき、激痛に耐えながら幻視の世界に没入する。
そこにいたのは、炎の中で立ち尽くす自分自身。
幼い自分は、泣いてもいなければ、叫んでもいない。ただ静かに、その手にある懐中時計の竜頭を回していた。
「……俺は、何をしていた?」
その時、懐の端末が震えた。
表示されたIDはない。通話ボタンを押すと、ノイズ混じりの、しかし底冷えするような声が響いた。
『……見つけたか? その歯車は、お前が捨てた良心の一部だ』
「貴様、誰だ」
『思い出すのが怖いか? それとも、まだ被害者面を続けるつもりか』
声の主は、嘲笑うように息を吐いた。
『港の第4倉庫に来い。お前の時計を直してやる。そうすれば、お前の“棺”も開く』
第三章 審判の時
第4倉庫の重い鉄扉を開けると、そこにはカビと古い機械油、そして濃密な死の気配が充満していた。
広大な空間の中央、一脚の椅子に男が座っている。
男の顔の右半分は、溶解した蝋のように爛れ、引きつっていた。
「待っていたぞ、零」
男が立ち上がる。その手には、これまで殺された被害者たちから奪った、無数の記憶晶体が握られていた。それらが放つ淡い光が、男の火傷痕を不気味に照らし出す。
「……トウマ、か?」
記憶の底から、一つの名前が泡のように浮上する。
男――トウマは、歪んだ唇で笑った。
「名前だけは覚えていたか。光栄だよ。お前が俺たちを『処理済みデータ』としてゴミ箱に放り込んでいなければ、もっと感動的な再会だったんだがな」
トウマは懐から、ガラスの割れた懐中時計を取り出した。灰崎のものと対になる、もう一つの時計。彼はそこに、奪った記憶晶体を次々と押し込んでいく。
空間が軋むような圧力が生まれる。
「さあ、最後のピースを嵌めろ。お前が拾ったその歯車を」
トウマが銃口を向ける。だが、その脅しがなくとも、灰崎の体は吸い寄せられるように動いていた。
真実を知りたいという欲求。それが恐怖を凌駕していた。
灰崎は震える指で、自らの時計に歯車を嵌め込む。
カチリ。
小さな音が、倉庫内に響き渡った。
その瞬間、灰崎の世界が反転した。
色鮮やかな映像ではない。
匂い。温度。感触。それらが暴力的な解像度で脳を蹂躙する。
あの日。実験棟の火災。
熱波が肌を焼く。逃げ惑う子供たちの悲鳴が、鼓膜を突き破るほどの音量で響いている。
だが、その光景の中にいる「幼い灰崎零」の心拍数は、驚くほど一定だった。
彼はモニターの前に座っていた。
瞳に映り込むのは、炎ではなく、緑色の文字列とエラーコードの羅列。
キーボードを叩く指先の感触は、ピアノを弾くように軽やかで、迷いがない。
『被験体402から408、感情値が規定オーバー。システムに負荷を与えています』
『了解。物理的消去(デリート)プロセスへ移行』
幼い灰崎は、頬杖をつきながらキーを叩いた。
『うるさいな』
彼は眉一つ動かさず、コンソール上の「防火シャッター閉鎖」のコマンドを実行した。
さらに、スピーカーから響く同室生たちの断末魔を「ノイズ」として認識し、オーディオのボリュームスライダーを最下部まで下げた。
静寂。
これで作業に集中できる。
彼は満足げに頷き、自分自身の記憶領域にアクセスする。この虐殺の記録を、そして罪の意識を、手元の懐中時計型外部ストレージへと転送(ムーブ)する。
『保存完了。初期化を開始します』
幼い灰崎は、何食わぬ顔で燃え盛る部屋を背にした。
そこに罪悪感など微塵もない。あったのは、ただ効率的にタスクを完了させたという、冷徹な達成感だけだった。
「あ……ああ……」
現在の灰崎は、その場に崩れ落ちた。
嘔吐する。胃液と共に、自分という人間の根底が崩れ去っていく音がした。
自分は被害者ではなかった。
生き残ったのではない。仲間を贄(にえ)にして、自らの記憶を改竄し、のうのうと「正義」を騙っていた怪物だったのだ。
第四章 贖罪の雨
記憶の奔流が収まった時、灰崎の視界は涙ではなく、脂汗で滲んでいた。
喉が焼けるように熱い。自分の存在そのものが汚らわしく、今すぐにでも爪で皮膚を掻きむしりたかった。
「……思い出したか」
トウマが近づいてくる。銃口は下がっていた。
灰崎は床に額を擦り付けんばかりに頭を垂れた。
「殺せ……殺してくれ、トウマ。俺には生きる資格がない」
掠れた声。心からの懇願だった。
死こそが救済だ。このおぞましい記憶を抱えて生きることなど、耐えられるはずがない。
しかし、トウマは引き金を引かなかった。
冷ややかな目で灰崎を見下ろし、ゆっくりと首を横に振る。
「殺す? 馬鹿を言うな」
トウマは、自らのこめかみに銃口を当てた。
「お前を殺して、楽になどさせるものか。お前は生きろ、零。その時計の針が刻む一秒ごとに、俺たちの叫び声を聞き続けろ」
「やめろ、やめてくれ!」
灰崎が手を伸ばす。
トウマの唇が、三日月のように吊り上がった。それは、この世で最も残酷な、復讐者の笑みだった。
「謝罪すらさせてやらない。赦しなど永遠に与えない。……これが、俺たちからのプレゼントだ」
銃声が轟いた。
乾いた破裂音が、倉庫の天井を叩く。
トウマの体が崩れ落ちると同時に、彼が握りしめていた銃が発火し、彼自身の記憶スロットを正確に撃ち抜いていた。
記憶晶体が粉々に砕け散る音が、灰崎の耳にはっきりと届いた。
「ああああああああッ!!」
灰崎の絶叫が虚しく響く。
もう、トウマの最期の言葉を聞くことも、彼の真意を読み取ることもできない。
彼は自らの命と共に、灰崎が贖罪するための「出口」さえも永遠に封印したのだ。
遠くからサイレンの音が近づいてくる。
灰崎は動けない。目の前に広がる血だまりと、砕け散った硝子の破片を見つめることしかできなかった。
数日後。
雨は上がり、街には何事もなかったかのように朝の光が降り注いでいる。
灰崎探偵事務所のデスクには、修復された懐中時計が置かれていた。
チク、タク、チク、タク。
正確に時を刻むその音。
だが、灰崎の耳には、その音がキーボードを叩く乾いた打鍵音に聞こえていた。
あるいは、防火シャッターが閉まる重低音に。
あるいは、骨が焼ける爆ぜる音に。
彼は鏡を見る。
そこに映っているのは、真実を追う探偵ではない。
数え切れないほどの亡霊を背負い、終わりのない地獄を歩き続ける、一人の咎人の姿だった。
灰崎はコートを羽織る。
新たな依頼人が待っている。他人の記憶に触れるたび、彼は自分自身の罪の深さを、その身を切り裂くような痛みと共に再確認するだろう。
それが、彼に与えられた唯一の、そして永遠に終わらない罰だった。
彼は扉を開け、眩しすぎる光の中へと歩き出した。
胸ポケットの中で、時計はずっと、呪いのように脈打っていた。