秘史の守人
第一章 錆びついた悲鳴
地下保管庫の空気は、死んだ時間の澱(おり)そのものだった。
防虫剤の刺激臭が鼻腔にへばりつく。時野累は震える指先から白手袋を引き抜き、作業台の上の青銅剣に素肌を押し当てた。赤錆に覆われた刀身は、冷え切った爬虫類の死骸のようにざらついている。
接触の瞬間、世界が裏返った。
痛みは神経を走る電気信号などという生易しいものではない。累の脊髄に無数の鉤爪が突き立てられ、内側から骨を削り取っていくような侵食感。自己という輪郭が溶け出し、他者の「怨嗟」という汚泥に置換されていく。
視界が赤黒く明滅する。腹部に熱した鉛を流し込まれる感覚に、累は声を上げることもできず床に崩れ落ちた。嘔吐(えず)く喉からは何も出ず、ただ他人の断末魔だけが肺から漏れ出す。
呼吸が整うまで、十分近い時間を要した。
脂汗で張り付いた前髪を払い、累は忌々しげに剣を見下ろす。博物館のガラスケースに収まるのは、きれいに漂白された英雄譚だけだ。だが、累の皮膚感覚における歴史とは、凝固した血糊と、理不尽に踏み砕かれた者たちの臓物の臭気でしかない。
作業台のスマートフォンが、不吉な振動音を立てた。
画面に表示された名前を見て、累の強張った表情筋がわずかに緩む。
佐倉。
『お前さ、また死人の愚痴を聞いてんのか? もっと美味そうに生姜焼き定食を食えよ』
大学時代の学食で、累の特殊な感性を気味悪がることもなく、自分の皿から肉を分けてくれた男。累の偏屈さを「才能」と呼び、笑い飛ばしてくれた唯一の人間。
だが、届いたメッセージにいつもの軽口はなかった。
添付された画像には、黒い革装丁の古書が写っている。表紙の歪な紋様を見た瞬間、累の左腕に鳥肌が走った。画像データ越しでさえ、そこから滲み出る濃密な瘴気が神経を逆撫でする。
『見つけた。奴らは、これを隠してたんだ』
直後、スマートフォンの画面がノイズで乱れたような錯覚を覚えた。
数時間後、ニュース速報が流れた。佐倉の住むアパートが全焼したという。累は画面を見つめたまま、親友の皮膚が炭化していく臭いを、幻嗅として確かに感じ取っていた。
第二章 燃える首都
首都近郊、かつての建国の聖地とされる広場。
真冬だというのに、粘りつくような熱風が吹き荒れている。行き交う人々は一様に顔をしかめ、こめかみを押さえていた。
累はマンホールの蓋に手を触れた。熱い。地下で何かが脈動している。
公史という名の「蓋」が緩み、抑圧された過去が膿のように溢れ出そうとしていた。
重い鉄蓋をずらし、地下への梯子に足をかける。その瞬間、闇の底から無数の視線が突き刺さった。
『来るな』
声ではない。空間そのものが拒絶の意思を持って累に圧力をかける。梯子の錆びた鉄棒が、濡れた人骨のような感触に変わり、累の手を滑らせようとする。壁面のシミが人の顔に見え、苦悶の表情で口を開閉させている。
累は歯を食いしばり、恐怖で縮み上がる脚を無理やり動かした。ここで引き返せば、佐倉の死は無意味な焼却処分となる。
「退(ど)け」
喉の奥で唸り、粘液のような闇を切り裂いて進む。
旧下水道跡の最奥、崩れかけた石造りの祭壇に、それは鎮座していた。
『星辰の写本』。
累がその黒革に触れた瞬間、脳内でダムが決壊した。文字の羅列が、鮮度を持った「体験」となって五感すべてを蹂躙した。
第三章 英雄の正体
累は汚水にまみれた床でのたうち回りながら、数百年前の地獄を生きていた。
『英雄王の聖戦』。教科書が謳う光輝な神話。
だが、累の網膜に焼き付いたのは、一方的な殺戮の光景だった。
彼は「焼く側」の高揚と、「焼かれる側」の絶望を同時に味わっていた。王の号令と共に、異教徒とされた民衆が広場に追い込まれる。命乞いをする老婆の首を刎ねた時の、肉を断つ確かな手応え。同時に、自分の首が胴体から離れていく浮遊感と激痛。
魔物などいなかった。権力を盤石にするための粛清。それが建国の礎だった。
佐倉はこの真実に触れ、消されたのだ。
累の呼吸は過呼吸になり、涙と鼻水が止まらない。
この写本を公表すれば、英雄王を崇める現政権の正統性は根底から覆る。社会の基盤となっている「正しい歴史」が、ただの血塗られた殺戮記録へと反転する。
どす黒い怒りが腹の底から湧き上がる。
嘘の上に成り立つ平和など、壊してしまえばいい。佐倉を殺したこの世界ごと、何もかもを。
最終章 静寂の編纂者
深夜の書斎。モニターの青白い光だけが、累の憔悴した顔を照らしていた。
画面には、告発文とスキャンした写本のデータ。宛先は主要メディアと、全世界のサーバー。
カーソルが『送信』ボタンの上で点滅している。
指先に力を込めれば、終わる。
その瞬間、累の脳裏に鮮烈な幻視が走った。
送信ボタンをクリックする音と共に、窓の外のビル群が砂の城のように崩れ去る。法は機能を停止し、暴徒と化した人々が互いを貪り食う。公史という共通認識(物語)を失った社会は、箍(たが)の外れた樽のようにバラバラになり、過去の亡霊たちが物理的な災害となって現代人を襲う。
そこには、何の罪もない子供たちの泣き叫ぶ姿があった。
累の指が凍りつく。
佐倉が命を賭して守ろうとしたのは、真実か。それとも、この脆い世界の均衡か。
真実を白日の下に晒せば、世界は壊れる。完全に隠せば、世界は腐る。
累は震える手でマウスから離れ、冷めきったコーヒーの表面に張った膜を指先で突いた。膜は音もなく破れ、黒い液体に飲み込まれていく。
彼は新しいドキュメントを開いた。
タイトルは『英雄の黄昏』。
形式はフィクション。英雄王を完全無欠の聖人ではなく、大義のために血に塗れ、その罪悪感に苛まれる悲劇の王として描く物語。
嘘の中に真実の毒を微量だけ混ぜる。読んだ者が無意識のうちに過去の業を感じ取り、二度と同じ過ちを繰り返さないためのワクチンとして。
誰にも理解されない。賞賛もされない。
累はペンを執り、手書きのプロットを修正し始めた。紙の上を走るペン先が、カリカリと乾いた音を立てる。それはまるで、彼の魂が摩耗していく音のようだった。
指先に付着したインクの黒い染みを見つめる。どれだけ洗っても落ちない、歴史の淤血(おけつ)。
累は深く息を吐き、静寂という名の独房で、終わりのない執筆を再開した。