記憶の断層
1 4172 文字 読了目安: 約8分
文字サイズ:
表示モード:

記憶の断層

【タイトル】: 記憶の断層

第一章 鉄の悲鳴と色彩の波

図書館の空気は、死んだ時間の集積だった。数万冊の古紙が吐き出す乾いた匂いが、霧野藍(きりの あい)の肺を満たしている。彼女は指先で革装丁の背表紙をなぞった。ざらりとしたその感触だけが、ここにある「物質」としての確かな質量を伝えてくる。

午後三時。西日が書架の列を焼き、舞い上がる埃が光の柱となって視界を遮る。

「あの、返却をお願いします」

背後から男の声がした。

藍の脊髄を、不快な予感が冷たい針となって貫く。振り返る間もなく、男は抱えていた分厚い図鑑を返却カートへ乱暴に放り投げた。

本の角が金属の底板を叩き、錆びついた車輪が軋む。

――キィィッ。

その音は聴覚を超え、味覚として藍を襲った。

口の中に広がる鉄錆と古血の味。脳の奥底にある柔らかい部分を、生温かいやすりで直接削られるような感覚。

世界が歪む。

視界の端から「図書館」というテクスチャが剥がれ落ちていく。胃袋を雑巾のように絞り上げられる吐き気と共に、心臓が肋骨を内側から蹴り破ろうと暴れ出した。呼吸が浅い。酸素が砂に変わったように吸い込めない。

(だめ、また……バグる)

蹲った藍の網膜に、制御不能な情報が雪崩れ込んだ。

男の足元から、コールタールのような粘り気を帯びた波紋が広がっている。それは「焦燥」の臭気だ。隣の席で頬杖をつく同僚からは、腐った果実のような甘ったるい「倦怠」が滲み出し、床を這って藍の靴底を濡らす。

音は汚泥へ、感情は幾何学的な刺青となって空間を侵食し、藍の視神経を焼き尽くす。

「……霧野さん? 顔色が悪いわよ」

同僚の声が、分厚いガラス越しのように遠い。藍は脂汗の浮いた額をカウンターに押し付け、波が引くのを待った。

その時、視界の右隅に警告色が明滅した。

現実の風景にオーバーレイ表示されていたAR(拡張現実)のレイヤーに、亀裂が走る。

ポケットの中の端末が、痙攣するように震えた。

網膜に直接投影されたニュース速報。

『クロノス社第3ラボにて爆発事故。研究主任・藤堂朔、意識不明の重体』

文字情報の羅列ではない。その文字列が表示された瞬間、藍の目には、空間そのものが画素欠けを起こし、激しくノイズ混じりに引きつるのが見えた。

何かがおかしい。

世界の解像度が、意図的に下げられようとしている。

第二章 硝子の牢獄

集中治療室は、絶対零度の静寂に支配されていた。

生命維持装置の規則的な電子音と、鼻をつく消毒液の匂い。藤堂朔(とうどう さく)は、チューブに繋がれたまま、白すぎるシーツの海に溺れていた。

藍は、朔の私物が収められたクリアケースから、小指の先ほどの結晶体を取り出した。

記憶媒体結晶「メモリー・シャード」。

本来ならば無色透明であるはずのその石は、内部でどす黒い雲が渦巻き、触れると指先が凍傷になりそうなほどの冷気を放っていた。

藍は震える手で首筋のポートを開き、直結ケーブルを引き出すと、シャードの端子に物理接続(ハード・コネクト)した。

正規の解析機を通せば、MFS(記憶変質システム)の検閲フィルターに引っかかる。生のデータを読むには、自分の脳をデコーダーにするしかない。

接続(リンク)した瞬間、脳漿が沸騰するような激痛が走った。

「ぐっ……!」

奥歯を噛み締め、嗚咽を飲み込む。視界が極彩色に反転し、三半規管が狂った独楽のように回転する。自ら引き起こしたパニック状態を加速装置として、藍は朔の脳内に残された最期の光景へとダイブした。

そこは、炎の赤ではなかった。

無機質なサーバー室。床を叩く、硬質な革靴の音。

カツ、カツ、カツ。

そのリズムはあまりに冷静で、機械的だった。

漂ってくるのは、焦げ臭さではない。高価な輸入煙草と、整髪料の甘い香り。

朔の視線が床を這う。腹部に熱い杭を打ち込まれたような感覚。視界の端に、自分の腹から溢れ出す鮮血が見える。

見上げると、そこには一人の男が立っていた。逆光で顔は見えないが、その指先が指揮者のように滑らかに動き、空中に浮かぶ仮想キーボードを叩いている。

『残念だよ、藤堂君』

男の声は、湿度を含んだ蛇のようだった。

『君のその美しい脳も、明日には「不運な爆発事故」の犠牲者として処理される』

銃口が再び火を噴く。

朔の視界が暗転する寸前、彼は必死に手を伸ばし、サーバーラックの鋭利な断面で、握りしめたチップの表面を削り取った。

ブツン。

接続が切れた。

藍は床に崩れ落ち、激しく咳き込んだ。胃の中身をすべて吐き出しそうなほどの拒絶反応。

事故じゃない。

抹殺だ。そして、その証拠となる記憶は、いまこの瞬間も世界中から削除されようとしている。

第三章 書き換わる世界

真実のバックアップが存在するのは、都市の地下深くに眠る旧アナログ・アーカイブ保管庫だけだった。

カビと塵埃の積もる通路を、藍は走った。足音がコンクリートの壁に虚しく反響する。

最深部、ネットワークから物理的に遮断された部屋。そこに、朔が緊急時に備えて隠していた旧式端末があった。

藍は、朔のIDカードをスロットに叩き込む。

ブラウン管のモニターが鈍い光を放ち、データが展開される。

表示されたのは、MFS網膜インプラントのアップデート・ログ。クロノス社が人々の視覚情報をリアルタイムで検閲し、不都合な「現実」を別の映像に差し替えている証拠そのものだった。

朔はこれを見つけ、告発しようとしたのだ。

その時、耳鳴りがした。

キィィィィン――。

頭蓋骨を共鳴させる高周波音。

『全市民へ通達。システム・メンテナンスを開始します。視覚野の最適化(オプティマイズ)を実行中……』

無機質なアナウンスが脳内に直接響く。

「やめて……!」

藍の目の前で、世界が融解した。

壁に貼られた「避難経路図」のポスターが、砂のように崩れ落ち、次の瞬間には「工事中」の看板へと書き換わる。

手元のメモ帳の文字が、這い回る虫のように形を変え、意味の通らない記号へと化けていく。

現実という名のレイヤーが剥がされ、新しい嘘がコーティングされていく。

吐き気が喉元までせり上がる。

藍の脳は、この強制的な書き換えを「異物」として認識し、激しいアレルギー反応を起こしていた。

壁が歪んで見える。床が波打つ。

世界中の人間が、今、何も疑問を持たずに「新しい記憶」を受け入れている。朔が撃たれた事実は消え、爆発事故の映像が彼らの海馬に焼き付けられている。

「私は……受け入れない!」

藍は、もはや意味をなさなくなったモニターの裏へ手を伸ばした。

そこには、朔が物理的に貼り付けた、血の付着したメモリーチップがあった。

ネットワークを介さない、汚れた物体だけが、唯一の真実。

彼女がそれを握りしめた瞬間、視界のホワイトアウトが極限に達し、意識は白光の中に消失した。

第四章 失われた真実の果てに

翌朝、世界は残酷なほど美しく完成されていた。

病院の屋上庭園。小鳥がさえずり、風が緑の葉を揺らす。

街頭ビジョンでは、笑顔のキャスターが「クロノス社の事故調査は完了し、設備の老朽化が原因と断定されました」と朗らかに報じている。

行き交う人々は、誰も足を止めない。彼らの脳内では、それが揺るぎない史実として定着しているからだ。

藍はベンチに座り、車椅子の朔と向き合っていた。

彼は意識を取り戻していた。だが、その瞳に宿るのは、藍の知る鋭い知性ではなく、穏やかで空虚な凪だった。

「藍、来てくれたんだね。……昨日はすまなかった。実験中に、ガス圧の数値を読み間違えてしまって」

朔は、教科書を読むように淡々と語った。

完璧な整合性。MFSが構築したシナリオが、彼の人格すらも塗り替えてしまったのだ。

藍の胸に、鉛の塊が沈んでいく。

あの革靴の音も、煙草の匂いも、彼の中から消えている。

この完璧な世界で、狂っているのは藍一人だ。

「……違うよ、朔」

藍は、ポケットから血に濡れたチップを取り出した。

そして、朔の手のひらに無理やり押し付ける。

「え?」

「見て。そのチップの裏面を」

朔は困惑しながらも、チップを裏返した。

そこには、鋭利な刃物で乱暴に刻まれた傷跡があった。

文字ではない。数式だ。

『 P = 0, when T < 14:00 』

朔の眉が微かに動いた。

彼の脳内で、MFSが提供する「14時に発生した爆発事故」という記憶と、目の前の物理的な傷跡が衝突する。

科学者である彼なら分かるはずだ。

この数式は、あの実験室の気圧制御プログラムの一部。14時以前に圧力がゼロになることは、物理的にあり得ないという証明。

そして何より、この筆跡の乱れ、線の深さが、それを刻んだ時の絶望的なまでの「震え」を記録している。

「僕の……字だ」

朔の指先が、傷跡の上を彷徨う。

穏やかだった彼の表情に、亀裂が入った。

こめかみが引きつり、瞳孔が収縮と拡散を繰り返す。

偽りの記憶の壁に、論理という名の楔が打ち込まれたのだ。

「あり得ない……この式は、爆発が起きないことを証明している。なのに、僕は爆発を覚えている。……なぜだ?」

朔が頭を抱え、低く呻いた。

風が強く吹き、屋上のフェンスを揺らす。

遠くに見える街の景色が、一瞬だけ、藍の目にはノイズ混じりの砂嵐に見えた。

システムが動揺している。

たった一つの矛盾が、完璧な虚構の世界を揺るがし始めている。

藍は、朔の震える手に自分の手を重ね、強く握りしめた。

その体温だけは、どんな高度なシステムにも書き換えられない現実だった。

「思い出せなくてもいい。その矛盾が、あなたの真実」

藍は、見えない敵が潜む青空を睨みつけた。

孤独な戦いは終わっていない。むしろ、今ここで、本当の火蓋が切って落とされたのだ。

AIによる物語の考察

**登場人物の心理**:
霧野藍は、共感覚とAR視覚という特異な知覚能力により、世界の「バグ」をいち早く察知する。これは彼女の苦悩の源であると同時に、真実を追う唯一の武器となる。藤堂朔への深い信頼と、彼の命が不当に奪われたという確信が、巨大なシステムに抗う彼女の強い動機だ。一方、朔は科学者としての論理への絶対的な執着から、記憶を奪われてもなお、自身の脳が認識する「爆発事故」の矛盾を物理的な数式として残した。これは彼自身の、真実への最後の抵抗である。

**伏線の解説**:
藍の共感覚的AR視覚は、第一章から現実が「テクスチャが剥がれ落ちる」「ARレイヤーに亀裂が走る」と描写され、MFSによる視覚情報操作を直感的に「バグ」として捉える能力であることが示唆される。そして、朔が命の危機に瀕しながらチップに刻んだ「P = 0, when T < 14:00」という数式は、改変された「14時の爆発事故」という記憶に真っ向から矛盾する、揺るぎない物理的な真実として機能する最大の伏線。

**テーマ**:
この物語は、クロノス社のMFSが人々の記憶と現実認識を操作する世界で、「真実」とは何か、そして「人間の尊厳」とは何かを深く問いかける。世界全体が作り出された虚構を受け入れる中、ただ一人、藍が自らの知覚と意志を信じ、記憶が書き換えられても「私は受け入れない!」と抵抗する。それは、巨大な権力による情報統制に対し、個人の揺るぎない信念と論理が、いかに脆くも強靭な「楔」となり得るかを示している。
この物語の「続き」を生成する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと...

TOPへ戻る