記憶の断層
【タイトル】: 記憶の断層
第一章 鉄の悲鳴と色彩の波
図書館の空気は、死んだ時間の集積だった。数万冊の古紙が吐き出す乾いた匂いが、霧野藍(きりの あい)の肺を満たしている。彼女は指先で革装丁の背表紙をなぞった。ざらりとしたその感触だけが、ここにある「物質」としての確かな質量を伝えてくる。
午後三時。西日が書架の列を焼き、舞い上がる埃が光の柱となって視界を遮る。
「あの、返却をお願いします」
背後から男の声がした。
藍の脊髄を、不快な予感が冷たい針となって貫く。振り返る間もなく、男は抱えていた分厚い図鑑を返却カートへ乱暴に放り投げた。
本の角が金属の底板を叩き、錆びついた車輪が軋む。
――キィィッ。
その音は聴覚を超え、味覚として藍を襲った。
口の中に広がる鉄錆と古血の味。脳の奥底にある柔らかい部分を、生温かいやすりで直接削られるような感覚。
世界が歪む。
視界の端から「図書館」というテクスチャが剥がれ落ちていく。胃袋を雑巾のように絞り上げられる吐き気と共に、心臓が肋骨を内側から蹴り破ろうと暴れ出した。呼吸が浅い。酸素が砂に変わったように吸い込めない。
(だめ、また……バグる)
蹲った藍の網膜に、制御不能な情報が雪崩れ込んだ。
男の足元から、コールタールのような粘り気を帯びた波紋が広がっている。それは「焦燥」の臭気だ。隣の席で頬杖をつく同僚からは、腐った果実のような甘ったるい「倦怠」が滲み出し、床を這って藍の靴底を濡らす。
音は汚泥へ、感情は幾何学的な刺青となって空間を侵食し、藍の視神経を焼き尽くす。
「……霧野さん? 顔色が悪いわよ」
同僚の声が、分厚いガラス越しのように遠い。藍は脂汗の浮いた額をカウンターに押し付け、波が引くのを待った。
その時、視界の右隅に警告色が明滅した。
現実の風景にオーバーレイ表示されていたAR(拡張現実)のレイヤーに、亀裂が走る。
ポケットの中の端末が、痙攣するように震えた。
網膜に直接投影されたニュース速報。
『クロノス社第3ラボにて爆発事故。研究主任・藤堂朔、意識不明の重体』
文字情報の羅列ではない。その文字列が表示された瞬間、藍の目には、空間そのものが画素欠けを起こし、激しくノイズ混じりに引きつるのが見えた。
何かがおかしい。
世界の解像度が、意図的に下げられようとしている。
第二章 硝子の牢獄
集中治療室は、絶対零度の静寂に支配されていた。
生命維持装置の規則的な電子音と、鼻をつく消毒液の匂い。藤堂朔(とうどう さく)は、チューブに繋がれたまま、白すぎるシーツの海に溺れていた。
藍は、朔の私物が収められたクリアケースから、小指の先ほどの結晶体を取り出した。
記憶媒体結晶「メモリー・シャード」。
本来ならば無色透明であるはずのその石は、内部でどす黒い雲が渦巻き、触れると指先が凍傷になりそうなほどの冷気を放っていた。
藍は震える手で首筋のポートを開き、直結ケーブルを引き出すと、シャードの端子に物理接続(ハード・コネクト)した。
正規の解析機を通せば、MFS(記憶変質システム)の検閲フィルターに引っかかる。生のデータを読むには、自分の脳をデコーダーにするしかない。
接続(リンク)した瞬間、脳漿が沸騰するような激痛が走った。
「ぐっ……!」
奥歯を噛み締め、嗚咽を飲み込む。視界が極彩色に反転し、三半規管が狂った独楽のように回転する。自ら引き起こしたパニック状態を加速装置として、藍は朔の脳内に残された最期の光景へとダイブした。
そこは、炎の赤ではなかった。
無機質なサーバー室。床を叩く、硬質な革靴の音。
カツ、カツ、カツ。
そのリズムはあまりに冷静で、機械的だった。
漂ってくるのは、焦げ臭さではない。高価な輸入煙草と、整髪料の甘い香り。
朔の視線が床を這う。腹部に熱い杭を打ち込まれたような感覚。視界の端に、自分の腹から溢れ出す鮮血が見える。
見上げると、そこには一人の男が立っていた。逆光で顔は見えないが、その指先が指揮者のように滑らかに動き、空中に浮かぶ仮想キーボードを叩いている。
『残念だよ、藤堂君』
男の声は、湿度を含んだ蛇のようだった。
『君のその美しい脳も、明日には「不運な爆発事故」の犠牲者として処理される』
銃口が再び火を噴く。
朔の視界が暗転する寸前、彼は必死に手を伸ばし、サーバーラックの鋭利な断面で、握りしめたチップの表面を削り取った。
ブツン。
接続が切れた。
藍は床に崩れ落ち、激しく咳き込んだ。胃の中身をすべて吐き出しそうなほどの拒絶反応。
事故じゃない。
抹殺だ。そして、その証拠となる記憶は、いまこの瞬間も世界中から削除されようとしている。
第三章 書き換わる世界
真実のバックアップが存在するのは、都市の地下深くに眠る旧アナログ・アーカイブ保管庫だけだった。
カビと塵埃の積もる通路を、藍は走った。足音がコンクリートの壁に虚しく反響する。
最深部、ネットワークから物理的に遮断された部屋。そこに、朔が緊急時に備えて隠していた旧式端末があった。
藍は、朔のIDカードをスロットに叩き込む。
ブラウン管のモニターが鈍い光を放ち、データが展開される。
表示されたのは、MFS網膜インプラントのアップデート・ログ。クロノス社が人々の視覚情報をリアルタイムで検閲し、不都合な「現実」を別の映像に差し替えている証拠そのものだった。
朔はこれを見つけ、告発しようとしたのだ。
その時、耳鳴りがした。
キィィィィン――。
頭蓋骨を共鳴させる高周波音。
『全市民へ通達。システム・メンテナンスを開始します。視覚野の最適化(オプティマイズ)を実行中……』
無機質なアナウンスが脳内に直接響く。
「やめて……!」
藍の目の前で、世界が融解した。
壁に貼られた「避難経路図」のポスターが、砂のように崩れ落ち、次の瞬間には「工事中」の看板へと書き換わる。
手元のメモ帳の文字が、這い回る虫のように形を変え、意味の通らない記号へと化けていく。
現実という名のレイヤーが剥がされ、新しい嘘がコーティングされていく。
吐き気が喉元までせり上がる。
藍の脳は、この強制的な書き換えを「異物」として認識し、激しいアレルギー反応を起こしていた。
壁が歪んで見える。床が波打つ。
世界中の人間が、今、何も疑問を持たずに「新しい記憶」を受け入れている。朔が撃たれた事実は消え、爆発事故の映像が彼らの海馬に焼き付けられている。
「私は……受け入れない!」
藍は、もはや意味をなさなくなったモニターの裏へ手を伸ばした。
そこには、朔が物理的に貼り付けた、血の付着したメモリーチップがあった。
ネットワークを介さない、汚れた物体だけが、唯一の真実。
彼女がそれを握りしめた瞬間、視界のホワイトアウトが極限に達し、意識は白光の中に消失した。
第四章 失われた真実の果てに
翌朝、世界は残酷なほど美しく完成されていた。
病院の屋上庭園。小鳥がさえずり、風が緑の葉を揺らす。
街頭ビジョンでは、笑顔のキャスターが「クロノス社の事故調査は完了し、設備の老朽化が原因と断定されました」と朗らかに報じている。
行き交う人々は、誰も足を止めない。彼らの脳内では、それが揺るぎない史実として定着しているからだ。
藍はベンチに座り、車椅子の朔と向き合っていた。
彼は意識を取り戻していた。だが、その瞳に宿るのは、藍の知る鋭い知性ではなく、穏やかで空虚な凪だった。
「藍、来てくれたんだね。……昨日はすまなかった。実験中に、ガス圧の数値を読み間違えてしまって」
朔は、教科書を読むように淡々と語った。
完璧な整合性。MFSが構築したシナリオが、彼の人格すらも塗り替えてしまったのだ。
藍の胸に、鉛の塊が沈んでいく。
あの革靴の音も、煙草の匂いも、彼の中から消えている。
この完璧な世界で、狂っているのは藍一人だ。
「……違うよ、朔」
藍は、ポケットから血に濡れたチップを取り出した。
そして、朔の手のひらに無理やり押し付ける。
「え?」
「見て。そのチップの裏面を」
朔は困惑しながらも、チップを裏返した。
そこには、鋭利な刃物で乱暴に刻まれた傷跡があった。
文字ではない。数式だ。
『 P = 0, when T < 14:00 』
朔の眉が微かに動いた。
彼の脳内で、MFSが提供する「14時に発生した爆発事故」という記憶と、目の前の物理的な傷跡が衝突する。
科学者である彼なら分かるはずだ。
この数式は、あの実験室の気圧制御プログラムの一部。14時以前に圧力がゼロになることは、物理的にあり得ないという証明。
そして何より、この筆跡の乱れ、線の深さが、それを刻んだ時の絶望的なまでの「震え」を記録している。
「僕の……字だ」
朔の指先が、傷跡の上を彷徨う。
穏やかだった彼の表情に、亀裂が入った。
こめかみが引きつり、瞳孔が収縮と拡散を繰り返す。
偽りの記憶の壁に、論理という名の楔が打ち込まれたのだ。
「あり得ない……この式は、爆発が起きないことを証明している。なのに、僕は爆発を覚えている。……なぜだ?」
朔が頭を抱え、低く呻いた。
風が強く吹き、屋上のフェンスを揺らす。
遠くに見える街の景色が、一瞬だけ、藍の目にはノイズ混じりの砂嵐に見えた。
システムが動揺している。
たった一つの矛盾が、完璧な虚構の世界を揺るがし始めている。
藍は、朔の震える手に自分の手を重ね、強く握りしめた。
その体温だけは、どんな高度なシステムにも書き換えられない現実だった。
「思い出せなくてもいい。その矛盾が、あなたの真実」
藍は、見えない敵が潜む青空を睨みつけた。
孤独な戦いは終わっていない。むしろ、今ここで、本当の火蓋が切って落とされたのだ。