追憶の修復師

追憶の修復師

16 3878 文字 読了目安: 約8分
文字サイズ:
表示モード:

「忘れることは慈悲だと言われる。

だが俺にとって、それは犯罪現場に他ならない。

誰かが意図的に、魂の一部を切り取った痕跡なのだから」

紫煙をくゆらせながら、俺はモニターに映るノイズを見つめていた。

雨の音がする。

路地裏の雑居ビル、地下二階。

看板も出していないこの『診療所』には、今日も訳ありの客が迷い込んでくる。

湿気たコンクリートの臭いに混じって、微かな金木犀の香りが漂ってきた。

ドアが開く。

濡れた傘を畳む音。

「……ここが、記憶を直してくれる場所ですか?」

震える声だった。

俺は椅子を回し、依頼人を見る。

二十代半ばだろうか。

色の白い、儚げな女だ。

だが、その瞳だけが異様に暗く、そして飢えていた。

「直すんじゃない。復元するんだ」

俺は短く訂正する。

「違法な処置だということは理解しているな?」

女は小さく頷いた。

そして、レインコートのポケットから一枚の写真を取り出す。

何も写っていない、ただの風景写真だ。

公園のベンチ。

「私は、人を殺しました」

彼女は唐突に言った。

「誰を?」

「娘です。三歳になる、私の娘を」

俺は眉をひそめる。

「警察には?」

「行きました。でも、追い返されたんです」

彼女は唇を噛み締め、血が滲むほど強く拳を握った。

「私には、子供なんて最初からいなかったと言うんです。戸籍も、病院の記録も、近所の証言も……すべてが『いない』と証明している」

「なら、いないんだろう」

「いいえ! いるんです!」

彼女の叫びが、狭い診療所に反響した。

「温もりを覚えているんです。重さを、匂いを、あの子が最後に私を呼んだ声を……でも、顔だけが思い出せない。殺した瞬間のことだけが、真っ白な霧の中にあるんです」

俺は煙草を灰皿に押し付けた。

解離性健忘か、あるいは妄想。

だが、俺の『特異体質』が微かな違和感を捉えていた。

彼女の言葉のリズム、瞬きの回数、そして何より、その「空白」への執着。

何かが、あまりにも綺麗に消されすぎている。

「名前は」

「……水無月エミです」

「いいだろう、エミ。その霧の中身、俺が見てやる」

第一章 脳髄の迷宮

施術台の革は冷たく、エミは小刻みに震えていた。

俺は彼女のうなじにある接続ポートへ、極細のケーブルを差し込む。

「少し揺れるぞ」

スイッチを入れる。

視界が反転し、俺の意識は彼女の脳内ネットワークへとダイブした。

そこは、灰色の海だった。

記憶の断片が魚のように泳いでいる。

高校時代の教室、初めての就職、恋人との別れ。

どれも鮮明だ。

だが、その海流の中心に、不自然な『凪』があった。

まるで、そこだけ時間が止まっているかのような、完全な空白地帯。

俺は意識を集中させ、その空白へと潜る。

普通、忘却とは風化だ。

端から徐々に崩れていく。

だがこれは違う。

鋭利な刃物で、スパッと切り取られたような断面。

(人為的だ)

誰かが、彼女の記憶を編集している。

しかも、プロの仕業だ。

違和感を残さず、感情のリンクごと切断する高度な術式。

俺はその切断面に触れた。

指先――といっても仮想空間上の感覚だが――に、焼き付くような痛みが走る。

プロテクトがかかっている。

俺はコードを解析し、強引にこじ開けようとした。

その時だ。

『警告。アクセス権限がありません』

無機質なシステム音声と共に、視界に赤いノイズが走る。

俺は舌打ちし、さらに深く潜る。

この程度のセキュリティで、俺を追い出せると思うな。

俺はかつて、国立医療センターのエースだった男だ。

記憶素子の配列を読み解く。

そこに残された『署名(シグネチャ)』を見つけた瞬間、俺の思考が凍りついた。

そのコード配列。

見覚えがあるどころの話ではない。

それは、俺自身の癖だった。

五年前。

俺がまだ、表の世界で医師をしていた頃の術式。

「まさか……」

俺は現実世界の自分の手を見つめるような感覚に陥った。

俺が、消したのか?

この女の記憶を?

なぜ?

俺は一度も彼女に会ったことがないはずだ。

いや、待て。

俺には『過剰記憶症候群(ハイパーサイメシア)』がある。

見たものを忘れることはない。

だからこそ、忘却に憧れ、記憶屋なんて稼業をしている。

俺が彼女を忘れているはずがない。

だが、コードは嘘をつかない。

混乱する俺の意識の奥底で、封印していた俺自身の記憶の扉が、軋み音を立てて開こうとしていた。

第二章 慈悲という名の罪

「……先生? 先生!」

エミの声で、俺は現実へと引き戻された。

額に脂汗が滲んでいる。

心拍数が異常に速い。

「何か、見えたんですか?」

施術台から身を起こしたエミが、縋るような目で俺を見る。

俺は乾いた唇を舐めた。

見えた。

いや、思い出したのだ。

五年前の大災害。

湾岸エリアを襲った大規模な地盤沈下。

多くの建物が海に沈み、数千人が行方不明になったあの日。

俺は救護テントにいた。

次々と運び込まれる遺体、泣き叫ぶ生存者たち。

その中に、泥だらけの若い女性がいた。

彼女は何かを強く抱きしめていた。

それは、古びたテディベアのぬいぐるみだった。

いや、違う。

彼女はそれを『子供』だと思い込んでいた。

ショック状態による重度の解離。

彼女の本当の子供は、津波にさらわれ、目の前で消えていた。

だが、彼女の心はその事実を受け入れられず、瓦礫の中にあったぬいぐるみを我が子だと認識することで、精神の崩壊をギリギリで防いでいたのだ。

あの時、俺はどうした?

上司の命令だったか?

いや、俺の独断だ。

彼女はこのままでは廃人になる。

真実を知れば、彼女は自殺するだろう。

そう判断した俺は、彼女に緊急の記憶処置を施した。

『子供は最初からいなかった』

そう脳を書き換えたのだ。

悲しみを消すために。

彼女を救うために。

それが、俺の犯した『慈悲』という名の罪。

そして俺は、その非人道的な処置を悔やみ、自らの記憶すら無意識に封じ込めて医師を辞めた。

「……エミさん」

俺の声は掠れていた。

「君は、誰も殺していない」

「嘘だ!」

彼女は叫んだ。

「じゃあ、この胸の痛みは何なの? この喪失感は何? 誰かがいたはずなの。私が愛した、小さな誰かが!」

涙が彼女の頬を伝う。

「お願いです。どんなに辛い記憶でもいい。返してください。私が私であるために、その痛みが必要なんです」

彼女の言葉が、俺の胸に突き刺さる。

忘れることが救いだと信じていた。

だが、空白は癒やしではない。

それはただの欠落だ。

彼女は五年間、愛する我が子の不在という『亡霊』に苦しめられ続けてきたのだ。

俺のやったことは、救済ではなく、愛の否定だった。

「……戻せば、君は地獄を見ることになる」

「構いません」

彼女の目に迷いはなかった。

「忘れていることの方が、ずっと地獄です」

俺は覚悟を決めた。

キーボードを叩く指に力を込める。

俺自身の罪を告発するコマンド。

これを解除すれば、俺が違法処置を行った証拠がログに残る。

俺は終わりだ。

だが、それでいい。

最終章 雨上がりの慟哭

解除コードが認証される。

『Memory Restore... Completed』

モニターの文字が緑色に変わった。

エミの体が大きく跳ねた。

彼女の喉から、言葉にならない悲鳴が漏れる。

「ああ……あああッ!」

記憶が雪崩のように流れ込む。

海。

濁流。

小さな手。

離してしまった指先。

そして、助けられなかった絶望。

彼女は施術台の上で体を丸め、獣のように泣き叫んだ。

診療所の壁が震えるほどの慟哭。

俺はただ、立ち尽くしていた。

かける言葉などない。

俺が奪っていたのは、この涙だったのだ。

どれくらいの時間が経っただろうか。

エミの嗚咽が静まり、荒い呼吸だけが響いていた。

彼女はゆっくりと起き上がり、腫れ上がった目で俺を見た。

その瞳には、先ほどまでの空虚な暗闇はなかった。

深い悲しみ。

だが、そこには確かな光が宿っていた。

「……思い出しました」

彼女は掠れた声で言った。

「あの子の名前は、カイ。海が好きだったから、カイ」

彼女は空っぽの手を、優しく胸に抱いた。

「痛い……すごく痛い。でも」

エミは、雨上がりの空のような、透き通った笑顔を見せた。

「あの子を愛していたことまで、忘れなくてよかった。……先生、ありがとうございました」

彼女は深々と頭を下げ、診療所を出て行った。

ドアが閉まる音。

残されたのは、静寂と、微かな金木犀の香り。

俺は椅子に深く沈み込み、新しい煙草に火をつけた。

モニターには、自動通報された警察のサーバーへのアクセスログが表示されている。

遠くから、サイレンの音が聞こえ始めた。

近づいてくる。

俺は煙を吐き出す。

「……忘れることは慈悲、か」

苦い味がした。

だが、今までで一番、旨い煙草だった。

俺は目を閉じ、足音を待った。

記憶の修復師としての、最後の仕事を終えて。

AI物語分析

【主な登場人物】

  • カイト・レン: 路地裏で「記憶の修復」を請け負う闇医者。かつては国立医療センターの天才医師だったが、ある事件を機に姿を消した。「見たものを全て記憶する」過剰記憶症候群を患っており、忘却を渇望しながらも、他人の記憶を弄る矛盾を抱えている。冷笑的だが、根底には深い倫理観と脆さを持つ。
  • 水無月エミ: 依頼人。「存在しない娘」の記憶に苦しむ女性。儚げな外見とは裏腹に、真実を求める強烈な意志を持つ。5年前の災害で子供を失い、精神崩壊を防ぐためにカイトによって記憶を消されていた。

【考察】

  • 「忘却」の二面性: 物語は、忘却を「慈悲(救い)」と捉えるか、「罪(逃避・冒涜)」と捉えるかという問いを投げかける。カイトは当初、エミを救うために記憶を消したが、それは彼女から「愛した証」まで奪う行為だった。
  • 雨と水のメタファー: 冒頭の雨、エミの名前(水無月)、息子の名前(カイ=海)、災害の記憶(濁流)。これらはすべて「避けられない悲しみ」や「感情の奔流」を象徴している。雨上がりのラストシーンは、悲しみを受け入れた後の浄化を表している。
  • 金木犀の香り: 秋に咲く金木犀は、花言葉で「真実」「陶酔」を意味する。エミが持ち込んだこの香りは、隠された真実が露呈することの伏線として機能している。
  • テディベアの不在: エミが記憶の中で抱いていたテディベアは、現実の子供の代替物(フェイク)だった。記憶を取り戻した彼女が抱いたのは「空っぽの手」だが、そこには「本物の愛の重み」が存在したという対比が描かれている。
この物語の「続き」を生成する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと...

TOPへ戻る