魂が砕ける音というのは、悲鳴ではない。
高野レンはそれを知っていた。
それは、雨に濡れた段ボールを踏み潰したような、湿った破壊音だ。
第一章 ノイズの雨
レンは、耳を塞いでも聞こえる「音」に悩まされていた。
ザーーッ。
砂嵐のようなノイズ。
その奥底で、微かに何かが軋む。
彼はプロの音響エンジニアだった。
些細な周波数のズレさえ許さない聴覚は、かつては天賦の才と呼ばれた。
だが今は、ただの呪いだ。
半年前に死んだ妹、ミナの最期。
その瞬間の音が、鼓膜にへばりついて離れない。
「……うるさい」
深夜二時。
レンはヘッドフォンを投げ捨てた。
防音室の壁には、無数の波形データが映し出されている。
すべて、あの日のドライブレコーダーから抽出した音声だ。
事故の瞬間。
激突音。
そして、途切れたミナの声。
『レン、私……』
その先が聞こえない。
ノイズに呑まれた最期の言葉。
それが遺言だったのか、それとも自分への恨みだったのか。
レンはあの日、運転席で恐怖に竦み、動けなかった。
ミナだけが車外に放り出され、即死した。
自分だけが生き残った罪悪感が、幻聴となって彼を責め立てる。
「聞きたい……」
喉が渇くように、真実を欲していた。
もし彼女が最後に「逃げて」と言ってくれたなら。
あるいは「許さない」と呪ってくれたなら。
どちらでもいい。
この曖昧なノイズ地獄から救われるなら。
ふと、部屋の空気が変わった。
雨の匂い。
完全防音のスタジオに、入ってくるはずのない土と雨の匂い。
視界の隅、機材ラックの影に、見知らぬ扉があった。
古ぼけた、黒ずんだ木の扉。
レンは吸い寄せられるように立ち上がる。
恐怖よりも、その扉の向こうから聞こえる「完全な静寂」に惹かれたのだ。
ノブを回す。
カラン、コロン。
乾いた鐘の音が鳴った。
そこは、店だった。
天井まで届く棚に、無数の「何か」が瓶詰めされている。
時計の針、誰かの奥歯、千切れたリボン、錆びた指輪。
「いらっしゃい」
カウンターの奥から、男の声がした。
年齢不詳。
喪服のような黒いスーツ。
その顔には、目がなかった。
ただ滑らかな皮膚が、眼窩を覆っている。
「ここは『拾遺堂(しゅういどう)』。世界からこぼれ落ちたものを拾い集める店です」
男は手元の蓄音機を愛おしそうに撫でた。
「あなた、いい耳をお持ちだ。ずっと聞こえているでしょう? 罪の周波数が」
レンは息を呑む。
「……消せるのか、この音を」
「消す? いいえ。あなたは消したいのではなく、聞きたいはずだ。ノイズの向こう側を」
男はニヤリと笑った。
その口元だけが、やけに生々しく赤い。
「聞こえますよ。あの娘さんの、最期の言葉。この『骨董の蓄音機』を使えばね」
男が差し出したのは、動物の頭蓋骨で作られたような、白く歪な蓄音機だった。
「ただし、代価を頂きます」
「金ならいくらでも払う」
「金? そんな紙切れ、何の価値もありませんよ」
男は空っぽの眼窩をレンに向けた。
「当店が頂くのは『記憶』です。それも、あなたにとって最も美しく、鮮やかな記憶だけ」
レンは眉をひそめた。
「どういう意味だ」
「ノイズを除去するには、相応の『純粋な音』が必要なのです。あなたの幸福な記憶をフィルターにして、雑音を濾過する。代償として、あなたは妹さんとの楽しい思い出を失う」
男の声が低く、甘く響く。
「最期の言葉を聞くために、彼女との生きた証を差し出せますか?」
第二章 幸福の摩耗
迷いはなかった。
今のレンにとって、美しい思い出など、鋭利な刃物でしかなかったからだ。
思い出すたびに心が抉られる。
ならば、いっそ消えてしまった方がいい。
「やれ。全部持って行け」
レンは椅子に座り、骨の蓄音機にプラグを繋いだ。
自分の頭に電極のようなものを貼り付ける。
「では、始めましょう。まずは幼き日の、海辺の記憶から」
男が針を落とす。
ジジッ……。
レンの脳裏に、鮮明な映像が浮かんだ。
七歳の夏。
眩しい太陽。
白いワンピースを着たミナが、波打ち際で笑っている。
『お兄ちゃん、見て! 綺麗な貝殻!』
潮の香り。
波の音。
ミナの手の、体温。
それらが急速に、色あせていく。
青い海が、灰色の砂嵐に変わる。
ミナの笑顔が、ノイズに塗りつぶされる。
(あ……)
胸の奥が冷たくなる。
大切な何かが、物理的に「削り取られる」感覚。
痛みはない。
ただ、喪失感だけが、巨大な空洞となって広がる。
「いいですね。上質な素材だ」
店主が舌なめずりをする音が聞こえた。
次は、十歳の誕生日。
二人でケーキを囲んだ夜。
ロウソクの火の温かさ。
クリームの甘さ。
『お兄ちゃん、大好き!』
その声が、遠ざかる。
誰だ?
この笑っている少女は、誰だ?
知っているはずなのに、名前が出てこない。
感情が湧かない。
ただの「他人」の映像記録のように、冷徹なデータへと変わっていく。
「もっとだ……もっとよこせ」
レンは自ら懇願していた。
ノイズが少しずつ晴れていく。
あの日の、事故の瞬間の音声が、クリアになっていく。
高校の卒業式。
初めてのドライブ。
喧嘩して仲直りした夕暮れ。
すべてが喰われていく。
妹への愛情。
守りたかったという意思。
それらが根こそぎ引き抜かれ、レンの心は更地になっていく。
涙が流れていた。
だが、なぜ泣いているのか分からない。
悲しいはずなのに、その「対象」が思い出せない。
自分には妹がいた。
それだけは知識として知っている。
だが、どんな顔で、どんな声で笑うのか。
自分は彼女の何が好きだったのか。
何もかもが、霧の中へ消えた。
残ったのは、ただ一つの事実。
『自分は、あの瞬間の言葉を聞かなければならない』
その執着だけが、空っぽの器に残った唯一の機能だった。
「さあ、仕上げです」
店主が最後の針を落とす。
「あなたの全人生における、妹さんへの『愛』。それを全てフィルターに変えました。これで聞こえるはずです」
ザーーー……ッ。
ノイズが完全に消えた。
クリアな音声。
ハイレゾリューションの静寂。
レンは、呼吸すら忘れて聞き入る。
第三章 空白の慟哭
スタジオのスピーカーから、その声は響いた。
事故の直前。
ブレーキ音。
衝撃。
そして、ミナの声。
『……レン』
鮮明だ。
耳元で囁かれているようだ。
『右に……切って……』
え?
レンは目を見開いた。
『私が……盾になるから……レンだけは、生きて』
ドォォォォン!!
衝撃音。
肉が潰れる音。
そして、最期に漏れた、安堵の吐息。
『……よかった』
静寂。
レンは呆然と立ち尽くした。
「……嘘だ」
あの日、レンは自分が怖くてハンドルを切れなかったと思っていた。
違う。
ミナが、助手席からハンドルを無理やり操作したのだ。
運転席側の衝撃を避けるために。
自らの座る助手席を、トラックに晒すために。
彼女は、自分の命と引き換えに、レンを守ったのだ。
「あ、あぁ……」
真実を知った。
彼女は自分を恨んでなどいなかった。
最期の最期まで、ただひたすらに、兄を愛していた。
感動的な、あまりに美しい姉妹愛。
涙が溢れて止まらない。
だが。
レンの表情は、歪んでいた。
「……わからない」
彼は呟いた。
「彼女が僕を愛していたことは、わかった。でも」
レンは、胸を掻きむしった。
「僕が……彼女を愛していた記憶が、ないんだ」
代価として支払ったのは、妹との幸福な記憶すべて。
彼女を「大切だ」と思う感情そのもの。
だから、ミナが命を賭して自分を守ったという事実を知っても、心が震えない。
「すごいな。自己犠牲か。よくできた話だ」
レンの口から出たのは、映画の感想のような、乾いた言葉だった。
涙だけが、勝手に流れている。
体は覚えているのだ。
失ったものの大きさを。
けれど、心は何も感じない。
目の前にあるのは、見知らぬ他人が自分を助けて死んだという、客観的事実だけ。
「おや、満足できませんか?」
店主が嗤う。
「真実は、時に残酷ですね。愛を知るために愛を捨てた。その結果、残ったのは『恩義』という名の重石だけ」
レンは崩れ落ちた。
妹の愛は証明された。
だが、その愛を受け止めるための器(こころ)を、彼は自ら売り払ってしまったのだ。
一生、背負い続けることになる。
見知らぬ少女に命を救われたという、返すことのできない巨大な借りを。
愛しさを伴わない、冷たく重い事実だけを。
「……返してくれ」
レンは床を這った。
「あの子の笑顔を……僕の、悲しみを……返してくれ!!」
「返品は受け付けておりません」
店主は、カウンターの奥から新しい瓶を取り出した。
そこには、淡く光る青い液体が入っている。
レンの記憶だ。
「美しい音色だ。悲哀と後悔、そして無償の愛。最高のコレクションになりました」
店主が指を鳴らす。
世界が遠ざかる。
雨の匂いが消える。
気がつくと、レンは朝のスタジオにいた。
モニターには、波形が表示されている。
再生ボタンを押す。
『……よかった』
妹の最期の言葉。
レンはそれを聞きながら、コーヒーを啜った。
「いい音だ」
彼は呟く。
職業的な感想として。
頬を伝う涙の意味を、彼はもう、一生理解することはない。
ただ、空っぽの胸の奥で、風がヒューヒューと鳴っている。
その音だけが、彼に残された、唯一の旋律だった。