影踏みたちの円舞曲
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影踏みたちの円舞曲

第一章 静かなる拒絶

新しいアパートの鍵を受け取った日、私は生まれ変われると信じていた。古ぼけた木造二階建て、日当たりの悪い北向きの角部屋。だが、誰の視線も気にすることなく息ができるこの空間は、私にとって城そのものだった。名前は水野涼子。三十歳、独身。特技は、人の記憶に残らないこと。

しかし、そのささやかな希望は、引っ越しの挨拶に回った瞬間から崩れ始めた。隣の201号室のドアをノックすると、中から若い女性が顔を覗かせた。私が「隣に越してきました、水野です」と微笑みかけた途端、彼女の顔から血の気が引き、小さな悲鳴を押し殺してバタンとドアを閉めた。私は呆然とドアの前に立ち尽くす。何か、失礼なことをしただろうか。寝癖でもついていただろうか。

その日から、私の周囲には奇妙な静寂と、あからさまな拒絶が渦巻くようになった。アパートの階段で住人とすれ違えば、彼らは壁に体をこすりつけるようにして私を避け、足早に去っていく。近所のスーパーでは、私が商品を手に取ろうとすると、周りの客がさっと蜘蛛の子を散らすようにいなくなる。レジの店員は、私の顔を見ようともせず、震える手で釣銭をトレーに置いた。まるで、私が触れてはならない病原菌か何かであるかのように。

夜、がらんとした部屋で一人、コンビニの弁当を食べる。窓の外はしんと静まり返っているのに、壁の向こうや床下から、絶えず何かが軋む音が聞こえる。誰かの囁き声のような気配が、部屋の隅の暗がりに澱んでいる。私は、このアパートがおかしいのだと思い始めた。きっと、何か良くないものがいる。それが私に憑りつき、人々を遠ざけているに違いない。でなければ、私がこれほどまでに世界から拒絶される理由が見つからなかった。孤独が、冷たい霧のように肌にまとわりつき、私の体温を奪っていく。恐怖は、外からやってくる。私はそう、信じて疑わなかった。

第二章 見えない境界線

この異常な状況から抜け出したくて、私は原因究明に乗り出した。図書館に通い、この土地の歴史や過去の事件を調べる。インターネットで「アパート」「心霊現象」「周囲に避けられる」といったキーワードを打ち込み、夜更けまで画面を睨み続けた。

いくつかの心霊サイトで、似たような体験談を見つけた。『いる』場所に長くいると、その気配を身にまとってしまい、霊感のない人にさえ『何かおかしい』と感じさせるようになる、という記述があった。これだ、と私は思った。やはり、この部屋に巣食う何かが、私を汚染しているのだ。

恐怖は日増しに強くなる。ある晩、シャワーを浴びていると、曇った鏡に一瞬、私ではない誰かの痩せこけた横顔が映ったような気がした。慌てて振り返っても、そこには誰もいない。眠りに落ちれば、金縛りにあい、耳元で意味不明の言葉を囁かれる。それは低く、怨嗟に満ちた声で、私の安眠を貪り食った。

私はほとんど部屋から出なくなった。世界が私を拒絶するのなら、私も世界を拒絶してやる。唯一の慰めは、SNSで知り合った「カイ」という人物とのやりとりだけだった。顔も知らない相手だが、彼だけは私の支離滅裂な訴えを「大変だね」「大丈夫?」と、辛抱強く聞いてくれた。

『カイさん。今日も、誰も私と目を合わせてくれませんでした。まるで、私が透明人間みたいに』

メッセージを送ると、すぐに返信が来た。

『涼子さんは透明なんかじゃないよ。ちゃんとここにいる。でも、もしかしたら、涼子さんが見ている世界の方が、少しだけ歪んでいるのかも』

歪んでいるのは、世界の方。その言葉は、暗闇に差し込む一筋の光のように思えた。そうだ、おかしいのは私じゃない。私を拒絶する、この世界の方が狂っているのだ。私はカイの言葉に縋り、自分の殻にさらに深く閉じこもっていった。私は被害者なのだと、自分に言い聞かせながら。

第三章 鏡の向こうの悲鳴

その夜は、ひときわ月が明るかった。青白い光が窓から差し込み、部屋の隅々までを不気味に照らし出している。眠れずにいた私は、キッチンで水を飲もうと立ち上がった。その時だった。シンクの正面にかけられた小さな円鏡に、私の姿が映る。その顔はひどく憔悴し、目の下には隈が刻まれていた。

「ひどい顔……」

自嘲気味に呟いた、その瞬間。鏡の中の私が、ゆっくりと、ありえないほど口を大きく裂いて、にたりと笑ったのだ。それは私の顔でありながら、私の知らない、底知れぬ悪意に満ちた表情だった。

「ひっ……!」

短い悲鳴を上げて後ずさる。心臓が氷の塊になったように冷たく、硬直した。違う。今のは見間違いだ。疲れているんだ。そう自分に言い聞かせ、恐る恐るもう一度鏡を覗き込む。鏡の中には、青ざめた顔の私がいるだけ。やはり、気のせいだった。安堵の息をつこうとした、その時。

鏡の中から、声が聞こえた。

『……やめて……お願いだから、もう、こっちを見ないで……』

それは若い女の、恐怖に引きつったか細い声だった。鏡の中の私の背後、そのさらに奥の暗闇から聞こえてくるようだった。そこには、小さな子供を抱きしめ、ガタガタと震える若い母親らしき人影が、ぼんやりと浮かび上がっていた。彼女は、鏡のこちら側にいる私を、化け物でも見るかのような目で見つめている。

何かがおかしい。私の頭の中で、これまで無視してきたピースが、恐ろしい速度で組み上がっていく。隣人の恐怖に歪んだ顔。スーパーで私を避ける人々。そして、鏡の向こうで怯える、あの母子。

これは、私の部屋の鏡ではない。

ここは、私の部屋ではない。

ここは、201号室だ。私が最初に挨拶に行き、ドアを閉められた、あの部屋。私はいつのまにか、壁をすり抜け、隣の部屋に侵入していたのだ。そして、そこに住む新しい家族を、暗闇から覗き込んでいた。

彼らが怯えていたのは、このアパートに憑いた霊ではなかった。

私だ。

水野涼子という、この私自身が、彼らを脅かす『何か』だったのだ。

カイの言葉が脳裏に蘇る。『涼子さんが見ている世界の方が、少しだけ歪んでいるのかも』。歪んでいたのは世界ではない。私だった。私が認識しているこの世界こそが、生者の領域を侵食する、歪んだ幻だった。

自分が死んでいることに、私はその時、ようやく気づいた。一年前にこのアパートの自室で、誰にも看取られることなく孤独に死んだこと。そして、その事実に気づかないまま、地縛霊としてこの場所を彷徨い続けていたこと。私が感じていた「恐怖」や「気配」は、私を見た生者たちが発する恐怖の感情が、私に流れ込んできていただけだったのだ。私は、彼らの恐怖を、自分のものだと錯覚していた。

第四章 闇に咲く花

真実は、絶望よりも静かな諦めを私にもたらした。私は幽霊。人々に恐怖を与える、忌むべき存在。私が求めていた「普通の生活」は、もう二度と手に入らない。

全てを悟った私の目には、もう世界は以前と同じようには映らなかった。壁は壁でなくなり、時間は意味をなさなくなった。私はアパートの中を、そして外の世界を、まるで夢の中を歩くように自由に漂うことができる。人々が私を見て怯える表情も、その心に渦巻く恐怖の感情も、手に取るように分かった。彼らは悪くない。ただ、そこにいるべきでない存在を見てしまっただけだ。

これまで感じていた孤独は、性質を変えた。それはもはや、他者から拒絶される痛みではなく、生者と死者を隔てる、絶対的な断絶の自覚だった。悲しいほどに静かで、深く、そして受け入れるしかないものだった。

私は、私を怖がらせていた世界の正体を知り、初めて世界を許すことができた。そして、何よりも、自分自身を許すことができた。

ある晴れた日の午後、私はアパートの屋上にいた。眼下には、かつて私が焦がれた日常の風景が広がっている。公園で遊ぶ子供たちの笑い声。買い物袋を提げた主婦たちの話し声。すべてが眩しく、そして愛おしい。

ふと、201号室の窓に目を向けると、あの日、鏡越しに怯えさせてしまった若い母親が、赤ん坊をあやしているのが見えた。彼女は穏やかな笑顔を浮かべている。私の気配が消えたことで、彼女たちの日常に平和が戻ったのだ。

それで、よかった。

私は、もう誰かを怖がらせるのはやめようと決めた。人々の前から、その意識の中から、完全に姿を消すのだ。それは、二度目の死にも等しい、永遠の孤独を意味する。それでも、誰かの笑顔を守れるのなら、構わない。

私はゆっくりと目を閉じる。意識を、存在を、世界の片隅にある名もなき闇へと溶け込ませていく。恐怖を与えていた私が、最後に手に入れたのは、誰かを怖がらせない自由だった。それは、かつて私が求めたものとは全く違う形だったけれど、不思議なほどに満ち足りた、安らかな感情だった。

影が影でいることを受け入れた時、影は初めて、光の美しさを知るのかもしれない。私の物語はここで終わる。恐怖の物語としてではなく、一つの魂が、そのあるべき場所を見つけるまでの、静かな物語として。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

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