星霜の嘘、永久の想い

星霜の嘘、永久の想い

6 4728 文字 読了目安: 約9分
文字サイズ:

第一章 触れてはいけない記憶

柏木湊(かしわぎ みなと)の世界は、常に薄い膜一枚を隔てて存在していた。上質な革手袋。それが彼の世界の膜であり、彼自身を守るための盾だった。古文書修復師である湊にとって、その指先は商売道具であると同時に、呪いの発露でもあった。古いものに素手で触れると、かつての持ち主の強い感情が、まるで奔流のように流れ込んでくるのだ。喜び、悲しみ、怒り、絶望。それは脈絡のない情報の洪水であり、湊の精神を酷く消耗させた。だから彼は、歴史とは客観的な事実の積み重ねであり、そこに私情を挟む余地はないと、自分に言い聞かせるように生きてきた。感情は、真実を曇らせるノイズでしかなかった。

その日、湊のもとに届けられたのは、鄙びた地方の旧家で百年以上も蔵に眠っていたという一冊の和綴じの日記だった。表紙は色褪せ、角は丸くすり減っている。依頼主によれば、江戸時代末期を生きた「千代」という名の女性のものらしいが、それ以上のことは分かっていなかった。歴史の表舞台に立つことのなかった、名もなき個人の記録。それは湊が最も得意とする分野だった。

修復室の静寂の中、湊はいつも通り革手袋をはめ、慎重に日記を開いた。虫食いの跡、湿気による染み。それらを一つ一つ確認していく。和紙の繊維を傷つけぬよう、神経を指先に集中させる。その時だった。手袋の指先が、僅かに硬化したページの端に引っかかった。次の瞬間、衝動的に、彼は手袋を外していた。なぜそんなことをしたのか、自分でも分からなかった。魔が差したとしか言いようがない。

素肌の指先が、黄ばんだ和紙に触れた。

刹那、世界が反転した。激しい焦燥感が心臓を鷲掴みにし、肺から空気が絞り出される。誰かを待っている。喉が張り裂けるほど呼びたい名前があるのに、声にならない。夕暮れの茜色と、肌を撫でる風の冷たさ。桜の花びらが舞い散る光景。それは映像ではない。匂いでも、音でもない。ただ、純粋な「感情の記憶」だけが、津波のように湊の精神を打ちのめした。あまりの強烈さに、彼は椅子から転げ落ちそうになるのを必死でこらえた。

息を整え、湊は日記に目を落とす。そこには、墨で書かれた流麗な文字が並んでいた。『四月七日、晴レ。庭ノ桜、満開ナリ。』『四月十日、雨。一日中、針仕事。』当たり障りのない、静かで穏やかな日常の記録。湊が先ほど体験した、魂が引き裂かれるような切なさの欠片すら、そこには見当たらなかった。

この日記には、何かが隠されている。書かれた言葉と、そこに宿る魂の叫びとの間に、あまりにも深い断絶があった。それは湊がこれまでひたすら避けてきた、歴史の「感情」が、初めて彼に解き明かしてくれと叫んでいるように思えた。彼はごくりと喉を鳴らし、再び、今度は自らの意志で、素肌の指をそっと日記のページに置いた。膜のない世界へ、足を踏み入れる覚悟を決めて。

第二章 声なき言葉を辿って

手袋を外した指先は、まるで未知の感覚器官のようだった。湊はページを一枚一枚めくるたびに、千代という女性の感情の断片を追体験していった。それは、歴史書を読むのとは全く違う、生々しい体験だった。

春のページに触れると、胸の奥がふわりと温かくなるような、淡い喜びが伝わってくる。特定の記述があるわけではない。しかし、湊には分かった。彼女は誰かと共に桜を見上げ、その未来を夢見ていたのだ。夏が近づくにつれて、インクの染みからは微かな不安が滲み出す。遠くで鳴る祭囃子の音を聞きながら、一人で縁側に座る孤独。秋の頁には、落ち葉を踏みしめる音と共に、約束だけを信じて耐え忍ぶ、悲しいほどの健気さが宿っていた。そして冬。冷たい和紙に触れると、指先から凍えるような絶望と、それでも消えない一縷の希望が流れ込んでくる。

日記の言葉は、相変わらず穏やかだった。『九月十五日、月、殊更美シ。』その一文から、湊は月を見上げる千代の瞳に映る、遠い誰かの面影を感じ取った。彼女は誰を待っていたのか。日記には、男性の名前はおろか、それを匂わせる記述すら一切ない。ただ、繰り返し『卯月の丘』という言葉が登場する。丘の草木の色、風の匂い、季節の移ろい。千代にとって、そこは特別な場所らしかった。

湊は修復作業と並行して、日記が書かれた土地の郷土史を徹底的に調べ始めた。時代は幕末。尊王攘夷の嵐が吹き荒れ、多くの若者が歴史の渦に呑み込まれていった時代だ。図書館の古びた資料をめくり、彼は一つの可能性にたどり着く。その地にはかつて、幕府から危険思想を持つと見なされた者たちを匿う隠れ里のような場所があったらしい。そして、その連絡場所の一つが『卯月の丘』と呼ばれていたという記述を見つけたのだ。

湊の脳裏で、点と点が繋がり始める。千代が待っていたのは、時代の変革を夢見た、名もなき志士だったのではないか。彼女は、彼との連絡役として、あるいはただ純粋に、彼の帰りを信じて、この日記を綴っていたのかもしれない。日記に彼のことを一切書かなかったのは、万が一見つかった時に、彼に累が及ばないようにするため。そう考えると、穏やかな日常の記述そのものが、彼女の深い愛情と覚悟の表れのように思えてきた。

「あなたは、何を伝えたかったんだ…」

湊は、修復台の上にある日記に呟きかけた。もはやそれは、単なる研究対象ではなかった。時を超えて語りかけてくる、一人の女性の魂そのものだった。湊は、彼女の「声なき言葉」のすべてを拾い上げたいと、強く願うようになっていた。歴史の客観性という鎧は、知らぬ間に剥がれ落ちていた。

第三章 二人の千代

修復作業は終盤に差し掛かっていた。湊は日記の最後のページ、奥付のあたりを丁寧に補強していた。その時、指先に微かな違和感を覚えた。ページの厚みが、他の部分と均一ではない。まるで、薄い紙がもう一枚、ぴったりと貼り合わされているかのようだ。

湊は息を飲んだ。慎重に、剥離用のヘラを手に取り、神経の全てを指先に集中させる。ミリ単位で作業を進めると、案の定、一枚の紙がゆっくりと姿を現した。そこには、これまで見てきた流麗な文字とは明らかに違う、少し硬質で、それでいて力強い筆跡で、暗号めいた一文が記されていた。

『星巡り、北へ。約束は、土の中。』

星、北、土。湊は郷土史家にも協力を仰ぎ、解読を試みた。そして、驚くべき事実に行き着く。「星巡り」とは、北斗七星の動きを指し、当時、蝦夷地へ向かうための隠密ルートの目印を示す隠語だったのだ。「約束は、土の中」とは、再会の約束の品を、卯月の丘の特定の木の根元に埋めたことを意味していた。これは、千代の恋人であった志士だけが理解できる、二人だけのメッセージだった。

これで謎は解けた。湊は安堵のため息をついた。千代は、危険を冒して恋人の逃亡を手助けし、その帰りを待ち続けていたのだ。だが、湊の心の奥底で、何かがまだ引っかかっていた。日記から感じ取った感情の質が、どうにも腑に落ちなかったのだ。初期の淡い恋心や切なさと、後期の悲しみを突き抜けたような静かな覚悟とでは、まるで別人の魂のように色合いが異なっていた。

その違和感の正体を突き止めるため、湊は最後の科学的分析に取り掛かった。日記全体に使われている墨と、隠されたページに使われている墨の成分を、蛍光X線分析装置にかける。結果は、数時間後に出た。

モニターに表示されたグラフを見て、湊は絶句した。

二つの墨は、成分が、微妙に、しかし明確に異なっていた。さらに、和紙の劣化具合から推定される年代測定では、日記の本体と隠されたページとでは、少なくとも五年の歳月の隔たりがあった。

ありえない。同じ人間が、同じ時期に書いたものではない。

頭の中で、バラバラだったピースが、恐ろしいほどの速度で組み上がっていく。二種類の筆跡。質の違う感情。異なる年代の墨。導き出される結論は、ただ一つだった。

この日記を書いていたのは、二人いたのだ。

最初の書き手は、恋人を待ち続けた千代。しかし、彼女はおそらく、恋人の帰りを待つことなく、病か何かでこの世を去った。日記は、そこで終わるはずだった。だが、誰かがそれを引き継いだのだ。おそらくは、千代の妹。彼女は、北へ逃れた姉の恋人が、姉の死を知って希望を失うことを恐れた。だから、姉の振りをして日記を書き続け、時折、彼に「元気にしている」という偽りの手紙を送り続けたのだ。隠されたページの暗号は、いつか彼が戻ってきた時に、真実と共に姉の想いを伝えるために、妹が書き加えたものだった。

湊が感じ取っていた強烈な感情の奔流。それは、千代一人のものではなかった。恋人を想う姉の切なさ。そして、その姉を想い、その恋人の心を救うために、己の人生を賭けて「優しい嘘」をつき続けた妹の、悲しくも気高い覚悟。二人の魂が、この一冊の日記の中で重なり合っていたのだ。湊は、そのあまりにも切ない真実に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

第四章 星霜の嘘、永久の想い

修復を終えた日記を、湊は依頼主である旧家の当主に手渡した。そして、調査で判明した「二人の千代」の物語を、静かに語って聞かせた。当主の老人は、しばらく黙って話を聞いていたが、やがて皺の刻まれた目尻に涙を浮かべた。

「そうか……うちの一族には、『優しい嘘つきのご先祖様』という逸話だけが伝わっていた。誰が、何のために嘘をついたのか、誰も知らなかったが……。長年の謎が、解けました。ありがとう、本当にありがとう」

歴史とは、かくも静かに、個人の想いを紡いできたものなのか。湊は深く頭を下げ、その場を辞した。

修復室に戻った湊は、窓から差し込む西日を浴びながら、机の上に置かれた革手袋を眺めた。かつて自分を守ってくれた盾。しかし、それは同時に、歴史の本当の姿から目を背けるための言い訳でもあった。彼は、その手袋をそっと引き出しの奥にしまった。もう、必要ないだろう。

机の上には、次の修復を待つ古文書が山積みになっている。湊は、その中の一冊に、おそるおそる指を伸ばした。触れた瞬間、微かな感情の残滓が、静電気のように指先を駆け抜ける。以前ならノイズとして切り捨てていたその感覚が、今は愛おしく感じられた。これは、歴史を織りなした名もなき人々の、確かに生きていた証なのだ。年号や事件の羅列の裏側で、彼らが何を想い、何を願ったのか。その息遣いを、自分は指先で感じることができる。

湊は窓の外に目をやった。藍色に染まり始めた空に、一番星が儚く瞬いている。あの星の光は、何百年も前に放たれたものだ。千代と、その名もなき妹も、きっと同じようにこの星空を見上げ、遠い誰かに想いを馳せたのだろう。

歴史の真実は、一つではないのかもしれない。事実は一つでも、そこに関わった人々の数だけ、それぞれの真実がある。妹がつき続けた嘘は、姉の恋人にとっては、生きるための希望、すなわち「真実」だったはずだ。そしてその嘘に込められた姉妹の想いは、百年以上の時を超え、こうして確かに湊の心に届いた。

それは、記録に残らない、しかし決して消えることのない、もう一つの歴史の姿だった。

これから自分は、この指先で、数多の「声なき声」に耳を澄ませていくのだろう。湊は静かに決意した。それは、古文書修復師としての、そして一人の人間としての、彼の新たな人生が始まる瞬間だった。夕闇が深まる修復室で、湊は一人、遠い星霜に思いを馳せていた。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る