クロノスの修復師

クロノスの修復師

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第一章 触れられない記憶の欠片

カイの仕事場は、埃と静寂、そして無数の死んだ時間の匂いがした。壁一面に並ぶガラスケースには、歴史の断片――「クロノ・フラグメント」が収められている。琥珀のように透き通った結晶体の中に、封じられているのは過去の一瞬だ。あるものは戦場の鬨の声、あるものは王の戴冠式、またあるものは名もなき恋人たちの口づけ。カイは、この街で唯一のフラグメント修復師だった。

大厄災が文明の多くを洗い流して一世紀。人々は失われた歴史を渇望した。クロノ・フラグメントは、そんな時代の嗜好品であり、同時に信仰の対象でもあった。カイは、経年劣化や不適切な接触で傷ついたフラグメントを、特殊な音叉と共鳴液を使って修復する。それは外科手術のように繊細で、調律のように精密な作業だった。彼は歴史に触れるが、決してその中には入らない。それが彼の信条であり、自己防衛の本能でもあった。なぜならカイには、幼い頃の記憶がなかったからだ。自分自身の歴史を持たない男が、他人の歴史を修復して生きている。その皮肉が、彼を外界から隔てる薄い膜になっていた。

その日、店の呼び鈴が鳴ったのは、閉館時間をとうに過ぎた頃だった。雨がアスファルトを叩く音に混じって、控えめだが確かな音色。ドアを開けると、フードを深く被った女が立っていた。雫が滴るローブの下から、桐の箱が差し出される。

「これを、修復してほしいのです」

湿り気を帯びた低い声だった。

カイは無言で箱を受け取り、作業台のライトの下で蓋を開けた。中には、黒いビロードに包まれた、拳ほどの大きさのフラグメント。しかし、それは彼がこれまで見てきたどのフラグメントとも異なっていた。通常なら滑らかな表面は無数の亀裂に覆われ、内部の光は脈を打つように明滅している。まるで、瀕死の生き物の心臓のようだ。

「ひどい状態だ。これほどの損傷は……。何のフラグメントです?」

「……記録にはないはずです。『シビュラの図書館』が焼失した、最後の日のもの」

その言葉に、カイの指が微かに震えた。シビュラの図書館。大厄災以前、あらゆる知識と歴史が集積されていた伝説の場所。公式記録では、大厄災の混乱の中で自然発火により失われたとされている。

「そんなものは存在しない。都市伝説だ」

「だからこそ、修復していただきたいのです。真実が、ここにあります」

女はフードの奥から、カイの目をじっと見つめた。その瞳に宿る光は、懇願とも命令ともつかない、抗いがたい力を持っていた。

カイはフラグメントにそっと指を触れた。その瞬間、脳を直接灼かれるような衝撃が走った。

――焦げ付く紙の匂い。遠い悲鳴。割れるガラス。熱風が肌を撫で、誰かが必死に叫んでいる。

『カイ! 逃げて!』

自分の名前を呼ぶ、切羽詰まった少女の声。

カイは弾かれたように手を引いた。心臓が激しく波打ち、額に冷たい汗が滲む。自分の記憶にはないはずの光景。知らないはずの声。

「報酬は、望むままに」女が言った。

金の問題ではなかった。このフラグメントは危険すぎる。自分の精神の核を揺さぶる、未知の毒を含んでいる。断るべきだ。本能がそう警告していた。

しかし、彼の口から出た言葉は、自分でも予期しないものだった。

「……預かろう。ただし、時間はかかる」

あの声の主を、確かめなければならない。カイは、自ら禁じていた領域へ、足を踏み入れようとしていた。

第二章 修復師の見る夢

修復作業は、カイの精神を少しずつ削り取っていく苦行だった。彼はまず、特殊な共鳴液で満たした水槽にフラグメントを沈め、微弱な電流を流す。結晶構造を安定させ、内部情報の漏出を最小限に抑えるためだ。次に、様々な周波数の音を放つ音叉を使い分け、亀裂の入った部分を分子レベルで繋ぎ合わせていく。それは、砕け散ったガラスの器を、音の振動だけを頼りに復元するような神業だった。

作業に集中するたび、カイの意識はフラグメントの記憶の奔流に引きずり込まれた。彼は夢とも現実ともつかない光景を見た。高い天井まで届く書架。革の装丁が放つ古びた香り。ページをめくる指先の感触。それは、シビュラの図書館の、平穏な日常の記憶だった。そして、その光景の中には、いつも一人の少年がいた。自分とよく似た、だがもっと無邪気な顔をした少年が、書物の森を駆け回っている。

「彼は誰だ……」

カイは作業を中断し、額を押さえた。眠るたびに、夢はその濃度を増していく。図書館の穏やかな風景は、やがて不穏な影に覆われ始めた。外から聞こえる怒号。地響き。そして、煙の匂い。フラグメントの亀裂が一つ癒えるたびに、彼は「あの日」に近づいていく。

ある夜、カイはついに、あの少女の姿を垣間見た。少年よりも少し年下に見える、強い意志を宿した瞳の少女。彼女は燃え盛る書架の前で、必死に本を抱えていた。

『兄さん! 早く!』

少女が叫ぶ。その声は、最初にフラグメントに触れた時に聞いた声と同じだった。兄さん、と。彼女は、あの夢の中の少年――カイに生き写しの少年を、そう呼んでいた。

「まさか……」

カイは立ち上がり、鏡に映る自分の顔を見た。三十歳を過ぎ、記憶の欠落という空白を抱えた、疲れた男の顔。夢の中の少年が成長すれば、この顔になるのだろうか。

彼は、自分が何者なのか、何も知らなかった。孤児院で育ち、物心ついた時から記憶がなかった。フラグメント修復の技術だけが、彼が世界と繋がる唯一の術だった。だが、もし、このフラグメントが本当に自分の過去の一部だとしたら?

その考えに取り憑かれたカイの前に、再びあの女が現れた。

「修復は、進んでいますか」

「あなたは、誰だ。なぜこのフラグメントを俺に?」

カイは問い詰めた。女はしばらく沈黙した後、静かにフードを取った。現れたのは、夢で見た少女がそのまま成長したかのような、美しい女性だった。その瞳は、あの頃と同じ強い光を宿している。

「私はリナ。あなたを、ずっと探していました」

「俺を……? どういうことだ」

「そのフラグメントは、ただの歴史記録ではありません。それは、あなたが失った記憶そのものなのです」

リナの言葉は、静かだが重く響いた。

「あなたは、シビュラの図書館の最後の司書だった。歴史を守る一族の、最後の後継者。あの日、図書館を襲った者たちから、私があなたを……兄さんを救い出すために、あなたの記憶を封印したのです」

彼女は、カイの最も辛い記憶を、最新技術でクロノ・フラグメントとして抽出し、彼の命を救ったのだと告げた。

「なぜ、今になって……」

「時が来たからです。歴史を消費するだけのこの世界を、変えなければならない。そのためには、真実の歴史を知るあなたの力が必要です。さあ、記憶を取り戻して。兄さん」

リナの瞳から、一筋の涙がこぼれ落ちた。それは、十数年分の後悔と、兄への想いが凝縮された、熱い雫だった。

第三章 君が遺した歴史

リナの告白は、カイの世界を根底から覆した。彼は歴史の修復師ではなかった。彼自身が、修復されるべき歴史そのものだったのだ。これまで他人の過去を繋ぎ合わせてきた行為は、自分自身の失われた過去から目を背けるための、無意識の逃避だった。

作業台の上で、不気味な光を放つフラグメント。それはもはや、単なる依頼品ではない。彼自身の魂の欠片だった。カイは震える手で、最後の音叉を手に取った。これを鳴らせば、最後の亀裂が塞がり、封印された記憶が完全に蘇る。炎の熱、引き裂かれるような悲しみ、そして死の恐怖。それらすべてが、自分の中に流れ込んでくる。

恐ろしかった。記憶のない空っぽの自分でいる方が、どれだけ楽だろうか。だが、カイの脳裏に、リナの涙と、夢の中で見た自分の無垢な笑顔が蘇る。歴史を持たない人間など、存在しない。痛みも喜びも、すべて引き受けてこそ、人は未来へ歩み出せるのではないか。

カイは覚悟を決めた。

彼は音叉を構え、澄んだ音を響かせた。キィン、という金属音が空間に広がり、フラグメントが最後の光を放つ。その光はカイの体を包み込み、彼の意識は奔流の中へと引きずり込まれた。

――炎が、すべてを舐め尽くしていく。数千年分の人類の叡智が、灰になっていく。武装した男たちが、抵抗する司書たちを容赦なく切り捨てていく。「歴史は支配するものだ。民に与えるものではない」と、リーダー格の男が笑っていた。

少年だったカイは、禁断の書庫の奥で、妹のリナを庇っていた。もう逃げ場はない。炎がすぐそこまで迫っている。

「リナ、これを」

カイは、首にかけていた鍵を妹に託した。「これがあれば、いつか再建できる。だから、君だけでも生き延びるんだ」

「嫌だ! 兄さんと一緒じゃなきゃ!」

「俺は、こいつらと、この図書館と共に行く。これが俺の歴史だ」

そう言って、カイは崩れ落ちてくる書架の下からリナを突き飛ばした。燃える梁が彼の身体を打ち据え、意識が遠のいていく。薄れゆく視界の中で、リナが泣き叫びながら、何者かに連れ去られていくのが見えた。最後に聞こえたのは、自分の名を呼ぶ妹の絶叫だった。

光が収まった時、カイは作業場の床に膝をついていた。頬を伝うのは、汗か涙か、分からなかった。だが、彼の内側には、失われたはずの十数年分の歴史が、痛みと共に、しかし確かな温もりを持って蘇っていた。

彼は立ち上がり、完全に修復され、穏やかな光を放つ琥珀色の結晶体――彼自身の記憶――を手に取った。そして、心配そうに見守るリナに向かって、ゆっくりと微笑んだ。

「ただいま、リナ」

それは、少年時代と変わらない、優しい兄の笑顔だった。

カイはフラグメントを自らの胸に当てた。それは物理的に吸収されるわけではない。だが、彼の魂は、失われた片割れを取り戻し、完全な一つの円環となった。彼はもう、歴史を修復するだけの男ではない。自らの歴史を受け入れ、未来を創造する男になったのだ。

数年後。

かつてシビュラの図書館があったとされる広大な更地に、小さな建物が建っていた。まだ書架はまばらで、壁も真新しい木の匂いがする。だが、そこには子供たちの笑い声と、熱心にページをめくる人々の姿があった。

建物の入り口で、カイとリナがその光景を眺めている。

「まだ、始まったばかりだな」カイが言う。

「ええ。でも、ここから新しい歴史が始まるの」リナが答える。

カイの胸には、もうフラグメントはない。彼の歴史は、消費される過去の断片ではなく、未来へ続く礎となった。空を見上げると、夕日が新しい図書館を黄金色に染めていた。それはまるで、灰の中から蘇った不死鳥の翼のように、美しく輝いていた。歴史とは、書物に記録された静的な事実ではない。それは、痛みを乗り越え、誰かに何かを繋ごうとする人々の意志の中にこそ、脈々と生き続けていくものなのだ。カイは、その真実を胸に、新たな一歩を踏み出した。

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