残響鑑定士

残響鑑定士

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第一章 触れてはいけない記憶

俺、桐谷朔(きりたにさく)の仕事は、死の匂いを嗅ぎ分けることから始まる。いや、比喩ではない。孤独死、事故、あるいは自ら命を絶った部屋には、腐敗臭や薬品臭とは異なる、もっと形而上的な「死の澱(おり)」が満ちている。俺は遺品整理士として、その澱を祓い、残された品々を仕分けるのが生業だ。

感情を殺し、流れ作業のように手を動かす。それが自分を守る唯一の術だった。同僚たちは「桐谷は鋼の心臓を持っている」と揶揄するが、違う。硝子細工の心を、分厚い鉛の壁で覆っているだけだ。

その日、俺が担当したのは、都心から少し離れた古いアパートの一室だった。住人は八十代の男性、死因は心筋梗塞。発見まで一週間。部屋の扉を開けた瞬間、夏の熱気と混じり合ったむせ返るような空気が、鉛の壁を浸食してくる。感傷は不要。必要なのは効率と冷静さだけだ。

粗方の家財を運び出し、最後に残ったのは窓際に置かれた一台の古いラジオだった。黒いプラスチックの筐体は埃をかぶり、チューニングダイヤルには、持ち主だった老人の指の跡が脂で黒光りしている。それを手に取った、瞬間だった。

――ブツン、と。

世界から音が消えた。代わりに、鼓膜の奥で「キィィン」という金属的な高音が鳴り響く。視界がぐにゃりと歪み、目の前の壁紙の染みが、まるで血管のように脈打ち始めた。なんだ、これは。貧血か?

違う。これは、俺の感覚ではない。

胸が締め付けられる。呼吸ができない。巨大な万力で心臓を直接握り潰されるような、凄まじい圧迫感。喉がヒューヒューと鳴り、助けを呼びたいのに声にならない。孤独。暗闇。壁の染みが、床の木目が、天井の照明が、すべて嘲笑うように俺を見ている。誰も助けに来ない。このまま、ここで、たった一人で朽ちていくのだ。絶望が、冷たい泥水のように全身を巡っていく。

「――っ、う、あああああっ!」

気づけば俺は、ラジオを放り出して床に蹲っていた。全身は脂汗で濡れ、心臓が警鐘のように乱れ打っている。今のは、何だ? あれは、俺自身のパニックではない。あれは、あの老人が死の瞬間に感じた、純度百パーセントの恐怖と苦痛そのものだった。

以前から、遺品に触れると、持ち主の微かな感情が流れ込んでくるような奇妙な感覚はあった。だが、こんなにも鮮明に、肉体的な苦痛まで伴って「追体験」したのは初めてだった。

俺は震える手で自分の胸を押さえた。鉛の壁に、決定的な亀裂が入った音を聞いた。

第二章 呪いの共感

あの日以来、俺の世界は一変した。呪いは、一度タガが外れると、際限なく日常を侵食してくる。

次の現場は、交通事故で亡くなった二十代の女性の部屋だった。彼女が愛用していたらしい革のショルダーバッグに指が触れた途端、俺はアスファルトの上に叩きつけられていた。ブレーキの軋む音。砕け散るガラスの悲鳴。そして、自分の骨が軋み、肉が裂ける生々しい感触。視界が急速に赤く染まっていく中、遠ざかる意識の片隅で「ああ、ライブに間に合わないな」と、場違いなことを考えている彼女の思考までが、俺のものになった。

またある時は、病死した中年男性の万年筆から、癌の痛みに蝕まれ、日に日に衰弱していく長い絶望を追体験した。希望を失い、ただ痛みに耐えるだけの日々の記憶が、数秒の間に俺の精神を削り取っていく。

もはや、仕事どころではなかった。手袋を三枚重ねにしても、分厚い布で遺品を掴んでも、ふとした瞬間に呪いは発動する。俺は物に触れるのが怖くなった。コンビニで釣り銭を受け取ることも、電車の吊り革を掴むことも、すべてが恐怖の引き金になりかねない。

「桐谷、最近顔色が悪いぞ。少し休んだらどうだ?」

上司の気遣いが、ガラス越しのように遠く聞こえる。俺は誰にもこの苦しみを打ち明けられなかった。頭がおかしくなったと思われるのが関の山だ。俺は他人との接触を極限まで断ち、アパートの自室に引きこもるようになった。

他人への無関心で築いた鉛の壁は、今や無数の亀裂から他人の「死」を垂れ流す欠陥品だった。強制的に浴びせられる絶望、苦痛、後悔。他人の死が、俺の中で堆積していく。毎晩、見知らぬ人々の最期の悪夢にうなされ、叫び声を上げて飛び起きた。硝子の心は、もう砕け散る寸前だった。

辞めよう。こんな仕事、続けていられるはずがない。そう決意した矢先、会社から一本の電話が入った。どうしても、と懇願された案件。二十四歳の女性、倉田美咲。警察は事故死として処理したが、遺族はどうしても納得できないらしい。いわゆる、不審死というやつだ。

断るべきだった。だが、電話口で泣きじゃくる母親の声を聞いているうちに、俺の中に奇妙な感情が芽生えた。「知りたい」。その女性が、一体どんな最期を迎えたのか。それは、呪いが生んだ歪んだ好奇心だったのかもしれない。俺は、まるで何かに引き寄せられるように、その依頼を引き受けていた。

第三章 最も強い感情

倉田美咲の部屋は、彼女の不在を信じられないほど、生活感に満ちていた。化粧水が並んだドレッサー、読みかけの本、キャラクターもののマグカップ。彼女は、ここで確かに生きていた。

俺は深呼吸をし、覚悟を決めた。遺族が特に気にかけていたのは、彼女が肌身離さずつけていたというネックレスと、毎日書いていたという日記帳だった。

まずはネックレスに触れてみる。細いチェーンに小ぶりなダイヤがついた、繊細なデザインだ。指先が触れた瞬間、温かい光が流れ込んできた。誕生日だろうか、恋人らしい男性からプレゼントされ、はにかむ彼女の、胸がときめくような幸福感。死の苦痛ではない。生きている時の、幸せな記憶だ。俺は少しだけ安堵した。

問題は、日記帳だ。ベッドサイドに置かれた、ピンク色の革張りの日記。これが、彼女の最期に最も近い記憶を持っているはずだ。俺は唾を飲み込み、震える手で表紙に触れた。

――来る。あの、死の絶望が。

目を固く閉じて、衝撃に備えた。だが、流れ込んできたのは、予想していたものとは全く異質だった。

それは、恐怖ではなかった。苦痛でも、悲しみでもない。

――高揚感。

ねっとりとした、歪んだ歓喜。獲物を見つけた捕食者のような、冷たい興奮。視界が、男のそれに切り替わる。目の前には、怯える倉田美咲がいる。彼女の恐怖に満ちた瞳が、男の心をさらに昂らせる。

「綺麗だね」

俺の唇から、俺のものではない声が漏れた。男の声だ。低い、落ち着いた声。だがその奥には、狂気が渦巻いている。男の手が、彼女の首にかかる。抵抗する細い腕。その無力さが、男の支配欲を最高潮に満たしていく。

これは、なんだ? 俺が体験しているのは、倉田美咲の恐怖ではない。彼女を殺した、犯人の感情だ。犯人の視点、犯人の思考、犯人の、あの悍ましいまでの全能感。日記帳に触れている俺の手には、彼女の首を絞めている感触が、あまりにもリアルに伝わってきていた。

俺は絶叫と共に日記帳を突き放した。全身が粟立ち、吐き気がこみ上げる。最悪だ。これは、これまでで最もおぞましい体験だった。

だが、混乱の極みの中で、一つの真実が雷のように俺を撃ち抜いた。

俺の能力は、死者の感情を追体験するものではなかったのだ。そうではなかった。この力は、物に宿った「最も強い感情」を読み取る能力だったのだ。だから、愛用品からは生前の穏やかな記憶を、そして――凶器、あるいは犯人が触れた物からは、殺意や憎悪といった、犯人の感情を読み取ってしまうのだ。

今まで俺を苛んできたのは、死者の断末魔だけではなかった。事故の衝撃、病の絶望、そして、この部屋の犯人のように、誰かが遺した強烈な悪意。それら全てを、俺は「死者の感情」だと誤解していたのだ。

これは呪いだ。紛れもない。だが、もし、もしそうなら。この力は、ただ俺を苦しめるだけのものではないのかもしれない。

第四章 声なき者の代弁者

俺は床にへたり込んだまま、荒い息を繰り返した。犯人の高揚感の残滓が、まだ神経の末端にこびりついている。だが、恐怖の奥で、鉛の壁のさらに奥で、砕け散ったはずの硝子の心が、カチリと音を立てて組み上がり始めるのを感じた。

無関心。逃避。それが俺の生き方だった。しかし、今、俺は初めて「当事者」になった。倉田美咲の無念でも、犯人の狂気でもない、俺自身の感情が、腹の底から湧き上がってくるのを感じた。それは、静かで、しかし燃えるような怒りだった。

もう一度、日記帳に手を伸ばす。今度は、情報を得るためだ。目を閉じ、再びあの悍ましい感覚に身を浸す。男の五感を、俺は必死に探った。

視覚。男の視界の端に映る、自分の手。指の関節に、古い傷跡がある。

嗅覚。男が纏う、独特の香水の匂い。白檀(びゃくだん)に似ているが、もっと甘く、スパイシーな香りだ。

聴覚。男は、彼女の息が絶える間際、クラシックのメロディを口ずさんでいた。聞いたことのない、マイナーな曲だ。

それだけの情報で十分だった。俺は現場を後にすると、公衆電話を探し、非通知で警察に電話をかけた。声を変え、落ち着いて、しかし詳細に、俺が「見た」犯人の特徴を伝えた。指の傷、特殊な香水、口ずさんでいた曲。警察は半信半疑だったが、無視できない情報量だと判断したようだった。

数日後、ニュースで倉田美咲さん殺害の容疑者逮捕が報じられた。逮捕の決め手は、被害者の遺族への聞き込みで浮上した、元交際相手の特徴と、俺が提供した情報が完全に一致したことだったという。男は特殊な香水を愛用し、指に古い傷があり、無名の作曲家が作ったクラシックを好んで聴いていた。物的証拠も揃い、犯行を自供したと報じられていた。

テレビ画面に映る犯人の顔を見ても、俺はもう何も感じなかった。追体験したあの高揚感は、もう俺のものではなかった。

俺は会社に辞表を出すのをやめた。

第五章 新しい始まり

数週間後、俺は新しい現場に立っていた。今度の依頼は、病気で亡くなった七歳の男の子の部屋だった。両親は、息子の思い出の品を前に、どうしても整理する気になれないのだという。

部屋には、ヒーローのポスターが貼られ、床にはミニカーが散らばっている。その中心に、男の子が最後まで抱きしめていたという、くたびれた熊のぬいぐるみが置かれていた。

以前の俺なら、恐怖で足がすくんだだろう。幼い子供の死の苦しみを追体験するなど、考えただけでも気が狂いそうだった。

だが、今の俺は違った。俺はゆっくりとぬいぐるみの前に膝をつき、そっとそれに手を伸ばした。

目を閉じる。流れ込んでくる感情に備える。

もし、この能力が本当に「最も強い感情」を写し取るものなら。俺がこれから体験するのは、死の苦痛だけではないかもしれない。病気と闘った勇気かもしれない。両親への、ありったけの愛情かもしれない。短い人生の中で感じた、純粋な喜びや、幸せな記憶かもしれない。

俺は、それら全てを受け止める覚悟を決めた。

指先が、ぬいぐるみの柔らかな毛並みに触れる。

流れ込んできたのは、陽だまりのように温かい感覚だった。それは、母親に抱きしめられた時の、絶対的な安心感。世界の全てから守られているという、幸福な記憶の残響だった。涙が、俺の頬を静かに伝った。それは恐怖の涙ではなく、他人の人生の温かさに触れた、初めての涙だった。

俺は遺品整理士を続けるだろう。この呪いと共に、生きていく。死の澱が満ちる部屋で、声なき者の最後の感情を拾い集める。それは、恐怖と苦痛に満ちた、茨の道に違いない。

だが、俺はもう孤独な傍観者ではない。死者の絶望と、そして確かにそこにあった温もりを受け止める、世界でただ一人の「残響鑑定士」なのだから。

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