空白のクロノスコープ
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空白のクロノスコープ

第一章 錆びた鉄の匂い

アスファルトの亀裂から、古い時代の匂いが滲み出ていた。錆びた鉄と、湿った石炭の匂い。僕、刻(トキ)は膝をつき、指先でその『歴史の傷跡』にそっと触れる。ひび割れの奥は、深く暗い闇ではなく、陽炎のように揺らめく過去の光景が澱んでいた。

「同調する」

息を吸い込むと、亀裂から立ち上る微かな『魂の残滓』が肺を満たした。瞬間、視界がぐにゃりと歪む。耳の奥でけたたましい蒸気機関の音が鳴り響き、見知らぬ男の汗と疲労が、まるで自分のもののように全身を駆け巡った。彼は橋梁を設計する技師だった。鉄骨のアーチを見上げ、誇りと、時代を変えるという高揚に満ちている。その感情の奔流が僕の意識を洗い流し、数秒後、僕は再びアスファルトの上にいた。

「十九世紀末、バーミンガム……鉄橋建設の記憶か」

報告書に書き込みながら、僕は自分の手のひらを見つめる。誰かの記憶を追体験するたび、僕自身の記憶が少しずつ掠れていく。今朝、鏡に映った自分の顔が、一瞬だけ他人のように見えた。僕の両親はどんな顔をしていたんだっけ。その輪郭が、また少し曖昧になっていた。

第二章 揺らぐ羅針盤

「最近の『傷跡』は、ただの漏出ではない」

書庫の奥深く、埃と古紙の匂いが満ちる部屋で、祖父は重々しく口を開いた。彼は『層守(そうもり)』の一族の長であり、僕の唯一の家族だった。皺の刻まれた指が、古い木箱をゆっくりと開ける。

「世界の基盤そのものが、根元から揺さぶられている。まるで、土台が崩れ始めているかのように」

箱の中に収められていたのは、黒曜石のように鈍い光を放つ羅針盤だった。針はなく、代わりに盤面には水晶が埋め込まれている。

「『歴史の羅針盤(クロノスコープ)』だ。お前の心臓と同期し、時の流れの最も強い残響を捉える」

祖父はそれを僕の手に乗せた。ひんやりとした感触。僕の心臓がどくん、と鳴ると、羅針盤の水晶が淡い光を灯した。

「行け、刻。誰も到達したことのない、最も深い層へ。この揺らぎの源を突き止めるんだ。お前にしかできん」

祖父の目には、期待と、そして深い哀れみが浮かんでいた。まるで、僕が失うものの大きさを知っているかのように。

第三章 忘却の地層へ

『降下ケージ』と呼ばれる古びたエレベーターは、軋みながら時間の層を垂直に下っていく。窓の外の景色が、目まぐるしく変わった。高層ビル群が砂岩の神殿に、舗装路が緑豊かな平原へと逆行していく。

ジュラ紀の層を抜けると、空気が一変した。濃密なシダの匂いと、巨大な獣の咆哮が壁越しに響く。カンブリア紀の層では、奇妙な生命の気配だけが満ちる、静かな海の底のような圧力を感じた。

そして、全てが消えた。

音も、光も、匂いも。ケージは、記録されている歴史の最下層を突き抜け、『忘却の地層』へと突入したのだ。そこは完全な無だった。手のひらに載せたクロノスコープが、突如として狂ったように明滅を始めた。水晶は警告を示す不気味な深紅色に染まり、盤面全体が熱を帯びて震えている。まるで、あり得ないものに近づいていると叫んでいるかのようだった。

やがてケージは、ゆっくりと停止した。扉が開く。目の前に広がっていたのは、虚無そのものだった。

第四章 空白の中心

一歩、また一歩と、無の空間を進む。足音はどこにも響かず、自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえた。ここは、物理的な法則さえ曖昧な場所らしかった。時間の堆積が、ごっそりと抉り取られたような、巨大な『歴史の空白』。

その中心に、それはあった。

闇よりもなお暗い、一本の石碑。まるで、この世の全ての光を吸い込んでいるかのようだ。何かに引き寄せられるように、僕は石碑へと歩み寄る。指先が、その冷たい表面に触れた瞬間――。

閃光。

僕の脳内に、他人の記憶が嵐のように流れ込んできた。だが、それは今まで経験したどんな『魂の残滓』とも違った。これは、僕の血に流れる、遠い祖先の記憶だった。

白い衣をまとった何人もの人々が、この石碑を囲んでいる。彼らの顔は悲痛に歪み、しかしその瞳には鋼のような決意が宿っていた。彼らは厳かな儀式を行っていた。一つの『歴史』を、世界から完全に消し去るための儀式を。

「我らの罪を、未来へ遺すわけにはいかぬ」

「この嘘が、我らの子孫を永劫に守る盾とならんことを」

彼らの声が、僕の頭の中で直接響いた。そして僕は見てしまった。彼らが消し去ろうとしていた『最初の層』に記録されていた、恐ろしく、そして悲しい真実の光景を。

第五章 嘘でできた世界

我々人類は、この星の子供ではなかった。

遥かな昔、滅びゆく故郷を捨てて宇宙を彷徨った難民だったのだ。そして、この青い星に辿り着いた。だが、この星には既に、高度な知性を持つ穏やかな先住民がいた。彼らは自然と調和し、争いを知らない種族だった。

生存のため、場所を確保するため、我々の祖先は彼らと争った。そして、滅ぼした。我々が今立っているこの大地は、奪い取ったものだったのだ。

『最初の層』とは、その虐殺と略奪の記憶。人類が犯した、取り返しのつかない原罪の記録だった。

僕の祖先である『層守』たちは、この真実がいつか人類自身の精神を蝕み、自己破壊へと導くことを恐れた。だから彼らは、その歴史を封印し、『空白』を創り出したのだ。我々が生きるこの平和な世界は、巨大な『嘘』という土台の上に築かれた、脆い城だった。

クロノスコープが僕をここに導いたのは、失われた層を探させるためではなかった。綻び始めた封印を前に、一族の末裔である僕に、改めて選択を迫るためだったのだ。

第六章 刻の選択

石碑の表面に、古代の文字が淡く浮かび上がった。それは問いかけだった。

『封印を再構築し、嘘を守るか』

『封印を破壊し、真実を解放するか』

どちらを選んでも、世界は大きく変わるだろう。嘘を守り続ければ、いずれこの『空白』の侵食は世界を飲み込み、静かに崩壊するかもしれない。真実を解放すれば、人々は絶望し、世界は瞬時に混乱の渦に叩き込まれるかもしれない。

僕はポケットを探り、一枚の色褪せた写真を取り出した。そこに写っているのは、幼い僕と、顔の輪郭がもう思い出せない両親。彼らは、この嘘の土台の上で、僕を愛し、育ててくれた。この偽りの平和の中で、確かに幸福は存在したのだ。

僕自身の記憶すら、こんなにも曖昧で不確かなのに。この世界の、巨大な記憶の真偽を、僕一人が決めていいのだろうか。

クロノスコープは、僕の心臓と同期し、静かに青い光を放っている。それはまるで、穏やかな海の色だった。僕はこの星の、本当の海の色を知らない。

深く、息を吸い込む。

そして僕は、決意を固めて石碑に手を伸ばした。

どちらかの選択肢へと。

世界がどちらの未来を選んだのか、僕にも分からない。ただ、僕が再び『降下ケージ』に乗って地上へ戻った時、空の色が、ほんの少しだけ昨日とは違って見えたことだけは確かだった。それは、悲しいほどに澄み切った、見たこともない青色だった。


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