時の残響に耳を澄ませて

時の残響に耳を澄ませて

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第一章 木箱の子守唄

水上朔(みなかみ さく)の世界は、音で満ち溢れていた。ただし、それは今この瞬間に鳴り響いている音ではない。彼が古書店や骨董店で手に取る一冊の本、一枚の皿、それらすべてが、過去の所有者の声、置かれていた部屋の物音、過ぎ去った時代の喧騒を、彼の鼓膜の内側で囁き続けるのだ。

この特異な能力は、物心ついた頃からの呪いだった。触れた物の「記憶の音」を聞くことができるサイコメトリー。おかげで、朔は新しい物しか身につけられず、人との深い関わりを避け、古文書修復師という、静かで孤独な職業にたどり着いた。歴史の断片を繕いながら、その声から耳を塞いで生きる。それが彼の処世術だった。

その日、朔は鎌倉の旧家から蔵の整理を依頼されていた。埃と黴の匂いが混じり合ったひんやりとした空気の中、彼は黙々と書物の虫損を調べていた。依頼主の老婦人が茶を淹れに母屋へ戻った、その時だった。積み上げられた行李の陰に、ぽつんと置かれた桐の小箱が目に留まった。何の変哲もない、黒ずんだ木箱。だが、なぜか朔は強く惹きつけられた。

恐る恐る指先を伸ばし、ざらついた木肌に触れた瞬間――世界が反転した。

それは、これまで経験したことのないほど鮮明で、暴力的な音の洪水だった。まず、遠くで唸りを上げる不気味なサイレン。空襲警報だ。すぐ側で、若い女性が必死に何かを宥めるように、優しい声で歌っている。知らない、けれどどこか懐かしい子守唄。そして、その腕の中で泣きじゃくる赤ん坊の、か細くも生命力に満ちた声。緊迫した空気、揺れる床、焦げ臭い風の音。歌声は恐怖に震えながらも、決して途切れなかった。赤子を守る、ただその一心で。

やがて、轟音と共に全ての音が途絶えた。

朔は息を呑んで箱から手を離した。心臓が激しく波打ち、冷や汗が背中を伝う。今のは何だ?まるで自分がその場にいたかのような、強烈な臨場感だった。彼は震える手で箱の掛け金を外し、蓋を開けた。中には、黄ばんだ一枚の五線譜が、静かに横たわっているだけだった。そこに記されているのは、先ほど耳にした子守唄の旋律。タイトルも、作曲者の名もどこにもない。ただ、優しいメロディだけが、沈黙の歴史を物語っていた。

第二章 楽譜の影

あの日以来、朔の頭の中では、名もなき子守唄が繰り返し再生されていた。あの女性の歌声と赤ん坊の泣き声が、彼の静かな日常をかき乱し続ける。これは単なる過去の残響ではない。何かを伝えようとしている、魂の叫びのように思えた。

「この木箱は、戦時中に見知らぬ方から預かったものだと、祖母から聞いております。持ち主は、必ず取りに来るとだけ言い残して……結局、戻っては来ませんでした」

依頼主の老婦人の言葉が、朔の探求心に火をつけた。彼は自分の能力を、初めて呪いではなく、道標として使ってみようと決意した。

手がかりは楽譜のみ。朔は市立図書館の中央資料室へと足を運んだ。膨大な蔵書と、紙の匂いが満ちる静寂の空間。どこから手をつければいいのか途方に暮れていると、司書と思しき女性が声をかけてきた。

「何かお探しですか?」

葉山詩織(はやま しおり)と名乗った彼女は、柔らかな物腰と、知的な好奇心に満ちた瞳をしていた。朔は、自分の能力のことは伏せたまま、古い楽譜の出自を調べているのだと、訥々と説明した。詩織は興味深そうに話を聞き、黄ばんだ楽譜のコピーを手に取ると、目を輝かせた。

「美しい旋律ですね……。戦時中の音楽史は私の専門分野の一つなんです。何かお役に立てるかもしれません」

詩織の協力は心強かった。彼女は、当時の作曲家リストや音楽雑誌を次々と探し出し、朔の前に広げてくれた。初めて他者と一つの目的を共有する感覚に、朔は戸惑いながらも、胸の奥が温かくなるのを感じた。

数日後、詩織が一冊の古い雑誌を手に、興奮した様子で朔の作業場を訪れた。

「見つけました!この旋律、おそらく天才作曲家と謳われた桐谷正臣(きりたに まさおみ)の未発表曲です」

記事によれば、桐谷は新しい形式の子守唄組曲を構想していたが、完成前に空襲で命を落としたという。彼の作風と、楽譜の様式が酷似している、と詩織は熱っぽく語った。

桐谷正臣。その名前は、朔も知っていた。悲劇の天才として、今もなお多くのファンを持つ伝説の作曲家だ。あの美しい子守唄は、やはり偉大な才能によって生み出されたものだったのか。朔は安堵と同時に、わずかな寂しさを感じた。あの声の主の正体は、もう分からないのかもしれない。

「桐谷の遺品の一部が、市内の記念館に寄贈されているそうです。何か手がかりがあるかもしれません。一緒に行ってみませんか?」

詩織の誘いに、朔は頷いた。彼女と共にいると、閉ざしていた世界の扉が、少しずつ開いていく気がした。

第三章 万年筆の告白

桐谷正臣記念館は、静かな住宅街にひっそりと佇んでいた。ガラスケースの中に展示された遺品の数々。手書きの楽譜、愛用していたヴァイオリン、そして、一本の黒く艶やかな万年筆。朔は、学芸員の許可を得て、白い手袋越しにその万年筆に触れた。

その瞬間、再び激しい音の渦が彼を襲った。しかし、それは木箱から聞こえた音とは全く異質のものだった。

「だから、この曲は僕のものじゃないと言っているだろう!」

若く、苛立ちを帯びた男性の声。桐谷正臣の声だ。

「何を言う。君の才能を世に出す、唯一の機会なんだぞ。彼女もそれを望んでいるはずだ」

重々しく諭すような、年配の男の声。彼の後援者か、あるいは父親か。

「違う!これは彼女が、生まれてくる子のために作った歌なんだ!僕が守ると約束したんだ!」

桐谷の悲痛な叫び。紙が乱暴に擦れる音。

「感傷に浸っている場合か!才能がありながら、女というだけで認められない。そんな理不尽から彼女を救い出すことにもなるんだぞ!」

口論は、やがて遠ざかる足音と、ドアが乱暴に閉められる音で終わった。そして、別の記憶の断片が流れ込んでくる。すすり泣く桐谷。インクが紙に染みる音。彼は何かを書いている。遺書か、あるいは告白か。その時、窓の外でけたたましいサイレンが鳴り響き、女性の鋭い悲鳴が木霊した。

――空襲だ。

朔は、はっと我に返り、万年筆から手を離した。全身から血の気が引いていく。隣で詩織が心配そうに朔の顔を覗き込んでいた。

「どうしました?顔色が……」

「……違った」

朔はか細い声で呟いた。

「この曲は、桐谷正臣の作品じゃない」

真実は、残酷なまでに鮮明だった。あの美しい子守唄を作ったのは、桐谷が愛した名もなき女性だった。彼は、彼女の才能を世に出すため、あるいは守るために、苦悩の末に彼女の曲を自分の名で発表しようとしていた。木箱から聞こえた歌声の主こそが、真の作曲家。桐谷は盗作者ではなく、愛する人を守れなかった無力な青年だったのだ。そして、空襲が、全ての真実を炎の中に葬り去った。

歴史とは、勝者や著名人によって語られる物語だ。だが、その影には、声も名前も残せずに消えていった、無数の人々の生きた証がある。朔は、自分の能力が持つ本当の意味を、この時初めて悟った。これは呪いではない。歴史の行間からこぼれ落ちた、か細い声を拾い上げるための力なのだ。

彼の内側で、何かが静かに、しかし確かな音を立てて変わろうとしていた。

第四章 忘れられた声

朔は決意した。この子守唄を、本来の持ち主である「名もなき母親」の元へ還さなければならない。詩織に全ての真実を打ち明けると、彼女は驚きに目を見開いたが、すぐに朔の言葉を信じ、力強く頷いた。

「やりましょう。その歌に、本当の物語を取り戻してあげましょう」

二人は小さなコンサートホールを借り、ささやかな演奏会を企画した。招待したのは、歴史研究家や音楽評論家、そして、朔と詩織が調査の過程で出会った人々。当日、ステージの中央には一台のグランドピアノと、傍らに置かれたあの古い桐の木箱。緊張した面持ちの朔が、ピアノの前に座った。

ホールが静寂に包まれる中、朔はマイクに向かって語り始めた。自分の不思議な能力のこと。木箱から聞こえてきた、空襲の中の子守唄のこと。そして、桐谷正臣の万年筆が告白した、愛と苦悩の真実。聴衆は、まるで御伽噺を聞くかのように、彼の言葉に静かに耳を傾けていた。

「これから演奏するのは、ある偉大な作曲家の未発表曲ではありません。これは、戦火の中で、我が子を守るためだけに歌われた、一人の母親の歌です。名前も顔も知られていない、けれど確かにこの世界に存在した、彼女の魂の歌です」

朔はゆっくりと鍵盤に指を置いた。目を閉じると、あの日の音が蘇る。サイレン、赤ん坊の泣き声、そして、震えながらも愛に満ちた歌声。彼は、その全ての音を旋律に乗せた。奏でられる音色は、ただ美しいだけではなかった。そこには、恐怖と、絶望と、それでも消えることのない希望と、母親の無限の愛が込められていた。

一音一音が、忘れられた声の代弁者となってホールに響き渡る。聴衆の中には、そっと涙を拭う者もいた。歴史とは、年表や事件の記録ではない。一人ひとりの人間が生きた、名もなき物語の集積なのだ。その普遍的な真実が、音楽となって人々の胸を打っていた。

演奏を終えた朔は、万雷の拍手の中、深く頭を下げた。彼はステージの傍らの木箱に歩み寄り、そっとその表面に触れた。

すると、彼の内側に、最後の音が聞こえてきた。それは、今までのような激しい音の洪水ではなかった。ただ、春の陽だまりのように温かく、澄み切った女性の声が、安らかな吐息と共にこう囁いた。

『――ありがとう』

その声を聞いた瞬間、朔の心にあった長年のわだかまりが、雪解け水のように溶けていくのを感じた。

彼はもう、過去の音に怯えるだけの孤独な青年ではなかった。忘れられた声に耳を澄ませ、その物語を未来へと繋ぐ語り部となったのだ。歴史の残響は、これからも彼の周りで鳴り続けるだろう。だがもう、それは呪いではない。彼の世界を豊かに彩る、愛おしい囁きなのだ。朔は、隣で微笑む詩織を見つめ、新しい未来へ向かって、確かな一歩を踏み出した。

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