第一章 錆びたトランクと一枚の写真
歴史とは、勝者の残した記録の集積だ。大学院で近代史を専攻する僕、水上蓮(みずかみ れん)は、指導教官の受け売りであるその言葉を、どこか冷めた心地で反芻していた。膨大な資料を読み解き、客観的な事実を抽出し、再構成する。それが僕の仕事であり、そこに個人的な感傷が入り込む余地はない。僕にとって歴史とは、血の通わない、遠い過去の出来事に過ぎなかった。
祖父が亡くなったのは、そんな乾いた思考に浸っていた秋のことだった。九十を超える大往生だったが、家族にとっては大きな喪失だった。物静かで、多くを語らない人だった。特に、自身の過去については。僕が覚えているのは、縁側で黙って庭を眺める、その背中ばかりだ。
遺品整理のために入った祖父の家の屋根裏は、埃と樟脳の匂いが混じり合った、時間の澱んだ空気が満ちていた。その片隅に、それはあった。鈍い光を放つ、深い緑色の古いトランク。革のベルトはひび割れ、金属の留め具は赤錆に覆われている。僕が生まれるずっと前から、この場所で息を潜めていたかのようだった。
ぎしり、と軋む音を立てて蓋を開ける。中に入っていたのは、数枚の外国の古びた硬貨と、黄ばんだ封筒、そして、一枚のモノクロ写真だけだった。
手に取った写真には、二人の人物が写っていた。一人は、間違いなく若き日の祖父だ。まだ二十代だろうか、軍服のようなものを着て、硬い表情をしている。そして、その隣には、見知らぬ白人女性が、はにかむように微笑んでいた。陽光を浴びて輝く金色の髪、澄んだ瞳。二人の背後には、異国の街並みらしきものがぼんやりと写り込んでいる。
胸がざわついた。祖父は、若い頃にシベリアに抑留されていたとは聞いていたが、ヨーロッパへ渡った話など一度も聞いたことがない。そもそも、この美しい女性は誰なんだ? 祖父は生涯、祖母一筋だったはずだ。
写真の裏を返すと、そこには万年筆で書かれたらしい、かすれた文字があった。
『ELYSIUM 1944』
意味の分からない単語と、戦争の只中を示す年号。それは、僕が知る祖父の歴史には存在しない、謎めいた断片だった。血の通わないはずの歴史が、突然、生々しい手触りをもって僕の目の前に現れた。この瞬間から、僕の乾いた日常は、忘れられたインクの色に染まり始めたのだ。
第二章 ELYSIUMの謎
僕の研究生活は一変した。講義もそこそこに、僕は図書館と古書店に足を運ぶようになった。あのトランクが、僕を過去へと誘う扉になったのだ。
まず手がかりにしたのは『ELYSIUM』という単語だ。ギリシャ神話に登場する楽園。しかし、地名や人名としては、あまりに漠然としていた。次に硬貨を調べると、戦時中のドイツで使われていたライヒスマルクだと判明した。祖父とドイツ。シベリアからの帰還兵が、なぜドイツに? 点と点が、まるで違う銀河にある星のように、結びつく気配を見せない。
僕は専門である近代史の知識を総動員した。第二次大戦末期の捕虜の移動記録、帰還兵の証言集、当時のドイツの情勢。しかし、祖父の名前、水上正一(しょういち)は、どこにも見当たらなかった。焦りと、奇妙な高揚感が入り混じる。それは、論文の資料を探すのとは全く違う、もっと個人的で、切実な探求だった。
数週間後、僕はトランクの底に挟まっていた封筒のことを思い出した。丁寧に封がされたそれにカッターを入れると、中から出てきたのは、数冊の小さな手帳だった。祖父の日記だ。だが、ページをめくった僕は愕然とした。そこに綴られていたのは、日本語ではなかった。ところどころ拙く、インクが滲んだ文字は、ドイツ語で書かれていたのだ。
「どうして……」
祖父がドイツ語を話せたなんて、初耳だった。僕はドイツ語の辞書を片手に、夜を徹して解読に取り掛かった。壁の時計の秒針の音だけが、やけに大きく響く。一語、また一語と、パズルのピースを嵌めていくように読み進める。そこには、僕の知らない祖父の、剥き出しの魂が記されていた。
『……凍てつく大地。今日の糧は黒パンひとかけらと薄いスープ。だが、隣でクラウスが笑う。それだけで、心が少し温かくなる。彼は故郷の恋人の話ばかりする。クララ、という名の、太陽のような女性の話を。』
クラウス。クララ。日記は、シベリアの捕虜収容所での日々から始まっていた。祖父はそこで、クラウスという名のドイツ人兵士と出会い、言葉も通じない中、いつしか親友と呼べる関係になっていたのだ。日記の記述は、次第に熱を帯びていく。二人が夢を語り合う様子が、ありありと目に浮かぶようだった。
『クラウスはいつも言う。「戦争が終わったら、ベルリンでカフェを開くんだ。名前はELYSIUM。そこは誰もが安らげる楽園だ」。彼は店の設計図まで描いて、僕に見せてくれた。』
ELYSIUM。謎の単語は、友と交わした夢の名前だった。僕は息を呑んだ。歴史の教科書には載らない、名もなき兵士たちの小さな、しかし輝くような希望。僕はその光に触れ、心が震えるのを感じた。歴史は、無数のこんな物語で出来ているのかもしれない。その事実に気づいた時、僕はもう、以前の僕ではいられなくなっていた。
第三章 友と交わした約束
日記のページをめくる指が震えていた。読み進めるにつれて、物語は輝きを失い、悲劇的な影を落とし始める。収容所の環境は劣悪だった。飢えと寒さ、そして病が蔓延し、多くの命が失われていく。
『クラウスが倒れた。高熱にうなされ、ひどく咳き込んでいる。医薬品などない。ただ、彼の痩せた手を握ることしかできない。彼は朦朧としながら、何度もクララの名前を呼んでいる。』
そして、運命の日が訪れる。日記のそのページは、涙の跡だろうか、インクが大きく滲んでいた。
『クラウスが逝った。夜明け前、静かに息を引き取った。彼は死の間際、僕の手を握りしめ、自分の認識票と、懐に入れていたクララの写真を託した。「頼む、ショウイチ……。彼女に伝えてくれ。最後まで、君だけを愛していた、と」。彼の最後の言葉だった。』
僕は言葉を失った。これが、あの写真の真実だったのか。写真に写っていたのは、祖父の恋人ではない。友の、恋人だったのだ。
だが、衝撃はそれだけでは終わらなかった。日記は、さらに信じがたい事実を告げていた。
数ヶ月後、捕虜の解放が始まった。しかし、混乱の中、祖父はある決断を下す。彼は、自分の身分を捨て、クラウス・シュナイダーとして名乗り出たのだ。友の認識票を使い、彼の身代わりとなって。
『僕はクラウスになる。彼の魂を、彼の故郷へ連れて帰る。そして、クララさんに会って、彼の最後の言葉を伝えるんだ。それが、友と交わした最後の約束だ。』
祖父は、ドイツ人になりすまし、ベルリンへ向かった。日記には、慣れない土地での苦労と、クララを探し求める日々が綴られていた。そしてついに、彼は瓦礫の街でクララを見つけ出す。しかし、そこで彼は、最大の嘘をつくことになる。
『彼女は、僕をクラウスだと信じて泣き崩れた。真実を言えなかった。彼女の悲しむ顔を見たら、とても言えなかった。「僕は生きて帰ってきた」と、そう告げてしまった。友を裏切り、彼女を欺いた。僕は、最低の人間だ。』
祖父は、友の婚約者であったクララと共に、しばらくの間「クラウス」として生きた。写真はその時に撮られたものだったのだ。硬い表情の理由は、それだったのか。友への罪悪感と、クララへの後ろめたさ。その苦悩が、日記の文字から痛いほど伝わってきた。
僕は頭を抱えた。尊敬していた祖父が、人を騙し、他人の人生を盗んでいた。その事実は、僕の価値観を根底から揺るがした。歴史の「事実」とは何だ? 祖父は嘘つきだったのか? いや、違う。これは、友との約束を守るためだけの、あまりにも誠実で、不器用な選択だったのではないか。記録に残る歴史の行間には、こんなにも人間的な、愛と苦悩に満ちた物語が隠されているのだ。僕の胸は、悲しみと、そして一種の畏敬の念で張り裂けそうだった。
第四章 彼方の手紙
祖父は、どれほどの葛藤を抱えていたのだろう。日記の最後の方は、自責の念で埋め尽くされていた。しかし、彼は永遠に嘘をつき通すことはできなかった。数ヶ月後、祖父はクララにすべてを打ち明けた。自分が何者で、本当のクラウスはもうこの世にいないことを。
日記はそこで終わっていた。その後のことは書かれていない。祖父がどうやって日本に帰ってきたのか、クララはどうなったのか。最も知りたい部分が、空白のままだった。
途方に暮れた僕は、もう一度、あの錆びたトランクの中を改めた。すると、日記が収められていた封筒の底に、もう一枚、薄く折り畳まれた便箋が残っていることに気づいた。それは、ドイツ語で書かれた、クララからの手紙だった。
『親愛なるショウイチへ
あなたが真実を話してくれた時、私は怒りよりも先に、安堵を覚えました。あの収容所で、彼が一人ではなかったのだと知ることができたから。あなたは、彼の魂を私の元まで運んできてくれた。凍てつくシベリアの大地から、この瓦礫の街まで。それは、誰にでもできることではありません。
あなたがクラウスとして生きてくれた数ヶ月、私は幸せでした。それは偽りの時間だったのかもしれない。でも、あなたが語ってくれた彼の思い出、彼の優しさ、彼の夢は、すべて本物でした。あなたは、彼の一部となって、私の前に現れてくれたのです。
どうか、自分を責めないでください。あなたは、友との約束を果たした、誠実で勇敢な人です。そして、私に再び前を向いて生きる力をくれた、優しい人です。
ありがとう、ショウイチ。あなたの幸せを、遠い空の下から、ずっと祈っています。
クララより』
手紙を読み終えた時、僕の頬を、熱いものが伝っていた。祖父の人生は、嘘で塗り固められたものではなかった。それは、友への深い友情と、一人の女性への深い思いやりに貫かれた、尊い物語だったのだ。祖父が最後までこの手紙を大切に持っていた理由が、痛いほどわかった。これは、彼の人生が肯定された証であり、彼の魂の救いだったのだ。
屋根裏部屋の小さな窓から、夕日が差し込んでいた。埃っぽかった空気が、まるで浄化されたように光の粒子で満たされている。僕は、祖父の生きた歴史の断片に触れ、完全に変わってしまった。歴史は、もはや無機質なデータの集積ではない。それは、教科書には載らない名もなき人々が、それぞれの場所で必死に生き、愛し、苦悩した物語の巨大なタペストリーなのだ。
僕は自分の研究室に戻ると、書きかけの論文を脇に寄せ、新しいノートを開いた。そして、万年筆を手に取る。僕が伝えるべきは、客観的な事実の羅列ではない。この、忘れられたインクの色で綴られた、一つの魂の物語だ。祖父と、クラウスと、クララの物語を、歴史の片隅から掬い上げ、未来へ届けること。それが、歴史と向き合う僕に与えられた、新しい役割なのだと確信していた。
僕は、静かに息を吸い込み、最初の数行を書き始めた。
『歴史とは、勝者の残した記録の集積だ。かつて、私はそう信じていた。だが、一つの錆びたトランクが、私に教えてくれた。本当の歴史とは――』