第一章 不協和音
ピアニストにとって、指は命であり、耳は羅針盤だ。半年前のあの日、私はその両方を、一度に失いかけた。
将来を嘱望される若手音楽家が集うコンクールの本選。私の指が、リストの超絶技巧練習曲の最後の和音を叩き出そうとした瞬間、それは起きた。轟音。悲鳴。そして、視界の端で何かが落下するのを捉えた。気づいた時には、ホールの冷たい床に倒れ込み、左腕に鈍い、砕けるような痛みが走っていた。
幸い、命に別状はなかった。腕の骨折も、数ヶ月のリハビリで完治すると医者は言った。だが、私の中で何かが決定的に壊れてしまった。聴力検査の結果は「異常なし」。それなのに、ピアノの音だけが、私の世界から完全に消え失せてしまったのだ。鍵盤を叩いても、そこに響くのは打鍵の硬いノイズだけ。豊かな倍音も、美しい旋律も、すべてが脳に届く前に霧散してしまう。まるで、私だけが取り残された防音室にいるようだった。
ピアニストとしての未来が閉ざされた私は、通っていた音楽大学を休学し、実家から逃げるようにして古いアパートの一室に引きこもった。窓から見えるのは、隣の建物の無機質な壁だけ。時間はただ、灰色に過ぎていく。
異変が始まったのは、そんな無為な日々がひと月ほど続いた頃だった。真夜中、眠りにつこうとすると、どこからか微かにピアノの音が聞こえるのだ。それは、私が事故の直前に弾いていた、リストの『ラ・カンパネラ』。幻聴だ、と自分に言い聞かせた。失われた音への渇望が見せる、哀れな幻。しかし、その音は夜ごと鮮明になり、まるで誰かがすぐ隣で、私のために弾いているかのように生々しく響いた。それは慰めではなく、私の失われた才能を嘲笑うかのような、残酷なメロディだった。私の世界からピアノの音を奪っておきながら、なぜこの音だけが、悪夢のように私を苛むのだろうか。その不協和音は、私の心を静かに、だが確実に蝕んでいった。
第二章 消えゆく和音
恐怖は、じわりと日常に滲み出す染みのように、その領域を広げていった。幻聴は夜ごと続き、私の眠りを浅く削り取っていく。それと呼応するように、今度は現実世界の音が、一つ、また一つと消え始めたのだ。
最初は、ベランダに吊るした風鈴の涼やかな音色だった。ある朝、風に揺れる短冊を目で追いながら、私はその音が聞こえないことに気づいた。次に消えたのは、やかんに沸く湯の知らせる、甲高い笛の音。そして、アスファルトを叩く雨の音。それは、まるで私の世界の音量を、誰かが少しずつ絞っていくような、不気味で緩やかな侵食だった。
私の心は、見えない何かに怯える小動物のように縮こまっていった。このままでは、すべての音を奪われてしまうのではないか。母が電話口で気遣ってくれる声も、幼馴染の奏多(かなた)が私を励ますために口にする冗談も、いつか聞こえなくなるのではないか。
その恐怖に突き動かされ、私は憑かれたように図書館へ通った。民俗学や怪異譚の書架を漁り、埃っぽいページをめくり続ける。そして、ある古書の中に、その記述を見つけたのだ。
『音喰い(おとぐらい)』。
それは、人の心の弱さや深い絶望に付け入り、その人間にとって大切な「音」を糧として喰らう怪異。最初は些細な音から始まり、やがては思い出や感情と結びついた音を奪い、最後にはその人間の存在そのものを、世界から無音のうちに消し去るのだという。
血の気が引いた。これだ。私の身に起きていることは、まさにこの記述通りだった。
「響子、大丈夫か? 顔色が悪いぞ」
図書館からの帰り道、ばったり会った奏多が心配そうに私の顔を覗き込んだ。彼も私と同じ音大のピアノ科で、事故の日も、客席で私の演奏を聴いてくれていた。
「……何でもない」
私は俯き、彼から視線を逸らした。奏多の優しさが、今は針のように痛い。この怪異が彼の言う通り人の弱さに付け入るのなら、彼のような光の中にいる人間を、私の闇に引きずり込むわけにはいかなかった。
「何かあったなら、言えよ。俺、響子の耳にだってなるから」
真摯な彼の言葉が、逆に私を追い詰める。私は彼を振り払うようにして走り出した。
「放っておいて!」
背後で私を呼ぶ奏多の声が聞こえた。その声さえも、いつか『音喰い』に喰われてしまうかもしれない。その想像を絶する恐怖が、私の足をさらに速めた。
第三章 真実の独奏
奏多を拒絶した日から、音の喪失は加速した。鳥のさえずり、車のクラクション、そして、テレビから流れる人々の笑い声。私の世界は急速に彩りを失い、モノクロームのサイレント映画へと変貌していく。このままではダメだ。私は『音喰い』と対峙する覚悟を決めた。古書によれば、怪異は生まれた場所に執着するという。私は震える足で、あの事故が起きたコンサートホールへと向かった。
閉鎖されたホールに忍び込むと、ひやりとした空気が肌を刺した。客席の赤いビロードの椅子、舞台を照らす空虚なスポットライト。すべてがあの日のままだ。私はゆっくりと舞台へ上がり、ピアノの前に立った。黒く艶やかな蓋に、やつれた自分の顔が映っている。
その時だった。脳裏に、事故の瞬間の光景が、閃光のように蘇ったのだ。
あの時、落下してきたのは照明機材だった。だが、その軌道は、私の頭上ではなかった。それは――私の隣で、固唾を飲んで私の演奏を見守っていた、奏多の真上だった。
私は、見ていた。スローモーションのように落ちてくる鉄の塊を。そして、体が勝手に動いていた。奏多を突き飛ばし、その場所に身を滑り込ませていた。左腕に走った衝撃は、彼の命の代償だったのだ。
記憶の蓋が開く。私は、ピアニストとして致命的である左腕の複雑骨折と、神経損傷を負っていた。医者は言ったのだ。「完治しても、以前のような繊細な指の動きが戻る保証はない」と。
絶望が、濁流のように心を飲み込んだ。ピアノが弾けない。ピアニストとしての倉田響子は、あの瞬間に死んだのだ。その受け入れがたい現実から逃れるために、私の脳は防衛本能を働かせた。「ピアノの音が聞こえない」のではなく、「ピアノが弾けない自分」と向き合わなくて済むように、無意識に音を拒絶していたのだ。
『音喰い』。そんな怪異など、どこにもいなかった。
私の世界の音を喰らっていたのは、私自身の絶望が生み出した、巨大な心の影だった。
呆然と立ち尽くす私の背後で、ぎぃ、とホールの扉が開く音がした。振り返ると、そこに奏多が立っていた。彼の顔には、すべてを悟ったような、悲しい微笑みが浮かんでいた。
「……思い、出したんだな」
彼の唇が動くのが見えた。しかし、その声は、もう私には届かない。私の『音喰い』が、彼の一番大切な声を、ついに喰らってしまったのだ。
絶望の中で、私はあることに気づく。夜ごと私を苛んでいた幻聴のピアノ。あれは幻などではなかった。奏多だ。彼が、私のために、私が記憶を取り戻すきっかけになるようにと、毎晩どこかで弾いてくれていたのだ。リハビリ中の私を気遣い、しかし音楽から引き離すまいとした、彼の不器用な優しさだったのだ。
涙が溢れて止まらなかった。私は、彼の優しささえも、自らの心の闇で汚し、喰らい尽くしてしまった。
第四章 静寂のアリア
奏多がゆっくりと私に歩み寄り、私の肩を抱きしめた。声は聞こえない。けれど、彼の鼓動が、その温もりが、どんな言葉よりも雄弁に私に語りかけていた。「大丈夫だ」と。
私は、声にならない声で泣きじゃくった。ごめんなさい、と何度も繰り返した。彼を突き飛ばしたことではない。彼が私を守ってくれたように、私が彼を守ったのは当然のことだ。謝りたかったのは、彼の優しさを信じられず、自分の殻に閉じこもり、世界から音を消し去ることで逃げ続けた、自分の弱さに対してだった。
奏多は、私の涙が枯れるまで、ただ静かにそばにいてくれた。そして、彼がおもむろに取り出したスケッチブックに、何かを書き始めた。
『俺はずっと知ってた。事故のことも、響子の耳のことも。でも、響子が自分で気づくまで待つしかなかった』
『俺のせいで、響子からピアノを奪ってごめん』
違う。違うのだ。私は彼のスケッチブックを奪うように取り、震える手でペンを走らせた。
『あなたのせいじゃない。私が弱かっただけ。守ってくれて、ありがとう。そばにいてくれて、ありがとう』
書き終えた文字を彼に見せると、奏多は初めて心からの笑顔を見せ、私の頭を優しく撫でた。その瞬間、私の世界を覆っていた最後の音が、ふつりと消えた。完全な静寂。それはもはや恐怖ではなく、すべてを許し、受け入れるかのような、穏やかな無音だった。
失われた音は、二度と戻らなかった。
しかし、不思議と絶望はなかった。静寂の世界で、私は新しい音を見つけたからだ。隣を歩く奏多の息遣い。雨上がりの濡れた土の匂い。夕焼けの、目に沁みるような赤。音を失った代わりに、私の五感はより鋭敏になり、世界は以前よりもずっと豊かに感じられた。
数年後、私は作曲家として活動していた。私の作る曲には、聴く者が息を呑むような、大胆な「休符(サイレンス)」が多用されている。評論家たちはそれを「静寂に宿る雄弁さ」と評した。ピアノを弾くことはできなくても、音楽を創り出すことはできた。失われた音の代わりに、私は静寂という最強の楽器を手に入れたのだ。
今、私は仕事部屋の窓辺に立ち、木々を揺らす風を眺めている。その音は、もう私には聞こえない。けれど、隣の部屋で私の曲をピアノで奏でてくれる奏多の存在が、世界が美しい音で満ち溢れていることを教えてくれる。
私はそっと目を閉じ、聞こえないはずの風の音に耳を澄ませる。そして、静かに微笑んだ。私の世界は、愛という名の音で、今も豊かに響いている。