残響の砂時計
0 4395 文字 読了目安: 約9分
文字サイズ:
表示モード:

残響の砂時計

第一章 疼く古傷

朔(さく)の指先が、埃をかぶった古文書のページをなぞる。彼の職場である『中央時間保管庫』の地下書庫は、カビと古い紙の匂いが満ちていた。ここは世界の記憶が眠る場所。歴史は物理的な結晶となり、厳重に保管されている。そして朔の仕事は、結晶から派生する記録媒体、つまり古文書の修復だった。

彼には秘密があった。過去の残響を『痛み』として体感する、呪いのような体質。歴史的な遺物に触れると、そこに刻まれた最も強い感情――特に死の間際の苦痛が、神経を焼き灼くように流れ込んでくる。だから彼は、いつも薄い手袋を外し忘れない。

その日、彼はふと、保管庫の第一展示室、『黎明期』の間に足を踏み入れた。公式の歴史では、この時代は穏やかで、大きな争いはなかったとされている。しかし、朔の記憶はそれを頑なに拒絶していた。確か、ここには黒曜石の石斧があったはずだ。狩りの成功を祝う男の歓喜と、獲物の最後の絶叫が染みついた、あの石斧が。

朔は空の展示ケースに手を伸ばす。指先がガラスに触れる寸前、幻の痛みが走った。肉を断つ衝動。骨を砕く鈍い感触。そして、背後から突き立てられる、裏切りの刃の冷たさ。

「うっ……!」

思わず呻き、後ずさる。同僚が怪訝な顔で彼を見た。「どうした、朔? そこにはもう何もないぞ。黎明期にそんな物騒な道具は存在しなかった、ってのが最新の見解だろう?」

同僚の言葉は、まるで世界の常識を語るように滑らかだった。朔は何も言い返せず、ただ自分のポケットに手を入れた。冷たい感触。祖父の形見である、壊れた砂時計。その硝子の中では、銀色の砂が重力に逆らい、ほとんどすべてが上部の球に吸い寄せられていた。まるで、この世界の時間が逆流しているとでも言うように。

第二章 消えゆく色彩

歴史が、静かに死んでいく。

朔はその感覚を、日に日に強くしていた。黎明期の歴史結晶が次々と『枯渇』しているという噂は、職員たちの間でも囁かれていた。結晶が失われれば、その時代の記憶は人々の意識から完全に消え去る。まるで初めから存在しなかったかのように。

朔は、公式記録との乖離に苦しんでいた。彼がかつて触れ、その痛みを感じたはずの遺物たちが、記録の上からも、人々の記憶からも消えていく。世界から色彩が一枚、また一枚と剥がされていくような、耐え難い喪失感。

「そんな時代はなかったよ」

誰もがそう言う。朔の訴えは、狂人の戯言として片付けられた。

ある夜、彼は禁忌を破り、保管庫の最深部にある非公開アーカイブへと忍び込んだ。そこには、改竄される前の、オリジナルの記録が眠っているはずだった。しかし、彼が目にしたのは、虫食いのように空白が広がるデータ群だった。特定の時代――黎明期の中でも、『火を継ぐ者』と呼ばれた一族に関する記録だけが、まるで外科手術のように的確に、そして完全に切除されていた。

一体、誰が。何のために。

孤独が朔の心を蝕んでいく。この痛みは、この違和感は、自分だけが抱える幻覚なのか。ポケットの砂時計を握りしめる。上部に溜まった砂は、ぴくりとも動かない。虚構が、この世界を完全に覆い尽くそうとしていた。

第三章 砂時計の逆流

手がかりを求め、朔は中央山脈の奥深く、かつて『火を継ぐ者』の集落があったとされる洞窟へ向かった。今はもう誰も訪れない、忘れ去られた場所。ひんやりとした空気が肌を撫で、湿った土と苔の匂いが鼻をつく。

洞窟の奥、壁画が描かれた空間にたどり着いた。かろうじて残るその絵は、炎を囲み、天を仰ぐ人々の姿を映していた。朔は手袋を外し、震える指先で、ざらついた岩肌にそっと触れた。

その瞬間、世界が反転した。

凄まじい情報の奔流が、彼の脳を焼き尽くす。飢え。凍えるような寒さ。仲間が次々と倒れていく絶望。そして、最後に残った一握りの同族に裏切られ、心臓を石の槍で貫かれる、灼けつくような痛み。それは一人の絶命ではない。一族が、その希望ごと根絶やしにされる最後の断末魔だった。

「があっ……ぁ……っ!」

朔は膝から崩れ落ち、喉をかきむしった。全身の神経が悲鳴を上げ、視界が赤黒く点滅する。これほどの痛みは、今まで経験したことがない。これが、『火を継ぐ者』の真実。これが、世界が忘れたがっている記憶の核心。

その激痛の頂点で、彼のポケットから硬質な音が響いた。カチリ、と。

見ると、あの逆流の砂時計が、まるで堰を切ったように、その銀色の砂を一斉に下部の球へと落とし始めていた。サラサラと、正常な時間を刻む音。虚構の世界に穿たれた、一瞬の真実。

その時、洞窟の闇のさらに奥から、静かな足音が聞こえた。誰かが、ずっと彼を見ていた。

第四章 未来からの訪問者

闇から現れたのは、影そのものを編み上げたような、滑らかな黒衣をまとった人物だった。年齢も性別も判然としない、静謐な佇まい。その人物は、苦痛に喘ぐ朔を感情のない瞳で見下ろしていた。

「ようやく、繋がったか」

その声は、男とも女ともつかない中性的な響きを持っていた。

「誰だ……」朔はかろうじて声を絞り出す。

「私は『観測者』。そして、あなたが追っている歴史改竄の実行者だ」

観測者は淡々と告げた。その言葉はあまりに現実離れしていて、朔の混乱した思考は追いつかない。観測者は、朔が握りしめる砂時計を一瞥し、静かに続けた。

「その痛み、辛いだろう。だが、それは過去の残響ではない」

「……何だと?」

「朔。あなたの特異体質は、過去の記憶を体感するものではない。逆だ。あなたは、これから必ず繰り返される、確定した未来の悲劇を『未来痛』として先取りして感じているに過ぎない」

未来、痛? 意味が分からなかった。観測者は、まるで壊れた子供に語りかけるように、言葉を紡いだ。

「我々は未来から来た。あなたたちが辿る歴史の、その遥か先から。我々の世界は、滅んだ。ある一つの過ちによって、生命が住めぬ死の星となった。そして、その悲劇の因果律を遡った結果、全ての元凶が、この時代――黎明期の『火を継ぐ者』に行き着いたのだ」

朔の背筋を、痛みとは質の違う、純粋な恐怖が駆け上がった。目の前の存在は、人類の絶望そのものだった。

第五章 救済という名の消去

「『火を継ぐ者』は、ただ火を扱っていただけではない」観測者の声は、洞窟の壁に冷たく響いた。「彼らは、この星の根源に関わる『力』を発見してしまった。それは数千年という時を経て、我々の時代で最悪の形で暴走し、文明を焼き尽くした。地球そのものを、不可逆的に汚染したのだ」

観測者は、まるで遠い昔の物語を語るかのように続けた。

「我々は生き残り、時間を遡った。歴史を修正するために。何度も、何度も。しかし、人類は愚かだ。何度やり直しても、必ず同じ過ちを繰り返す。その『力』に魅入られ、同じ結末を辿る。ならば、答えは一つしかない」

観測者は朔をまっすぐに見た。

「因果の源流を、消し去る。始まりの記憶を、根こそぎ奪うことだ。『火を継ぐ者』という存在そのものを歴史から消去し、誰もその『力』に気づかなければ、未来の悲劇は起こり得ない。痛みを知らなければ、誰も傷つくことはない。忘却こそが、我々が見出した唯一の救済なのだ」

だから、歴史結晶を消していたのか。朔の痛みも、歴史が完全に消え去れば、繋がるべき未来がなくなることで、霧散するはずだった。朔の能力が暴走したのは、消去される最後の瞬間に、未来と過去の因果が最も強く結びついたからだった。

全ては、未来を救うための行為。あまりに壮大で、あまりに冷徹な、慈悲。

第六章 選択の刻

観測者は、懐から最後の一つであろう歴史結晶を取り出した。それは鈍い光を放ち、洞窟の闇をかすかに照らしている。『火を継ぐ者』の、最後の記憶。

「これを破壊すれば、全てが終わる」

観測者は、その結晶を朔の前に差し出した。

「あなたの痛みも、永遠に消える。未来の我々が味わった絶望も、繰り返されることはない。世界は、何事もなかったかのように続いていく。さあ、選ぶがいい」

痛みのない世界。穏やかな虚構の歴史の中で、静かに生きていく未来。それは、朔がずっと望んでいたはずの解放だった。もう、誰にも理解されない痛みに苛まれることはない。

しかし、彼の脳裏には、先ほど感じたばかりの鮮烈な痛みが蘇る。飢え、寒さ、そして裏切りの絶望。だが、その中には確かに存在したのだ。炎を囲んで歌う喜びが。仲間と獲物を分け合う温もりが。彼らは確かに、そこで生きていた。その痛みも喜びも、全てが彼らの真実だった。

痛みを伴う真実を消し去って手に入れる平穏に、本当に価値はあるのか。過ちを忘れ去った人類に、未来を託す資格はあるのだろうか。

朔の心臓の鼓動に呼応するように、手の中の砂時計が激しく震えだす。上へ、下へ。真実と虚構の間で、銀色の砂が狂ったように揺れ動いていた。

第七章 残響と共に

朔は、ゆっくりと首を横に振った。差し出された結晶を受け取らず、観ていた。

「この痛みは、俺が引き受ける」

その声は、震えていた。しかし、そこには確かな意志が宿っていた。

「未来がどうなるかは分からない。また同じ過ちを繰り返すのかもしれない。だが、それでも……この痛みを無かったことにはしたくない。これは彼らが生きた証であり、未来への、警鐘のはずだ」

忘却は救済ではない。それはただの逃避だ。朔は、痛みを抱えたまま、不確かな未来へと歩むことを選んだ。

観測者は、何も言わなかった。ただ静かに朔を見つめ、やがて、かすかに頷いたように見えた。その表情に、ほんのわずかな安堵の色が浮かんだのは、朔の気のせいだっただろうか。

「ならば、あなたも未来の観測者だ。この痛みの意味を、その身で問い続けろ」

そう言い残し、観測者の姿は揺らぎ、光の粒子となって闇に溶けていった。

洞窟に、再び静寂が戻る。痛みは、朔の身体に深く刻まれたまま消えはしない。だが、それはもはや呪いではなかった。守るべき真実の証であり、未来へと手渡すべき、小さな祈りのようなものに変わっていた。

ふと、朔は手の中の砂時計に目を落とす。

狂ったように揺れ動いていた砂が、静まっていた。そして、完全に逆流していた上部の球から、一粒。また、一粒と、銀色の砂がゆっくりと、しかし確かに下へと落ち始めていた。

それは、虚構に覆われた世界に差し込んだ、ほんの僅かな真実の光。

朔は、その小さな希望を胸に、光の差す洞窟の入り口へと、一歩を踏み出した。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る