空に浮かぶ図書館と、忘れられた約束の鎖
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空に浮かぶ図書館と、忘れられた約束の鎖

第一章 浮遊都市の古物商

風が街を縫うように吹き抜ける。ここ、浮遊都市アトリアでは、誰もが雲と共に暮らし、地面の感触をとうに忘れていた。記憶の総量が、その身の質量を定めるとされるこの世界で、俺、カイのような若い世代は、生まれながらに軽かった。

仕事場である古物修復工房の窓から身を乗り出すと、足元には果てしない空が広がっている。時折、重い記憶を抱えた老船が、巨大な鯨のようにゆっくりと都市の下を通過していくのが見えた。彼らは、俺たちにはない「重さ」で、地に縛られている。

「またやったのか、カイ」

師匠のロダンが、呆れたような声で言った。彼が指差す作業台の上には、ひび割れた懐中時計が置かれている。そして、その傍らには、誰にも見えないはずの小さな光の粒が、チクタクと無音のリズムを刻みながら明滅していた。

俺の能力だ。触れた遺物に宿る、持ち主の『未練』や『願い』を具現化させてしまう。この光の粒は、持ち主が待ち続けた「約束の時間」そのものだろう。触れることはできないが、切ないほどの期待感が、工房の空気を満たしていた。

「すいません。つい……」

この力は呪いだった。他人の感情の残滓に、否応なく触れてしまう。俺は光の粒から目を逸らし、窓の外に視線を投げた。

その時だった。工房の扉が軋み、息を切らした使者が駆け込んできたのは。彼は丁寧に折り畳まれた羊皮紙を俺に差し出した。震える指でそれを開くと、そこには古風で力強い文字が並んでいた。

『地に縛られし賢者、エリアが、汝の力を求めている』

そして、羊皮紙の下には、錆びついた一本の鎖が添えられていた。輪のいくつかが、まるで陽炎のように儚く消えかかっている。それを見た瞬間、俺の心臓は、理由もなく冷たい手で掴まれたような感覚に陥った。

第二章 地に縛られた賢者

昇降船がゆっくりと高度を下げていく。雲の層を抜けると、そこには濃密な土の匂いと、幾千もの記憶が堆積したかのような重苦しい空気が満ちていた。生まれて初めて降り立つ地上は、俺の肺を圧迫し、一歩踏み出すごとに足が鉛のように重くなった。

案内された先の古い石造りの館で、彼女は待っていた。

賢者エリア。

彼女は巨大な樫の椅子に深く身を沈め、まるで大地に根を張った古木のように動かなかった。その身に宿る記憶の質量が、彼女を椅子に縫い付けているのだ。皺の一つ一つに、物語が刻まれているのが見て取れた。

「よく来たね、カイ。空の軽やかさは、こちらにはないものだよ」

声は、長い年月を経た楽器のように深く、穏やかに響いた。彼女は俺が持ってきた鎖に目を向けた。

「それが『忘れられた約束の鎖』。世界の集合的記憶の残量を示すものさ。見ての通り、もう幾つも輪が失われてしまった」

エリアは語った。世界の均衡が崩れ、人々が急速に記憶を失い、空へと霧散し始めていること。この現象は加速しており、やがては世界そのものが存在の重みを失い、無に帰すだろうこと。

「なぜ、こんなことに……」

「失われたのさ。『原初の記憶』が。この世界が始まった瞬間の、礎となる記憶がね」

彼女の瞳が、俺の右手を捉えた。遺物に触れ、願いを形にする、俺の呪われたはずの右手を。

「お前の力が必要だ。失われた記憶の欠片――人々の『願い』を集め、その鎖に繋いでほしい。それは一時しのぎに過ぎないが、我々に『原初の記憶』を探す時間を与えてくれる」

彼女の言葉は、懇願であり、命令でもあった。地に縛られた賢者は、空に浮かぶ俺に、世界の命運を託そうとしていた。

第三章 失われた願いの欠片

俺の旅が始まった。エリアが示した古地図を頼りに、失われた記憶が眠る場所を巡った。

古戦場の跡地では、錆びた剣の柄に触れた。すると、手のひらにずしりと重い土の塊が現れた。それは、還れなかった故郷の土を踏みたいと願った兵士の、最後の望郷の念だった。土塊からは、草の匂いと、遠い日の夕焼けの暖かさが微かに薫った。

干上がった湖の底では、砕けた真珠の首飾りに触れた。指先に生まれたのは、一粒のガラス細工の涙。それは永遠を誓った恋人たちが、果たせなかった約束を嘆く悲しみの結晶だった。触れると、胸が張り裂けそうなほどの切なさが伝わってくる。

俺は具現化させた『願い』を、一つ、また一つと『忘れられた約束の鎖』に繋いでいった。土塊を繋ぐと、鎖はわずかに重さを取り戻し、消えかけていた輪郭がはっきりとした。涙の結晶を繋ぐと、鎖全体が悲しい光を帯びた。

願いの重みが、世界の崩壊をわずかに押し留めている。

しかし、旅を続けるうちに、俺は気づき始めていた。集めれば集めるほど、鎖は重くなる。だが、世界の喪失感は、それ以上の速さで深まっている。まるで、底の抜けた器に水を注ぐような、虚しい作業だった。本当に探すべきものは、こんな欠片ではない。もっと根源的な何かだ。

第四章 原初の記憶の在り処

地図が示す最後の場所は、世界の臍と呼ばれる「始まりの井戸」だった。苔むした石積みの井戸は、ただ静かに口を開け、底知れぬ闇を湛えている。ここが『原初の記憶』の眠る場所。

俺は覚悟を決め、井戸の縁に手をかけた。ひんやりとした石の感触が、肌を伝って心臓に届く。そして、闇の中へと、ゆっくりと右手を伸ばした。

何も、ない。

物質的な手応えは何もなかった。しかし、指先が闇に触れた瞬間、奔流のような感覚が俺の全身を貫いた。それは、歴史でも、記録でも、壮大な創造の物語でもなかった。

そこにあったのは、ただ一つの感情。

――寂しい。

途方もない、宇宙的な孤独感。世界が生まれ、初めて「私」という意識が芽生えた瞬間の、絶対的な孤立。誰とも分かち合えない、存在することの根源的な寂しさ。

それが『原初の記憶』の正体だった。そして、それは時を経て、「誰かと繋がっていたい」という『最初の願い』へと姿を変え、さらに自己保存の本能と結びつき、あらゆる記憶を質量として取り込み続ける、巨大な『願望』へと肥大化していたのだ。

世界が記憶を失い始めたのは、この肥大化した願望が、自らの重みに耐えきれず、取り込んだ記憶を零し始めていたからだ。均衡の崩壊ではない。食い過ぎた怪物が、消化不良を起こしているに過ぎなかった。

その時、俺は理解した。俺の能力は、未練や願いを具現化するものではない。記憶の本質――その感情の核に触れ、純粋な形で取り出す力だったのだ。

第五章 最初の願い、最後の祈り

真実に触れた俺を、肥大化した『寂しさ』が見逃すはずはなかった。井戸の闇が脈動し、俺が鎖に繋いできた数多の『願い』を、貪欲に吸収し始めた。兵士の故郷も、恋人たちの涙も、闇に引きずり込まれ、鎖は再びその重さを失っていく。

世界が悲鳴を上げた。空中のアトリアが大きく傾ぎ、地上の大地に亀裂が走る。あらゆるものが急速に軽くなり、存在の輪郭が曖昧になっていく。

このままでは、全てがこの巨大な孤独に飲み込まれる。

俺はもう一度、井戸の闇に手を伸ばした。恐怖はなかった。ただ、この途方もない寂しさに、寄り添いたいと思った。俺は、その感情のさらに奥深く、それが生まれるさらに前の、原初の核へと意識を沈めていく。

そして、見つけた。

寂しさが生まれる前。孤独を知る前。ただ、そこにあること。存在が始まった、ただそれだけの、純粋な喜び。

俺は、その感覚を、全力で引き出した。

手のひらに現れたのは、温かい光を放つ小さな種子だった。それは、具現化された『存在への喜び』。世界が生まれた最初の産声そのものだった。

俺はその光を、祈りと共に闇へと解き放った。

光は、巨大な寂しさの中心へと吸い込まれ――そして、弾けた。まるで呪いが解けるように、世界を縛り付けていた重力の楔が、音を立てて砕け散った。

第六章 記憶の雨が降る空

重力が、消えた。

館の椅子に縫い付けられていたエリアも、古物工房の師匠も、俺も、世界中の誰もが、ゆっくりと空へ浮かび上がった。それは落下でも、霧散でもない。まるで、長く背負っていた重荷を下ろしたかのような、穏やかな浮上だった。

恐怖はなかった。誰もが、赤子のように無垢な表情で、変わりゆく世界を見上げていた。

やがて、空から何かが降り注いできた。

キラキラと輝く、無数の光の粒子。解放された、世界の全ての記憶だった。それはもう、誰かを縛る質量ではなかった。人々はその粒子に手を伸ばす。触れると、遠い過去の誰かの喜びが、自分のことのように胸に広がる。あるいは、自らの辛い記憶の粒子を、そっと手放すこともできた。

記憶は重荷ではなく、誰もが自由に選び取り、分かち合うことができる、祝福の雨となったのだ。

俺は、ふわりと隣に浮かぶエリアを見た。彼女は、深い皺の刻まれた顔で、少女のように笑っていた。その体は、かつてないほど軽やかだった。

「これが……新しい世界の始まりなんだね」

彼女の言葉に、俺は静かに頷いた。自分の右手を見つめる。そこにはもう、何も具現化されてはいなかった。俺の役目は終わったのだ。

空を見上げる。降り注ぐ記憶の雨の中、俺たちは過去から解き放たれ、未来へとただ、浮かんでいく。どこへ向かうのかは、まだ誰も知らない。だが、不思議と、寂しくはなかった。


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