亀裂の入った日常
第一章 繰り返される朝
午前七時二十三分。
その瞬間、世界はほんの僅かに軋む。俺、水無月湊だけが知覚できる、ごく微細な不協和音。
目の前で、カフェの店員である陽菜が「あっ」と小さな悲鳴を上げた。白い指から滑り落ちたコーヒーカップが、床の上で甲高い音を立てて砕け散る。琥珀色の液体が、無残な染みとなって広がっていく。
周囲の客たちが驚きに顔を上げる。陽菜は慌てて腰をかがめ、震える手で破片を拾い始めた。
いつもの光景だ。
昨日も、一昨日も、その前の日も。俺はこの光景を寸分違わず見ている。これが俺の「今日のデジャヴュ」。周囲の人間にとっては初めての出来事だが、俺にとっては繰り返し再生されるフィルムの一コマに過ぎない。
「大丈夫ですか」
俺は立ち上がり、彼女にハンカチを差し出す。彼女は驚いたように俺を見上げ、潤んだ瞳で「ありがとうございます」と呟く。この台詞も、彼女の頬を伝う一筋の涙も、俺は全て知っている。
ポケットの中で、冷たい金属の感触があった。祖父の形見だという、文字盤に蜘蛛の巣のようなひびが入った懐中時計。銀色の蓋を開けると、針は常に午前七時二十三分を指して止まっている。だが、俺だけが知っている。時折、そのアラビア数字の『7』のフォントが、ほんの一瞬、見たこともないセリフ体へと変容することを。それは、まるで別の世界の時間が、この世界の亀裂から滲み出しているかのような、不気味な兆候だった。
第二章 亀裂の兆候
デジャヴュは、もはやカフェの中だけには留まらなかった。
図書館へ向かう道すがら、見慣れたはずの煉瓦造りの建物が、一瞬、木造の古びた商家に見えた。慌てて二度見すると、そこにはいつもの煉瓦の壁があるだけ。通り過ぎる人々は誰一人、その変化に気づいた様子はない。誰もがそれを「気のせい」という便利な言葉の箱にしまい込み、すぐに忘れてしまう。
だが、俺には分かった。ポケットの懐中時計が、その瞬間、微かに熱を帯びたのだ。
図書館の古書コーナーの奥深く、埃の匂いが満ちる静寂の中で、俺は世界の法則に関する記述を探し始めた。自分の狂気を証明するためか、あるいは狂っていないことを証明するためか、自分でも分からなかった。都市伝説、民俗学、果てはオカルトの類まで。ページを繰る指先が、乾いた紙の感触をなぞっていく。
やがて、一冊の古びた郷土史の中に、俺はそれを見つけた。
『この地の安定は、不可視の律動によりて保たれる。律動が乱るる時、過ぎ去りし日々の影、数多のもしもが陽炎の如く立ち現れ、今を侵さん』
――日常の安定度。
その言葉が、雷のように俺の頭を撃ち抜いた。世界は、俺たちが認識しているこの「日常」だけではない。無数の可能性を秘めた「別の日常」の層が、薄氷のように重なり合って存在しているのだ。そして今、その層を繋ぎ止めていた何かが失われ、過去の断片が現在の世界に混入し始めている。
懐中時計の亀裂は、世界の亀裂そのものだった。そして俺のデジャヴュは、その浸食を感知する、ただ一つの警報だったのだ。
第三章 失われた守り手
世界の浸食は、日増しにその頻度と規模を増していった。街角のネオンが一瞬にしてガス灯の柔らかな光に変わり、アスファルトの道が土の匂いのする未舗装路へと変貌する。人々は一瞬だけ足を止めて眉をひそめるが、次の瞬間には何事もなかったかのように歩き出す。忘却は、この世界に残された唯一の防衛本能なのかもしれない。
俺は、伝説の中に登場する「時の調律師」という存在に憑りつかれていた。かつて、この世界の「日常の安定度」を維持していたとされる守り手。文献によれば、調律師は、無数に分岐する時間の可能性を一つの美しい旋律として束ね、世界の調和を保っていたという。
『調律師の消滅は、世界の音律を狂わせ、無数の過去が現在に響き渡る』
その一文が、全ての答えだった。守り手はもういない。だから世界は不協和音を奏で始め、過去の残響が現実を侵食しているのだ。
ならば、どうすればいい? 新たな調律師となるのか? それとも、壊れた楽器を修復する方法があるのか?
答えは見つからないまま、時間だけが過ぎていく。俺のポケットの中で、懐中時計が発する熱は、もはや無視できないほどの温度になっていた。それはまるで、助けを求める世界の悲鳴のようだった。俺は、陽菜のいるあのカフェの日常を守りたい。彼女がカップを落とす、そんな些細な失敗さえも愛おしく思える、不完全で人間らしい日常を。
第四章 逆流する時間
その日、世界の軋みは限界を超えた。
街の中心部から、空が割れるような轟音が響き渡った。見上げると、高層ビル群の半分が、まるで蜃気楼のように揺らめき、瞬く間に白亜の神殿のような、見たこともない建造物群へと上書きされたのだ。
街行く人々が悲鳴を上げ、パニックが伝播する。だが、それもほんの数秒のこと。人々はきょとんとした顔で空を見上げ、「今の音は何だったんだろう」「変な夢でも見ていたか」と呟きながら、再び日常へと戻っていく。陽菜でさえも、カフェの窓から外を眺め、「なんだか、空が騒がしいですね」と、他人事のように微笑むだけだった。
俺だけが、この大規模な現実改変を、恐怖と共に記憶していた。
その時、ポケットの懐中時計が灼熱を放ち、激しく震え始めた。文字盤の亀裂から、眩いほどの白い光が漏れ出している。まるで、俺をどこかへ導くように。
俺は走り出した。本能が、街で最も古い時計塔へと俺を向かわせる。螺旋階段を駆け上がり、息を切らして辿り着いた頂上には、巨大な振り子と歯車が複雑に絡み合った、古めかしい装置が鎮座していた。世界の心臓部。時の調律を行うための祭壇。
俺は無意識に理解した。この装置に、俺の記憶を、この身に蓄積され続けた無数の「デジャヴュ」を注ぎ込めば、世界の律動を正常に戻せるかもしれない。陽菜がカップを落とすあの朝を、基準点として世界を固定できるかもしれない。
第五章 単一色の世界
俺は覚悟を決めた。守りたいものがある。たとえそれが、俺だけの幻想だったとしても。
灼熱の懐中時計を、装置の中央にある窪みへと嵌め込んだ。カチリ、と硬質な音が響く。その瞬間、俺の脳裏に蓄積された全ての記憶が、激流となって逆流を始めた。
陽菜がカップを落とす光景。砕ける陶器の音。彼女の驚いた顔。図書館のインクの匂い。雨の日のアスファルトの湿った香り。街の喧騒。人々の笑い声。昨日も、一昨日も、その前の日も繰り返された、愛おしい「日常」の断片たち。それら全てが、目も眩むような光の奔流となって、懐中時計を通じて装置へと吸い込まれていく。
俺は、俺自身の一部を、世界を安定させるための生贄として捧げたのだ。
やがて光が収まった時、世界は完璧な静寂と安定を取り戻していた。空はどこまでも青く、街には調和のとれた秩序が満ちている。浸食の兆候は、跡形もなく消え去っていた。
翌朝、俺はいつものカフェにいた。
午前七時二十三分。
だが、何も起こらなかった。陽菜は完璧な手つきでコーヒーを運び、優雅な所作で俺のテーブルに置いた。そこに失敗の気配は微塵もない。彼女は、完璧な店員の笑顔で俺に微笑みかけるだけだった。
俺の「デジャヴュ」は、完全に消滅していた。
第六章 沈黙の守人
その時、俺は全てを悟った。
俺が「繰り返される今日のデジャヴュ」と呼んでいたものは、単なる過去の再生ではなかった。それは、この世界が持ち得た、無数の「可能性」の残響そのものだったのだ。
陽菜がカップを落とす日常。落とさない日常。そもそも彼女がそのカフェで働いていない日常。俺が彼女に恋をしない日常。あらゆる「もしも」の世界の断片が、この現実の亀裂から混入しようとするのを、俺は無意識に検知し、記憶し、そして修正していた。俺自身が、人間という形をとった、最後の「時の調律師」であり、最終防衛システムだったのだ。
俺が世界の安定のために差し出した記憶は、その「可能性」そのものだった。あらゆる不確定要素、失敗、偶然、ゆらぎ。それらを全て排除し、世界をたった一つの「正しい」とされる日常に固定化してしまった。
変化も、間違いも、予期せぬ出来事もない、無菌室のような世界。
俺が守りたかったのは、こんな世界だったのだろうか。
ポケットの懐中時計は、もう熱を帯びることはない。文字盤の亀裂は綺麗に消え、針は変わらず午前七時二十三分を指しているが、その数字のフォントが揺らぐことは二度とないだろう。
俺は、守ろうとしたはずの多様性を、この手で葬り去ってしまったのだ。
完璧で、美しく、そして息が詰まるほど退屈な、永遠の単一日常。その中で、俺はただ一人、失われた無数の世界の彩りを記憶しながら、静かに生きていく。