第一章 止まった火曜日
また、この天井だ。
水野蓮(みずのれん)は、薄目を開けて、見慣れすぎた天井の木目をなぞった。昨日も、一昨日も、その前の日も、寸分違わず同じ模様。時刻は午前七時。スマートフォンのアラームが鳴る三秒前。蓮は身体を起こし、鳴り響く電子音を指先で止めた。カレンダーアプリを開く。十月二十四日、火曜日。もちろん知っていた。
これが、何回目の「十月二十四日、火曜日」なのか、蓮はもう数えるのをやめていた。おそらく、三十回は超えている。世界は毎晩、蓮が眠りにつくと綺麗にリセットされ、同じ一日の朝を迎えるのだ。タイムループという陳腐な言葉では説明しきれない。なぜなら、蓮以外の人間は、誰一人として記憶を引き継いでいないからだ。まるで舞台劇のように、役者たちは毎日同じ台本を完璧に演じ、舞台装置は寸分の狂いもなく元の位置に戻される。観客は、記憶を持つ蓮ただ一人。
キッチンに立てば、昨日使い切ったはずの牛乳パックが満タンで冷蔵庫に収まっている。テレビをつければ、アナウンサーが全く同じ口調で、「今朝早く、県道三号線で発生した玉突き事故」のニュースを伝える。通勤電車は、決まって三分遅延する。会社のデスクに着けば、隣の席の佐藤さんが「いやあ、昨日のサッカー惜しかったねえ」と、存在しない「昨日」の話を笑顔で振ってくる。蓮は、初めてこの現象に気づいた時の、背筋が凍るような恐怖を今でも鮮明に思い出せる。最初は夢だと思った。次に精神の異常を疑った。だが、何度確かめても、世界の方がおかしいのだ。
蓮はシステムエンジニアとして、ロジックとルールに支配された世界で生きてきた。だからこそ、この非論理的な世界の牢獄は耐えがたい苦痛だった。彼は脱出を試みた。夜更かしをしてリセットの瞬間を見届けようとしたが、午前三時を過ぎると強烈な眠気に襲われ、抗うことはできなかった。会社を無断欠勤してみたが、翌朝には自分のベッドの上で、いつも通りアラームが鳴った。物理的にこの街から脱出しようと電車に乗ったこともある。だが、隣町との境にある長いトンネルを抜けると、なぜか出発したはずの駅のホームに電車が滑り込んでいた。
絶望は、やがて無感動に変わった。何をしても無駄。何をしても翌朝にはリセットされる。その事実は、ある種の無敵感すら蓮にもたらした。普段は頼まない高級なランチコースを注文し、横柄な部長のコーヒーにこっそり塩を入れた。だが、そんな小さな反逆に意味はなかった。全ては水面に投じた小石のように、一瞬波紋を描くだけで、翌朝には静かな水面に戻ってしまう。積み上げられない今日。訪れることのない明日。蓮の日常は、永遠に続く火曜日の箱庭に閉じ込められていた。
第二章 公園の定点
繰り返される日々の中で、蓮は人間観察に時間を費やすようになった。どうせリセットされるのなら、この世界の綻び、あるいは不変の中の揺らぎを見つけてやろうと思ったのだ。彼は、毎日同じ時間に公園のベンチに座り、人々を眺めた。犬を散歩させる主婦、走り回る子供たち、スマートフォンに夢中な学生。誰もが、昨日と全く同じ動きを繰り返している。
そんな中、蓮の注意を引く一人の老婆がいた。
彼女は毎日午後三時きっかりに、公園の西側にある古びたベンチに腰掛ける。手にした紙袋からパンくずを取り出し、足元に集まってくる鳩に分け与える。その光景自体は、どこにでもある日常の一コマだ。だが、彼女だけが、他の「演者」たちとどこか違って見えた。
他の人々が、まるでプログラムされた通りに動いているように見えるのに対し、老婆の動きには、微かな「ためらい」や「思索」が感じられたのだ。パンをちぎる指先の震え。空を見上げる瞳の、遠くを見つめるような色。それは、台本にはない役者のアドリブのように、蓮の目には映った。彼女は本当に、何も覚えていないのだろうか?
蓮は、何日も、何十日も彼女を観察し続けた。彼女がベンチに座る時間。餌をやる鳩の数。空を見上げる角度。その全てが完璧に同じだった。だが、蓮の心の片隅には、彼女だけがこの世界の鍵を握っているのではないかという、根拠のない確信が芽生え始めていた。彼女の周りだけ、時間の流れが僅かに淀んでいるような、不思議な感覚があった。
ある火曜日の午後。蓮は、いつものように自分のベン-チから彼女を眺めていた。秋の陽光が、老婆の銀色の髪を柔らかく照らしている。その姿は、まるで一枚の古いセピア色の写真のように、静謐で、そしてひどく孤独に見えた。この停滞した世界で、唯一、自分と同じ孤独の色を纏っているように感じられた。
もし、彼女も気づいているとしたら?
もし、この地獄のような繰り返しの中で、言葉を交わせる相手がいるとしたら?
その思いが、蓮の心を突き動かした。彼はゆっくりと立ち上がり、砂利を踏みしめる音を立てながら、老婆の座るベンチへと歩き出した。何を話せばいいのか分からない。だが、何かをしなければ、次の火曜日も、その次の火曜日も、永遠に同じ時間が流れ続けるだけだ。
第三章 悲しみの調律師
「こんにちは」
蓮の声は、自分でも驚くほどかすれていた。老婆はゆっくりと顔を上げ、穏やかな目で蓮を見つめた。その瞳は深く、長い年月の悲しみを湛えているように見えた。
「いつも、ここにいらっしゃいますね」
蓮は、当たり障りのない言葉を続けた。老婆は小さく頷き、また視線を足元の鳩に戻した。気まずい沈黙が流れる。蓮は心臓が早鐘を打つのを感じながら、核心に触れる言葉を探した。
「あの……失礼なことをお聞きしますが」
蓮は意を決して、言葉を紡いだ。
「あなたも、気づいているんじゃありませんか? この世界が、毎日、同じ火曜日を繰り返していることに」
その瞬間、公園の喧騒が遠のいた気がした。風が止み、子供たちの笑い声が聞こえなくなる。蓮は、老婆の反応を固唾をのんで見守った。拒絶されるか、あるいは不審者として見られるか。だが、老婆の反応は、そのどちらでもなかった。
彼女は、驚いた様子もなく、ただ静かに蓮を見返した。その深い瞳が、初めて蓮という存在をはっきりと捉えたように見えた。長い沈黙の後、老婆はか細い、しかし凛とした声で言った。
「……いいえ、坊や。世界は繰り返しているんじゃない」
老婆は、自分の胸にそっと手を当てた。
「私が、明日へ進めていないだけだよ」
蓮は息をのんだ。その言葉の意味を、すぐには理解できなかった。
老婆は、ぽつり、ぽつりと語り始めた。彼女の名前は千代(ちよ)といった。数十年も昔、まさにこの場所で、最愛の夫を事故で亡くしたのだという。それは、雲一つない、穏やかな秋の火曜日のことだった。
「あの日から、わしの時間は止まってしもうた。あの人がいない明日が来るのが、怖くて、怖くて……。毎晩、眠る前に祈るんじゃ。『どうか、明日が来ませんように。あの人がまだ生きていた、今日という日が、もう一度来ますように』と」
蓮は愕然とした。まさか。そんなことがあり得るのか。一人の人間の、あまりにも深く、純粋な悲しみと願いが、世界の理を歪めてしまったというのか。彼女の強烈な想いが、この街一帯を覆う巨大な結界となり、彼女の記憶の中の「夫が生きていた最後の火曜日」を、毎晩寸分違わず再生し続けていたのだ。千代自身は、自分が世界をリセットしていることには無自覚だった。ただ、彼女の心象風景の中で、時間は永遠に前に進まなかった。そして、その停滞した世界に、なぜか蓮だけが巻き込まれ、意識を保っていた。
なぜ自分だけが? 蓮は自問した。安定を望み、変化を恐れていた自分の心が、知らず知らずのうちに千代の「時を止める」願いに共鳴してしまったのかもしれない。ルーティン化された日常に安らぎを感じ、未知の未来に漠然とした不安を抱いていた自分は、この停滞した世界の、格好の同調者だったのだ。
この世界は地獄などではなかった。一人の女性の、深すぎる愛と悲しみが作り出した、哀しい聖域だったのだ。
第四章 夜明けの水曜日
蓮は、千代の話を聞きながら、自分がこれまで感じていた孤独や絶望が、いかに自己中心的なものだったかを思い知った。彼はただ、自分の日常が狂ったことに苛立っていただけだ。しかし、千代は何十年もの間、愛する人を失った火曜日を、たった一人で、その心の中に閉じ込めて生きてきたのだ。
「あなたのせいじゃありませんよ」
蓮は、震える声で言った。
「あなたの想いが、それだけ強かったということです。でも……」
蓮は言葉を選びながら続けた。
「でも、止まった時間の中では、新しい思い出は作れない。悲しみは、決して消えないかもしれない。けれど、その悲しみを抱えたまま、新しい朝を迎えることはできるはずです」
蓮は、この繰り返される世界で感じたことを、全て千代に話した。最初は恐怖し、次にあきらめ、そして今、目の前にいる彼女の途方もない悲しみに触れたこと。何も変わらない日々の中で、彼女の存在だけが、確かな「生」の揺らぎを持っているように見えたこと。
千代は、黙って蓮の話を聞いていた。その皺の刻まれた頬を、一筋の涙が伝っていく。それは、数十年間、凍てついていた氷が、ようやく溶け始めたかのような、静かな涙だった。
「もう、行かなくてはならんのかもしれんね。あの人のいない、明日へ」
千代はそう呟くと、ゆっくりとベンチから立ち上がった。蓮も立ち上がり、彼女の隣に並ぶ。
「一緒に行きましょう」
蓮は言った。「公園の出口まで。そこから先は、きっと新しい道が始まってる」
彼は、そっと千代の冷たい手を握った。その手は小さく、ひどくか弱かったが、確かな温もりが返ってきた。二人は、夕暮れの公園を、一歩一歩、ゆっくりと歩き始めた。それは、永遠に続くかと思われた舞台から、共に退場する役者のようだった。公園の出口の向こうには、いつもと同じ火曜日の街並みが広がっている。だが、二人にはそれが、全く違う景色に見えていた。
その夜、蓮は久しぶりに安らかな気持ちで眠りについた。もう、明日の朝を恐れる必要はない。たとえどんな明日が来ようとも、それは今日とは違う、新しい一日なのだから。
翌朝。
蓮の瞼を射抜いたのは、いつもよりずっと柔らかく、暖かい光だった。身体を起こすと、部屋の空気が、澄み渡っていることに気づく。恐る恐る、スマートフォンの画面を点灯させる。
そこには、くっきりとこう表示されていた。
『十月二十五日 水曜日』
窓の外からは、聞き慣れない鳥のさえずりと、いつもとは違う車の走行音が聞こえる。テレビをつければ、知らないアナウンサーが、新しいニュースを伝えていた。世界は、ついに前へ進み始めたのだ。
蓮は服を着替え、家を飛び出した。向かったのは、あの公園だった。西側の古びたベンチに、千代の姿はなかった。彼女は、自分の明日へと旅立っていったのだろう。
ただ、誰も座っていないベンチの上には、朝露に濡れた一輪の白いコスモスが、まるで忘れ物のように、静かに置かれていた。
蓮は、新しい朝の空気を胸いっぱいに吸い込んだ。失われた一ヶ月は戻らない。だが、彼はその停滞した時間の中で、日常というものの本当の価値を知った。変化を恐れるのではなく、受け入れていく勇気を。
水曜日の太陽は、暖かく、そして優しく、新しい一日を歩み始めた蓮の背中を照らしていた。