第一章 価値なき記憶
俺の仕事は、他人の人生に値段をつけることだ。
正式名称は「記憶査定士」。人々が生活のために切り売りする記憶データを買い取るのが、俺、桐島朔(きりしま さく)の日常だった。ディスプレイに映し出される他人の幸福、悲哀、後悔。それらを冷静に分析し、市場価値、希少性、感情的強度といった項目に従ってデジタルな数値に変換する。初恋のときめきは三万、新婚旅行の絶景は十万、子供が初めて歩いた瞬間の感動は、残念ながら供給過多で一万にも満たない。そんな世界で、俺の感情はとうに摩耗しきっていた。
その日、ブースに現れた老婆は、まるで時間の流れから取り残されたような古びたコートを羽織っていた。深く刻まれた皺の一つ一つが、彼女の生きてきた年月の長さを物語っている。千代、と名乗った彼女は、震える手で小さなメモリーチップを差し出した。
「これを、お願いできますでしょうか」
「内容は?」
俺は事務的に尋ねる。彼女の瞳は、諦めと、そして僅かな祈りのような光を宿していた。
「ただ……縁側で、陽なたぼっこをしていただけの記憶です」
思わず眉をひそめた。そんなものに価値がつくはずがない。需要があるのは、刺激的な体験、輝かしい成功、甘美な恋愛といった、購入者が手軽に現実逃避できる「高級品」だ。退屈な日常の記憶など、誰も欲しがらない。
「申し訳ありませんが、そういった記憶は値段が……」
「承知しております。ただ、少しでも足しになればと」
千代の言葉は、冬の枯れ葉のようにか細かった。会社の規定では、持ち込まれた記憶はすべて一度再生し、査定レポートを作成する義務がある。俺はため息を一つついて、チップをコンソールに差し込んだ。
ヘッドセットを装着すると、視界が一瞬ホワイトアウトし、次の瞬間、俺は知らない家の縁側に座っていた。
目の前には、手入れの行き届いていない、しかしどこか懐かしい庭が広がっている。午後の柔らかな陽光が、古い木の床を暖めている。肌を撫でる風は、土と草の匂いをかすかに運んできた。鳥のさえずり、遠くで響く子供たちの笑い声。そこには、何のドラマもない、ただ穏やかな時間が流れているだけだった。
(やはり、無価値だ)
再生を止めようとした、その時だった。
視界の端に、小さな男の子が映り込んでいることに気づいた。五歳くらいだろうか。隣家の庭で、彼は一人、虚ろな目で空を見上げている。その表情には何の感情も浮かんでいない。まるで、魂の抜け殻のようだ。
その子を見た瞬間、俺の胸の奥深くで、鍵のかかった扉が軋むような音がした。忘れていたはずの感覚。陽光の暖かさ。風の匂い。理由のわからない郷愁と、胸を締め付けるような切なさが、堰を切ったように溢れ出した。
俺は、この光景を知っている。
いや、知っているはずがない。俺の幼少期の記憶は、まるで霧がかかったように曖昧で、こんな鮮やかな情景はどこにも残っていないのだから。
混乱しながらヘッドセットを外すと、目の前の千代が、泣きそうな顔で俺をじっと見つめていた。
第二章 失われた風景
あの奇妙な体験以来、千代の記憶が頭から離れなかった。縁側の陽だまり、風の匂い、そして虚ろな目をした少年。あれは一体誰だったのか。なぜ俺の心は、あれほどまでに揺さぶられたのか。
俺は自分の過去を遡ることにした。これまで意識的に避けてきた領域だ。俺の戸籍上の両親は、俺が物心つく前に事故で死んだと聞かされている。それ以前の記憶はほとんどなく、施設で育った俺にとって、家族の温もりというものは、仕事で査定する「商品」の中にしか存在しないものだった。
仕事の合間を縫って、非合法な情報屋に接触し、自分の出生記録と、千代という老婆のデータを照合させた。浮かび上がってきたのは、意外な事実だった。俺が生まれた場所と、彼女が長年住んでいた住所は、驚くほど近かったのだ。
俺は、彼女が住むという古びた木造アパートを訪ねた。錆びた階段を上り、彼女の部屋のドアを叩く。しばらくして、ゆっくりとドアが開いた。
「……桐島、さん」
千代は驚いた顔をしたが、俺を静かに部屋へと招き入れた。四畳半ほどの狭い部屋には、最低限の家具しかなく、彼女の困窮した生活が窺えた。ちゃぶ台の上には、一杯のお茶が湯気を立てている。
「なぜ、あの記憶を?」
俺は単刀直入に切り出した。「あの記憶に映っていた少年は、誰なんですか」
千代は、ただ悲しげに微笑むだけだった。「古い、思い出話ですよ。あなた様には、関係のないことです」
彼女は何も語ろうとはしなかった。しかし、その瞳の奥に隠された深い哀しみが、俺に「引き返せ」とは言わなかった。
俺は調査を続けた。記憶市場の暗部にも足を踏み入れた。そこでは、貧しい人々が明日の食費のために、家族との思い出、愛する人との誓い、自らの尊厳に関わる記憶までもを二束三文で売り払っていた。記憶を売りすぎ、自己同一性を失ってしまった「記憶喪失者(ロスト・メモリーズ)」たちが、街の片隅で虚ろに彷徨っている。俺は、彼らの姿に、あの記憶の中の少年の面影を重ねていた。
毎日、他人の人生の断片を商品として処理する自分の仕事が、ひどく醜悪なものに思えてきた。一つ一つの記憶には、持ち主の人生そのものが宿っている。それを俺は、ただのデータとして、金に換えてきたのだ。胸に、冷たく重い罪悪感が沈殿していくのを感じた。
第三章 陽だまりの守人
執念の調査の末、俺はついに真実へと繋がる一つの記録を発見した。それは、三十年前に閉鎖された小さな記憶バンクの取引ログだった。そこに、俺の両親の名前があった。そして、その取引内容を見た瞬間、俺は全身の血が凍りつくのを感じた。
取引されていたのは、「息子の幸福な記憶、五年分一式」。
愕然とした。俺の両親は、事故で死んだのではなかった。彼らは、莫大な借金の返済のために、まだ幼かった俺の、人生で最も幸福であるはずの記憶を、根こそぎ金持ちに売り払っていたのだ。俺の過去が霧に包まれていた理由。俺が他人の感情に共感できなくなっていた理由。全てのピースが、最悪の形で組み上がった。
両親は、その罪悪感に耐えきれず、俺を施設に預けて失踪した。それが真相だった。
では、千代は誰なんだ? ログをさらに深く追うと、彼女の名前が見つかった。彼女は、当時、俺たちの家の隣に住んでいた女性だったのだ。
俺は震える足で、再び千代のアパートへ向かった。ドアを開けた彼女は、俺の顔を見るなり、すべてを察したようだった。
「……思い出されたのですね」
彼女の声は、か細く震えていた。
「なぜ……なぜ、あの記憶を?」
俺は、絞り出すように尋ねた。
千代は、ゆっくりと語り始めた。彼女は、隣家で起こっていた悲劇に気づいていた。日に日に感情を失っていく幼い俺の姿を、ただ黙って見守ることしかできなかった。両親が俺の記憶をすべて売り払ってしまったと知った時、彼女は絶望したという。
「あの子から、すべてを奪ってはいけない。あの子がいつか、自分を取り戻すための標(しるべ)になるものが、何か一つでも必要だ」
そう考えた千代は、当時まだ実験段階だった技術を使い、ある一つの記憶を、自らの脳に「上書き保存」したのだという。
それは、彼女の記憶ではなかった。俺の記憶でもない。それは、彼女が隣家の縁側から、記憶を売られて虚ろになった俺を、ただひたすら心配そうに見つめていた、あの陽なたぼっこの記憶そのものだった。
「あの日、あなたの周りに満ちていた陽の光、風の匂い、遠くの子供たちの声……。そういう、言葉にならない感覚だけは、データとして抜き取られることなく、あなたの魂の奥に残っているかもしれない。そう思ったのです。いつかあなたがこの記憶に触れた時、その感覚が共鳴して、何かを思い出してくれるかもしれないと」
それが、俺があの記憶に懐かしさを感じた理由だった。俺の失われた記憶の残滓が、彼女の守ってきた風景と共鳴したのだ。
「なぜ、今になってこれを売りに?」
「……もう、時間が残されていないのです」
彼女は静かに告白した。重い病を患っており、余命はいくばくもない、と。死ぬ前に、どうしても俺に真実を伝えたかった。そして、この記憶を売って得た僅かな金で、最後に何か、俺にしてあげられることをしたかったのだと。
「ごめんなさい……あなたの大切なものを、守ってあげられなくて」
千代はそう言って、深く頭を下げた。涙が、彼女の深い皺を伝って、畳の上に落ちた。
俺は、言葉を失って立ち尽くしていた。血の繋がりもない他人が、三十年もの間、ただ俺のためだけに、一つの風景を守り続けてきてくれた。記憶が商品となり、人の心が切り売りされるこの世界で、金にもならない、ただの陽だまりの記憶を。
俺が失ったのは、過去の記憶だけではなかった。人を信じる心、温かい感情、そういった人間としての根幹の部分を、俺は自ら放棄して生きてきたのだ。そのことに、今、ようやく気づいた。
第四章 これから紡ぐもの
翌日、俺は会社に辞表を提出した。もう、他人の人生に値段をつけることはできない。上司は俺を愚か者だと罵ったが、不思議と心は晴れやかだった。
足はそのま、千代のアパートへ向かった。ドアを開けた彼女に、俺は一枚の書類を差し出した。
「これは……?」
「養子縁組の届出書です」
俺は、まっすぐに彼女の目を見て言った。「あなたの記憶は、買い取れません。値段がつけられないほど、尊いものだから。だから代わりに、あなたの家族になって、あなたの残りの時間を、俺にください」
千代の目から、大粒の涙が溢れ出した。それは、査定ブースで見た諦めの涙とは違う、温かい光を宿した涙だった。
俺たちは、都会の喧騒を離れ、海辺の小さな町に古民家を借りた。そこには、あの記憶の中にあったような、日当たりの良い、広い縁側があった。
俺の失われた幼少期の記憶が戻ることはなかった。両親を許せる日が来るかもわからない。しかし、それはもう重要ではなかった。過去は変えられない。だが、未来はこれから作っていける。
俺は千代の車椅子を押し、縁側へと運ぶ。二人で並んで座り、午後の柔らかな陽光を浴びる。潮風が、俺たちの頬を優しく撫でていく。
「暖かいねぇ、朔さん」
千代が、穏やかに呟く。
「ええ、とても」
俺は、彼女の皺だらけの手を、そっと握った。その温もりが、俺の空っぽだった心に、ゆっくりと満ちていく。
記憶は、売買するものでも、過去に縛られるためのものでもない。それは、誰かと共に、今この瞬間を分かち合い、未来へと紡いでいくものなのだ。
俺は空を見上げた。そこには、あの日の少年が見たのと同じ空が広がっている。だが、今の俺の瞳には、虚ろではない、確かな光が宿っているはずだ。
千代と共に過ごす、この陽だまりの時間が、俺にとっての、新しい最初の記憶になった。