第一章 沈黙の請求書
壁に染み付いた機械油の匂いが、健太の日常だった。朝から晩まで、彼は巨大なプレス機の前に立ち、ただひたすらに金属板を送り込む。ガー、ガシャン、という無機質な音が、この国で最も価値のあるもの、つまり「沈黙」を際立たせていた。
『言葉税』が導入されて十年。政府は、情報過多と無益な言説による社会的コストの削減を名目に、国民が一日あたりに発する単語数に課税した。基礎控除として三百語までは非課税だが、それを超えると一語につき十円が課される。富裕層は言葉を湯水のように使い、自らの知識と権威を誇示したが、健太のような労働者階級にとって、言葉は金のかかる贅沢品だった。
人々は口を噤んだ。街角の会話は消え、身振り手振りと、首から下げた小さなホワイトボードでの筆談がコミュニケーションの主役となった。家族との会話ですら、単語を数えながら行う。健太は妹の美咲と二人暮らしだった。心臓に病を抱える彼女の薬代を稼ぐため、健太は自らに厳しい沈黙を課していた。工場では「了解」「はい」「いいえ」の三語以外、ほとんど口を開かない。家では、美咲の体調を尋ねる最小限の言葉と、彼女の言葉に頷きで返すだけの日々。彼の月平均単語使用数は、二百語を下回っていたはずだった。
その日、仕事から帰ると、郵便受けに政府からの冷たい質感の封筒が届いていた。美咲はまだ病院だ。薄暗い部屋で封を切ると、中から現れたのは『超過単語使用に関する特別課税通知』と印字された一枚の紙だった。
請求額は、三十五万七千円。
健太は息を呑んだ。指が震える。記載された超過単語数は、三万五千七百語。ありえない。ここ数ヶ月、彼は誰よりも言葉を節約してきた。三百語どころか、一日三十語も話していない日だってある。何かの間違いだ。システムのエラーに違いない。
しかし、その請求書は、彼のささやかな日常に突き立てられた鋭い楔のように、冷たく、絶対的な事実としてそこにあった。それは、彼の沈黙の価値を、根底から嘲笑うかのような、理不尽な宣告だった。なぜ? どうして俺が? 声にならない叫びが、健太の胸の中で渦を巻いた。その渦の中心には、深く、暗い謎が口を開けていた。
第二章 盗まれた言葉たち
役所の窓口は、アクリル板で仕切られた静寂の空間だった。健太はホワイトボードに『請求書の誤りについて』と書き、職員に見せた。職員は無感動な目でそれを見ると、テンプレート通りの文面をボードに書き返した。『システムは完璧です。支払いに応じられない場合は資産差し押さえに移行します』。取り付く島もない。
途方に暮れて役所のロビーの硬い椅子に座っていると、隣に小柄な女性が腰掛けた。彼女は健太が持つ請求書をちらりと見ると、悪戯っぽく片目をつむり、自分のホワイトボードに素早く文字を走らせた。『あなたも? システムの幽霊に言葉を盗まれたクチね』
小夜子と名乗るその女性は、フリーのジャーナリストだった。言葉税の欺瞞を暴こうと、たった一人で政府のシステムを調査しているという。彼女によれば、健太のような不可解な高額請求を受ける「サイレント・ペイヤー(沈黙の納税者)」が、ここ最近、都市の貧困地区で急増しているらしかった。
「政府は『公平な税』だって言うけど、嘘よ。これは新しい形の身分制度。言葉を操る者が、言葉を持たない者を支配するための道具」
小夜子は、周囲を警戒しながら、小さな声で囁いた。その声は、健太が久しく聞いていなかった、熱と意志のこもった響きを持っていた。一語一語に課金されるリスクを冒してまで、彼女は直接語りかけてきた。
「システムには裏がある。私はそう睨んでる。でも、証拠がないの。手伝ってくれない? あなたのその理不尽な請求書が、最初の糸口になるかもしれない」
健太は迷った。危険なことだと直感した。しかし、美咲の薬が買えなくなる未来を思うと、このまま黙って搾取されるわけにはいかなかった。彼は、こくりと頷いた。それは、彼の人生で最も重い沈黙の肯定だった。
小夜子の調査は、政府のデータセンターに侵入し、課税ログの生データを盗み出すという、大胆不敵なものだった。彼女は凄腕のハッカーでもあった。健太は、彼女の指示通り、役所のゴミ箱から廃棄された書類を集めたり、データセンター周辺の監視カメラの死角を探ったりと、地道な作業を手伝った。
作業の合間、二人は筆談で多くのことを語り合った。健太は、口下手な自分が嫌いだったが、文字にすると、驚くほど雄弁になれた。彼の内面には、工場の騒音の中でも消えることのない、豊かな思考と感情の世界が広がっていた。美咲のこと、亡くなった両親のこと、いつか見てみたいと願う海の青さについて。小夜子は、彼の言葉を「まるで詩みたい」と評した。誰かに自分の内面を認められたのは、生まれて初めてのことだった。健太の心に、凍てついていた何かが、ゆっくりと溶け始めるのを感じた。
第三章 心の検閲官
数週間後、小夜子はついに政府のメインサーバーへの侵入に成功した。深夜、彼女の隠れ家である古いアパートの一室で、二人は息を詰めてモニターの前に座っていた。画面に、膨大なログデータが滝のように流れ落ちていく。
「見つけた…あなたのIDのログよ」
小夜子が指さした画面には、健太のIDに紐付けられた課税記録が表示されていた。タイムスタンプ、場所、そして『発話単語』の欄。しかし、そこに記録されていたのは、健太が実際に口にした言葉ではなかった。
『…プレス機の圧力が、まるで社会が俺にのしかかる重さのようだ…』
『美咲の笑顔。あれが俺の唯一の太陽だ。曇らせてはいけない…』
『この錆びた鉄の匂いの中で、俺の人生も少しずつ錆びていくのだろうか…』
それは、健真が誰にも聞かせたことのない、心の中で紡いだ独白だった。彼の思考そのものだった。
健太は全身の血が逆流するような感覚に襲われた。愕然とする彼に、小夜子が震える声で告げた。
「そういうことだったのね…。奴らがカウントしているのは、発せられた言葉だけじゃない。私たちの、思考そのものよ」
言葉税の真の姿は、税収確保などではなかった。それは、国民の思考を監視し、反政府的な思想や不満の芽を摘み取るための、究極の監視システムだったのだ。全国に張り巡らされた微弱な脳波スキャナーが、人々の「潜在的発話」――心の中で形成される言語的思考――を読み取り、AIがその危険度を判定する。健太のように、口には出さずとも内面に豊かな思考や批判精神を持つ人間は、危険因子としてマークされ、高額な課税によって経済的に追い詰められ、精神的に疲弊させられる。沈黙は、服従の証ではなかった。思考の放棄こそが、政府の求める真の「沈黙」だったのだ。
健太は、自分の内なる聖域が、土足で踏み荒らされていた事実に絶望した。彼が大切に育んできた内面の言葉たちは、彼を罰するための証拠として収集されていた。口下手な自分を慰め、世界を理解するための唯一の手段だった思考が、自分を社会の底辺に縛り付けるための鎖だった。
「ひどい…」
健太の口から、何ヶ月ぶりかに、感情のこもった言葉が漏れた。それは税金の対象になる、たった三語の言葉。しかし、その三語には、彼の魂の叫びが凝縮されていた。涙が、頬を伝った。
第四章 紡がれる声
絶望の淵で、健太の中に一つの感情が燃え上がった。それは、静かな、しかし決して消えない怒りの炎だった。奪われたのは金だけではない。人間としての尊厳そのものだ。
「これを、公表しよう」
健太がホワイトボードに力強く書くと、小夜子は彼の目を見て、強く頷いた。
彼らは、盗み出したログデータとシステムの解析結果を、一つのファイルにまとめた。問題は、どうやってこれを世間に広めるかだった。大手メディアは政府の管理下にあり、真実を報じることはないだろう。
その時、健太はあるアイデアを思いついた。彼は小夜子に頼み、街の中心にある最も大きな広場の公共ディスプレイをハッキングしてもらった。そこは、富裕層が広告を流し、政府がプロパガンダを映し出す、権力の象徴のような場所だった。
翌日の夕暮れ時、人々が家路につく時間。広場の巨大ディスプレイが、突如として砂嵐に切り替わった。そして、画面に映し出されたのは、健太の顔のアップだった。彼は、お世辞にも話が上手いとは言えない。緊張で声も震えている。しかし、彼の言葉は、彼の魂から直接紡ぎ出されたものだった。
「皆さん。私たちは、言葉を奪われました。しかし、本当に奪われたのは、私たちの心です。政府は、私たちの頭の中を覗き、思考に値段をつけ、考えることを罪だと言います」
彼は、自らの課税通知と、心の中の言葉が記録されたログデータを画面に映し出した。広場が、どよめきに包まれる。
「俺は、口下手です。うまく話せません。でも、心の中には、たくさんの言葉がありました。妹を想う言葉。未来を夢見る言葉。そして、この社会の理不尽さに怒る言葉。それは、俺が俺であるための、大切な言葉でした」
彼の言葉は、流暢ではなかった。何度も詰まり、どもった。しかし、その一つ一つが、沈黙を強いられてきた人々の胸に、深く突き刺さった。私たちは皆、心の中に言葉を持っている。声に出せないだけの、豊かな世界を持っている。
「もう、黙っているのはやめましょう。思考を、心を、奪い返しましょう。たとえ一語一語に税金がかかろうとも、伝えなければならない想いがあるはずです!」
健太の最後の叫びが、広場に響き渡った。警官隊が駆けつけるまでの、わずか三分間の演説。しかし、その三分間は、人々の心に深く刻み込まれた。誰かが、堰を切ったように拍手を始めた。その拍手は、瞬く間に広場全体に広がっていった。それは、声にならない賛同の叫びであり、沈黙の革命の始まりを告げる産声だった。
その日を境に、何かが変わり始めた。政府は健太の演説を「テロリストの扇動」と断じたが、一度灯った疑念の火は、簡単には消せなかった。人々は、互いの目を見て、沈黙の下に隠された思考の存在を意識し始めた。
健太と小夜子は、地下に潜らざるを得なくなった。しかし、健太はもう以前の彼ではなかった。彼は、ペンを取った。声に出せば課税されるなら、文字にすればいい。彼は、自らの体験と、言葉を奪われた人々の物語を書き始めた。彼のインクは、搾取された思考の涙であり、未来への希望だった。その物語は、小さな冊子となって、人々の手から手へと密かに渡っていった。
夜明け前の薄闇の中、健太はペンを走らせる。窓の外では、まだ世界は沈黙に包まれている。しかし、彼は知っていた。静寂の中、今この瞬間も、無数の心が言葉を紡いでいる。そして、その言葉たちがいつか世界を覆う奔流となる日を信じて、彼は書き続けた。彼の沈黙は、今や、世界で最も雄弁なインクとなっていた。