第一章 砕かれた万華鏡
病室の窓から差し込む西日は、あらゆるものを気怠げなオレンジ色に染め上げていた。空気中に漂う消毒液の匂いが、やけに鼻につく。俺、蒼井湊は、白いシーツの海に沈む親友の顔を、ただ黙って見つめていた。橘陽太。太陽のように笑い、誰からも愛される、俺のたった一人のヒーロー。その彼の額には痛々しいガーゼが貼られ、規則正しい電子音だけが、彼がまだこの世界に繋ぎ止められていることを示していた。
「脳に強い衝撃が。意識が戻っても、記憶に障害が残る可能性が高いでしょう」
医師の言葉が、頭の中で何度も反響する。記憶障害。その言葉の冷たい響きが、俺の心臓を鷲掴みにした。陽太から記憶がなくなったら、それはもう、陽太ではないのではないか。俺たちの過ごした時間は、共に笑い、泣いた日々の輝きは、どこへ消えてしまうのだろう。
絶望が喉までせり上がってきたその時、ふと、ポケットの中の冷たい感触を思い出した。指先で探り当てたのは、手のひらに収まるほどの、滑らかな黒曜石のような小箱。俺と陽太だけの秘密。二人で『メモリア』と名付けた、旧式のVRゴーグルのような形をした奇妙な装置。
それは、互いの記憶を一時的に「共有」できる、不思議なガジェットだった。ヘッドセットを装着し、互いの額を合わせる。すると、相手が見た風景、感じた感情、味わった感覚が、まるで自分の体験のように流れ込んでくるのだ。俺はいつも、陽太の眩しい記憶を借りていた。人気者の彼が見る世界のきらめき、スポーツで活躍した時の高揚感、知らない誰かと笑い合った温かな時間。それらは、内向的な俺の世界を鮮やかに彩ってくれる、魔法の万華鏡だった。
「記憶に障害が残るなら……」
俺の唇から、乾いた声が漏れた。
「俺の記憶で、上書きすればいい」
それは禁じられた使い方だった。メモリアはあくまで「共有」するだけのもの。一方的に記憶を送り込むなんて、何が起こるか分からない。相手の人格を破壊してしまうかもしれない、危険な賭け。
だが、陽太のいない世界など想像もできなかった。彼が俺を忘れてしまうくらいなら。俺たちの友情が砕かれた万華-鏡の破片のように散り散りになるくらいなら。
俺は覚悟を決めた。電子音だけが響く静寂の中、ゆっくりとメモリアを取り出し、陽太の冷たい額にそっと触れた。これから俺が犯す罪の重さに、指先が微かに震えていた。
第二章 偽りの陽だまり
深夜の病室。俺は陽太と自分の頭にメモリアを装着し、祈るような気持ちでスイッチを入れた。流れ込んでいくのは、俺が大切にしまっていた記憶の断片。初めて出会った日のぎこちない挨拶。二人で徹夜してクリアしたゲームの達成感。川辺で語り明かした将来の夢。俺の視点から見た、太陽のような陽太の笑顔、笑顔、笑顔――。
意識が遠のくほどの没入感の後、俺は汗だくで目を覚ました。隣で眠る陽太の表情は、心なしか安らかに見えた。
奇跡は、三日後に起きた。
陽太が、ゆっくりと目を開けたのだ。駆けつけた医師や看護師が様々な質問を投げかける。彼はぼんやりとした目で天井を見つめ、自分の名前さえ、すぐには出てこないようだった。だが、俺が「陽太」と呼びかけると、その瞳は確かに俺を捉え、そして、おぼつかない口調で言ったのだ。
「……みなと?」
その瞬間、俺は罪悪感と安堵感の濁流に飲み込まれ、ただ泣き崩れた。俺たちの友情は、守られたのだと。
退院した陽太との生活は、どこか奇妙なバランスの上で成り立っていた。彼は俺が送り込んだ記憶の通り、俺を「親友」だと認識していた。俺たちの思い出話にも頷き、時折、微かに笑みさえ浮かべる。しかし、その笑顔はどこかガラス細工のように儚く、彼の瞳の奥には常に、自分が誰なのか分からないという深い霧が立ち込めているように見えた。
彼は、鏡に映る自分の顔を、まるで知らない他人を見るように、じっと見つめることがあった。俺が「陽太」と呼ぶたびに、その肩が一瞬だけ強張るのを、俺は見逃さなかった。
俺は陽だまりを作ったつもりだった。だがそれは、決して本物の太陽にはなれない、偽りの光だったのかもしれない。
ある日、陽太のリハビリを手伝うために彼の実家を訪れた。彼の部屋を整理していると、机の引き出しの奥から、鍵のかかった古い日記帳を見つけた。事故の直前まで書いていたものだろうか。陽太の失われた記憶の手がかりが、ここにあるかもしれない。
見てはいけない。心のどこかで警鐘が鳴っていた。これは、俺が知るべきではない、陽太だけの聖域だ。しかし、彼を本当に理解したいという思いと、彼を歪めてしまった罪悪感が、俺の理性を麻痺させた。俺は震える手で、近くにあった小さなハサミを使い、脆い錠前をこじ開けた。
第三章 反転する世界
インクの染みたページを一枚、また一枚とめくっていく。そこに綴られていたのは、俺の全く知らない陽太の姿だった。俺が憧れていた快活で自信に満ちたヒーローではなく、嫉妬と劣等感に苛まれ、深い孤独に喘ぐ、一人の弱い人間の心の叫びだった。
『今日も湊は、キャンバスに向かっていた。あいつの指先から生まれる色彩は、どうしてあんなに静かで、美しいんだろう。俺にはないものだ。俺は人の輪の中心にいて、大きな声で笑って、そうやって自分を大きく見せることしかできない。でも、湊は違う。あいつは一人でいても、世界と繋がっているように見える』
ページをめくる指が、凍りついた。嫉妬? 陽太が、俺に? 信じられなかった。俺はずっと、彼のようになりたいと願ってきた。彼が持つすべてが、俺には眩しすぎた。それなのに。
『湊とメモリアで記憶を交換する時間が、唯一の救いだ。あいつの穏やかな世界に浸っている時だけ、空っぽの自分を忘れられる。でも、戻ってくると余計に虚しくなる。湊は俺の記憶を見て、「すごいな」って羨ましがるけど、違うんだ。俺がお前のようになりたいんだよ』
心臓が氷の塊になったようだった。俺が彼に与えていたと思っていた勇気や希望は、彼にとっては、自らの空虚さを突きつけられる苦痛の時間だったというのか。俺たちの友情は、互いにないものを羨み、妬むだけの、歪んだ鏡合わせだったというのか。
そして、最後の日付のページ。そこには、乱れた文字で、絶望的な言葉が刻まれていた。
『もう疲れた。太陽のように振る舞うのは、もう限界だ。いっそ、全部消してしまいたい。湊、ごめんな。お前みたいに、強くはなれなかった』
事故ではなかった。
陽太は、自ら命を絶とうとしたのだ。あの日のトラックは、彼の計画の一部だった。
世界が反転した。俺が守ろうとした「俺たちの友情」は、陽太が消し去りたかったものそのものだったのかもしれない。俺が送り込んだ輝かしい思い出の数々は、彼が逃げ出したかった現実を塗りつぶす、残酷な上書きでしかなかった。俺は陽太を救ったんじゃない。彼の魂を、偽りの記憶の牢獄に閉じ込めてしまったんだ。
「ああ……」
声にならない嗚咽が漏れた。日記帳が手から滑り落ち、床に乾いた音を立てた。窓の外では、陽太が事故に遭う前と同じように、何も知らない太陽が世界を照らしていた。
第四章 二人分の夜明け
俺はどうすればいいのか分からなくなった。真実を話すべきか。しかし、記憶を失い、かろうじて精神の均衡を保っている彼に、自らが死を選んだ過去を突きつけることは、あまりにも酷だ。かといって、このまま偽りの友情を演じ続けることなど、もうできそうになかった。
数日後、俺は再びメモリアを手に、陽太の前に座っていた。
「陽太。もう一度だけ、これを使わせてくれないか」
彼は不思議そうな顔で俺を見たが、静かに頷いた。俺が彼を傷つけるはずがないと、俺が上書きした記憶が、そう彼に信じ込ませているからだ。
「今度は、俺の記憶を送るんじゃない」
俺は言った。
「お前の記憶を、探しに行く。たとえそれが、どんなに暗くて、冷たい場所でも」
それは、陽太の精神の深淵にダイブするようなものだった。彼の失われた記憶の断片を引きずり出そうとすれば、俺たちの意識が混濁し、二人とも壊れてしまうかもしれない。それでも、俺は行かなければならなかった。偽りの光で彼を照らすのではなく、彼の闇に寄り添うことこそが、本当の友情だと信じたかったから。
ヘッドセットを装着し、額を合わせる。意識が深く沈んでいく。そこは、光のない冷たい水の底のようだった。孤独、焦燥、嫉妬、絶望。陽太が抱えていた感情が、奔流となって俺の中に流れ込んでくる。息ができないほどの苦しみ。これが、陽太がずっと一人で耐えてきた痛みなのか。
俺は必死に手を伸ばした。暗闇の中で、微かに光る記憶の破片を探す。その時、俺の意識の中に、逆に陽太の感覚が流れ込んできた。俺が彼に対して抱いていた、純粋な憧れ。彼を救いたいと願った必死の思い。そして、真実を知ってしまった今の、この途方もない後悔と痛み。
俺の闇も、彼の闇も、溶け合って一つになる。境界線が曖昧になり、どちらが湊で、どちらが陽太なのかも分からなくなっていく。その混沌の果てで、俺たちは、互いの最も柔らかな部分に、ようやく触れた気がした。
長い時間が経ったように感じた。ゆっくりと目を開けると、視界に涙で滲んだ陽太の顔があった。彼もまた、静かに泣いていた。
「……思い、出した。全部」
かすれた声で、彼が言った。
「ごめん、湊。俺、お前に……酷いことを」
「俺の方こそ」
俺は涙を拭うこともせず、かぶりを振った。
「ごめんな、陽太。お前の苦しみに、気づいてやれなくて。勝手にお前をヒーローにして、自分の理想を押し付けてた。お前を一人ぼっちにさせてたのは、俺だった」
もう、どちらがどちらを許すという話ではなかった。俺たちは二人とも、不器用で、弱くて、互いの光に目が眩んで、すぐそばにある影を見ていなかっただけなのだ。
俺たちは、ゼロから、いや、マイナスから関係を築き直すことになるだろう。かつてのような無邪気な笑顔は、もう戻らないかもしれない。けれど、それでいい。
病室の窓から、新しい朝の光が差し込んできた。それは、昨日までのオレンジ色の西日とは違う、静かで、優しい、希望の色をしていた。俺たちは言葉を交わさず、ただ互いの存在を感じながら、二人分の夜明けを静かに見つめていた。本当の友情は、これから始まるのだ。