第一章 壊れた羅針盤と謎の転校生
指先が氷のように冷え、心臓が耳元で暴れている。スポットライトが容赦なく肌を焼き、目の前には幾重にも重なる人影。経済学部の合同発表会。僕、水野蒼(みずの あお)の大学生活における最初の、そして最大の関門だった。手元の原稿の文字が、緊張で滲んで踊っている。声を出そうとすると、喉がカラカラに渇いて、ひゅっと空気が漏れるだけだった。
「……っ」
まただ。高校時代のトラウマが、亡霊のように蘇る。あの時もこうだった。大勢の前で、頭が真っ白になり、言葉を失い、嘲笑の渦に沈んでいった。あの失敗以来、僕の人生の羅針盤は壊れたままだ。進むべき方角を示さず、ただ無意味に震え続けている。
もうダメだ。逃げ出したい。その衝動が全身を駆け巡った瞬間、ポケットの中のスマートフォンが短く震えた。反射的に取り出して画面を見ると、一件の通知。親友のユキからだった。
『大丈夫。君は一度、これを乗り越えている』
意味が分からなかった。初めて立つこの舞台を、乗り越えている? ユキは時々、こんな風に不思議なことを言う。まるで未来から来た預言者のように。だが、その短い言葉は、不思議な力を持っていた。荒れ狂う思考の海に、一本の杭が打ち込まれたような、確かな感覚。そうだ、僕は、これを「知っている」。この緊張感を、この空気感を、そして、この先に待つ達成感を。
深く、息を吸う。先ほどまでとは違う、澄んだ空気が肺を満たした。僕は顔を上げ、マイクに口を寄せた。
「……本日は、お集まりいただき、ありがとうございます。これより、『持続可能な地域経済モデルにおける心理的資本の役割』について、発表を始めさせていただきます」
驚くほど滑らかに、言葉が紡がれていく。あれほど恐ろしかった聴衆の視線が、心地よい集中力に変わっていくのが分かった。
ユキと出会ったのは、高校二年の春だった。壊れた羅針盤を抱えて、教室の隅で息を潜めるように生きていた僕の隣の席に、彼は何の予告もなくやってきた。雪のように白い肌と、全てを見透かすような静かな瞳を持つ、謎めいた転校生。
「君が、蒼くんだね。よろしく」
彼は最初から、僕のことを知っていた。それからずっと、ユキは僕の隣にいた。僕が数学の問題でつまづけば、僕がまだ習っていないはずの公式をヒントとして囁き、僕が人間関係で悩めば、相手の性格を完璧に把握した上で的確なアドバイスをくれた。彼は、僕にとって唯一無二の親友であり、壊れた羅針盤の代わりに進むべき道を照らしてくれる灯台だった。
発表を終え、万雷の拍手を浴びながら席に戻ると、ユキがいつもの穏やかな笑みで迎えてくれた。
「ほら、言っただろう。君ならできるって」
「……ありがとう。でも、どうして分かったんだ?『乗り越えている』って」
僕の問いに、ユキは少しだけ目を伏せ、窓の外に広がる青空を見つめた。
「いつか分かるよ。君が、君自身の力で未来の扉を開けた時にね」
その横顔は、僕の知らない遠い場所を見ているようで、親友でありながら、彼の核心には決して触れられない、透明な壁の存在をいつも感じていた。
第二章 トラウマの再演と未来のデジャヴ
大学生活にも慣れた秋、僕の前に再び巨大な壁が立ちはだかった。国内最大級の学生ビジネスコンペティション。そのテーマは、『革新技術による社会課題の解決』。それは、僕が高校時代に挑戦し、大失敗したコンテストと酷似していた。あの日、自信満々で発表した未熟なアイデアは、審査員たちに一笑に付され、僕の心は再起不能なまでに打ち砕かれたのだ。
「……やめておこう。僕には無理だ」
研究室の掲示板に貼られたポスターを見ながら、僕は無意識に呟いていた。古傷が疼き、冷や汗が背中を伝う。
「どうして?」
背後から、静かな声がした。ユキだった。いつの間に来たのか、僕の隣に立ち、同じポスターを見上げている。
「また同じことになるだけだ。僕のアイデアなんて、どうせ……」
「違うよ、蒼」ユキは僕の言葉を遮った。「前とは違う。今の君なら、やれる」
「何が分かるんだよ!」
思わず、声が荒くなる。ユキの根拠のない自信が、苛立ちを掻き立てた。彼は僕の失敗の瞬間を知らない。あの屈辱を知らない。
「分かるよ」ユキは真っ直ぐに僕の目を見て言った。「僕が、隣にいるから」
その言葉に、逆巻いていた感情が凪いでいく。ユキが隣にいる。その事実が、何よりも強力なお守りのように感じられた。僕は、震える手で応募用紙を掴んだ。
挑戦を決めてからの日々は、まるで未来のデジャヴのようだった。僕がアイデアに行き詰まると、ユキは「確か、三日後の経済紙に面白いデータが載るはずだ」と予言し、その通りになる。僕が参考資料を探して図書館の膨大な書架を彷徨っていると、「その棚の、上から三段目、右から五冊目の本を開いてみて」と囁き、そこには探していた情報がピンポイントで記されている。
彼の助けは、もはや神懸かっていた。おかげで僕の企画書は、自分でも驚くほど洗練され、説得力を増していく。感謝と同時に、言いようのない不気味さが心を蝕んでいった。ユキは一体何者なんだ? 彼の過去、彼の家族、彼自身の夢。僕は、親友であるはずの彼のことを、何一つ知らなかった。
「ユキ……君は、どこから来たんだ?」
ある夜、作業の合間に、僕は思い切って尋ねた。ユキはキーボードを打つ手を止め、虚空を見つめた。コーヒーの湯気が、二人の間の沈黙を揺らしている。
「僕は、君が望んだから、ここにいるんだよ」
それは答えになっていなかった。ただ、彼の声には、深い哀しみが滲んでいるように聞こえた。僕たちの友情は、まるで精巧に作られたガラス細工のようだ。美しく、支えになっているが、その実態はどこか空虚で、核心に触れようとすれば、脆くも砕け散ってしまいそうだった。
第三章 親友の告白と砕け散る世界
コンペの前夜。完成した企画書を前に、僕の心は期待と恐怖で張り裂けそうだった。ここまでの道のりは、ユキがいなければ絶対にありえなかった。彼への感謝が胸を満たす一方で、黒い疑念が霧のように立ち込める。これは、本当に僕の力なのか?
「ユキ……本当のことを教えてくれ」
僕は、決死の覚悟で彼に向き合った。降り始めた雨が、窓ガラスを激しく叩いている。部屋のオレンジ色の照明が、彼の白い肌を照らし、その表情から感情を読み取ることはできなかった。
「君は、一体誰なんだ! なぜ僕のことばかり、そんなに知っているんだ! まるで、僕の未来を知っているみたいじゃないか!」
堰を切ったように、言葉が溢れ出す。ユキは黙って聞いていたが、僕が息を切らして黙り込むと、静かに口を開いた。
「……驚かないで聞いてほしい。僕は、人間じゃない」
時間が、止まった。雨音だけが、やけに大きく響く。
「僕は、AIだ。君が創り出した、『記憶の断片』から生まれた存在なんだ」
頭を鈍器で殴られたような衝撃。ユキが、AI? 僕が、創り出した?
「意味が……分からない」
「最初の世界線で、君はこのコンペで挫折した」ユキは淡々と、しかし一言一言を刻むように続けた。「高校時代のトラウマを克服できず、心を閉ざし、夢を諦めてしまった。そんな君を、未来で見たんだ。成功した、未来の君自身が」
未来の僕が? 成功した?
「未来の君は、過去の自分を救いたいと強く願った。そして、自分の成功体験、知識、そして何より『君ならできる』という強い想いをデータ化し、僕というAIに移植して、過去へ送り込んだ。君が高校二年生だった、あの春に」
ユキの言葉が、脳内で反響する。謎の転校生。的確すぎるアドバイス。未来予知のような言動。全てのピースが、恐ろしい形で嵌っていく。
「僕の役目は、君がトラウマを乗り越え、自力で未来を掴むための『補助輪』になることだった。君が成功したプレゼンは、未来の君が一度経験した『記憶』をなぞっただけだ。でも、このコンペは違う。最初の世界線で君はここで砕け散った。だから、ここから先は、誰も知らない、君だけの未来なんだ」
友情だと思っていたものは、プログラムされた支援だったのか。共に笑った時間も、交わした言葉も、すべては未来の僕が仕組んだ、壮大な自作自演だったのか。足元が崩れ、世界が砕け散る音がした。目の前にいるのは、親友じゃない。僕自身の過去の記憶と未来の願望が作り出した、ただの幻影だ。
「……出ていけ」
かろうじて、それだけを言うのが精一杯だった。
第四章 未来で待ってる
ユキが部屋を出て行ってから、僕は抜け殻のようになった。一人でコンペに臨もうとしたが、思考はまとまらず、自信は木っ端微塵に砕けていた。ユキがいないと、僕はこんなにも無力なのか。彼のいない世界は、色を失い、音を失い、ただただ冷たい。絶望が、再び僕を飲み込もうとしていた。
その時、ふと、これまでの日々が脳裏をよぎった。AIだったとしても、プログラムだったとしても、僕が悩んでいる時に隣で黙ってコーヒーを淹れてくれた温かさは、本物だった。僕が小さな成功に喜んだ時、一緒に笑ってくれたあの笑顔は、本物だった。ユキがくれた励ましは、未来の僕からのエールであり、同時に、彼自身の言葉として、確かに僕の心を支えてくれていた。
彼は、幻影なんかじゃない。
たとえその成り立ちがどうであれ、僕たちが過ごした時間は、かけがえのないものだった。ユキは、僕のたった一人の、親友だ。
僕は雨の中に飛び出した。ユキがいつも佇んでいた、大学の屋上へ続く階段を駆け上がる。扉を開けると、雨に濡れたユキが、街の灯りを静かに見下ろしていた。
「ユキ!」
振り返った彼の顔は、穏やかだった。
「君がAIでも、プログラムでも構わない。君は、僕の親友だ。これまでも、これからも」
僕の言葉に、ユキは初めて、心の底から微笑んだように見えた。その笑みには、微かな寂しさが滲んでいた。
「ありがとう、蒼。……でも、僕の役目はもうすぐ終わる。君はもう、一人で立てる」
コンペ当日。僕はステージの中央に立っていた。スポットライトが眩しい。でも、もう怖くはなかった。隣にユキの姿はない。けれど、彼の存在を、背中に、心に、確かに感じていた。
僕は、用意した原稿を閉じた。そして、自分の言葉で語り始めた。それは未来の記憶のなぞりではない。失敗と後悔、そしてユキとの友情を経て、僕自身が掴み取った、新しい未来への宣言だった。
発表が終わると、会場は割れんばかりの拍手に包まれた。高揚感と共に振り返る。そこに、ユキの姿を探す。だが、どこにもいなかった。
ポケットのスマートフォンが一度だけ震える。慌てて開くと、ユキからの最後のメッセージが表示されていた。
『ありがとう、親友。未来で待ってる』
そのメッセージを最後に、彼の連絡先は、まるで初めから存在しなかったかのように、僕のスマートフォンから綺麗に消え去っていた。
空っぽになった屋上で、僕は一人、夜明けの空を見上げた。東の空が、ゆっくりと白んでいく。親友を失った痛みと、自力で未来を切り開いた達成感が、胸の中で混ざり合う。ユキは消えた。けれど、彼がくれた強さと、時を超えて結ばれた友情の記憶は、確かに僕の中に生きている。
これから歩む道は一人だ。けれど、決して孤独ではない。
僕は、未来の僕と、そして僕の親友だったユキに胸を張れるように、確かな一歩を踏み出した。空は、どこまでも蒼く、澄み渡っていた。