***第一章 記憶の薄膜***
高村悠馬は、古びたアルバムを捲る指先が止まるのを感じた。セピア色の写真の中に、まだあどけない笑顔の自分が、毛並みの良いゴールデンレトリバーを抱きしめている。優しい記憶が胸に広がるはずなのに、その犬の名前も、共に過ごした日々も、そして彼が亡くなった時の悲しみも、なぜか思い出せない。まるで、透明な薄膜一枚隔てた向こうにその記憶があるようで、手を伸ばしても掴めない。漠然とした不安が胸に広がる。
その日、見慣れない番号からの着信があった。普段、用件はメッセージで済ませる知人たちとは異質な、知らない番号だ。画面を訝しみながらも応答すると、耳に届いたのは少し低く、感情の起伏の少ない声。最近知り合ったばかりの青年、霧島朔の声だった。
「高村くん、もし時間があるなら、少し会えないだろうか」
朔は、大学の美術学科の傍ら、街角で風景画を描いていた悠馬が、たまたま出会った人物だ。寡黙で、いつも少し俯き加減。描く絵も、人影のない、どこか寂しさを湛えた風景画ばかり。そんな彼が、自ら誘ってくるのは珍しいことだった。悠馬は、写真の記憶の靄を振り払うかのように、曖昧な返事を残して電話を切った。
二人が会うのは、いつも決まって街外れにある小さなカフェだった。アンティーク調の家具が並び、窓からは手入れの行き届いた庭園が見える。朔は既に窓際の席に座り、カップを両手で温めていた。その横顔はいつも以上に陰を帯びていて、悠馬は思わず息を呑んだ。
「どうしたんだ、朔?何かあったのか?」
悠馬の問いに、朔はゆっくりと顔を上げた。その瞳は深い湖の底のように静かだったが、その奥には微かな動揺が揺らめいているように見えた。
「最近、奇妙な夢を見るんだ。古い、庭のある家。そこで、誰かと遊んでいる夢だ」
朔の声は、いつもよりも僅かに震えていた。悠馬は、朔の言葉に言いようのない既視感を覚えた。庭のある家、夢……それは、アルバムの犬の写真で感じた、薄膜の向こうの記憶とどこか繋がっているような気がした。
「それだけじゃなくて、なんだか体が変なんだ。指先が痺れるような、感覚が薄れるような……」
朔はそう言って、細い指先をテーブルの上で震わせた。その動きが、まるで今にも消え入りそうな蝶の羽ばたきに見え、悠馬の胸に冷たい不安が湧き上がった。
二人の間に、静寂が訪れる。庭園の向こうから、遠くで風に揺れる風鈴の音が聞こえる。その音色が、二人の間に漂う重い空気をかき乱すように響き渡った。
***第二章 絆と侵食***
朔と悠馬の友情は、カフェでの再会以降、急速に深まっていった。美術の仲間として、互いの作品について語り合い、時にはスケッチブックを手に、街の風景を共に描いた。悠馬は朔の繊細な感受性や、隠された情熱に触れ、朔もまた、悠馬の温かく、どこまでも真っ直ぐな心に触れて、徐々にその閉ざされた扉を開き始めた。朔の描く絵にも、わずかながら人の気配が感じられるようになってきた。夕焼けの公園のベンチ、雨上がりの街角に立つ傘の群れ。それらはまだ曖昧なシルエットだったが、以前の誰一人いない風景とは明らかに異なっていた。
しかし、その友情が深まるにつれて、悠馬はいくつかの異変を感じるようになった。
例えば、朔の腕に触れた瞬間、悠馬の脳裏に一瞬だけ、全く知らない記憶の断片がフラッシュバックすることがあった。それは、古いオルゴールの音色だったり、夕焼けの空に浮かぶ一機の飛行機だったり、あるいは、誰かのすすり泣く声だったりした。どれも一瞬で消え去り、幻覚のように曖昧だったが、その度に悠馬の心臓は不規則に脈打った。
そして、何よりも悠馬を不安にさせたのは、自身の記憶の曖昧化だった。前日の夕食の内容、つい先日、楽しみにしていた映画のタイトル、幼い頃に飼っていた犬の名前――それらはまるで、少しずつ霧の中に溶けていくように、輪郭を失っていった。特に、楽しかったはずの過去の記憶が薄れていくのが、悠馬には耐え難かった。漠然とした喪失感に、悠馬はしばしば呆然とした。
ある雨の日、アトリエで絵を描いていた朔の姿を、悠馬はそっと覗き込んだ。朔が描いていたのは、懐かしさを感じさせる、古い庭のある家だった。しかし、その絵の中には、二つの人影が描かれていたはずなのに、朔は鉛筆で一方の人影を消し去るように修正していた。その手つきはどこか焦燥じみていて、まるで何かから逃れるかのように見えた。
「朔、その絵……」
悠馬が声をかけると、朔は驚いたように振り返り、スケッチブックを慌てて閉じた。その顔はひどく青ざめていて、額には冷や汗が滲んでいた。
「なんでもない。ただの失敗作だ」
朔はそう言って、震える手でスケッチブックを抱きしめた。その態度に、悠馬は違和感を覚えた。朔が何かを隠している。しかも、それは悠馬の記憶の曖昧化と、無関係ではないような気がした。
その夜、朔は高熱を出して倒れた。悠馬は慌てて朔を自分のアパートに運び込み、看病した。額に触れると、尋常ではない熱気が伝わってくる。その熱にうなされながら、朔は苦しげに何かを呟いていた。「ごめん……忘れて……」その言葉が、悠馬の耳に痛いほど響いた。悠馬の心臓が、不安と恐怖で激しく鳴り響いた。友情が深まるほどに、朔の体調は悪化し、悠馬の記憶は薄れていく。この奇妙な連鎖は、一体何を意味するのだろうか。
***第三章 境界の真実***
朔の体調は、悠馬の献身的な看病にもかかわらず、一向に回復の兆しを見せなかった。意識を失った朔を抱え、悠馬は近くの病院へと駆け込んだ。しかし、医師は首をかしげるばかりだった。「物理的な異常は見られない。精神的なものか、あるいは非常に稀な神経系の疾患かもしれません」悠馬は途方に暮れた。朔の苦しむ姿を見るのは、悠馬にとって何よりも辛いことだった。
数日後、病室で意識を取り戻した朔は、悠馬の手を固く握りしめた。その手は、冷たく、そして震えていた。
「悠馬……ごめん、本当にごめん」
朔は涙を流しながら、断片的に語り始めた。
「僕の体質は、触れた人の記憶を吸い取ってしまうんだ。特に、誰かの心の傷が深いと、それが増幅する。だから、人との接触を避けていた。でも、悠馬と出会って、君の優しさに触れて、僕は……僕は君との友情を求めてしまった」
朔は、自分の体質が悠馬の記憶を侵食し始めたことに気づき、苦悩していたと告白した。そして、その力の暴走が自身の体を蝕んでいるのだと。
悠馬は衝撃を受けた。自分の記憶が薄れていた原因が、朔にあったなんて。しかし、不思議と怒りの感情は湧かなかった。ただ、朔の苦しみへの同情と、自分を蝕んでまで友情を求めた朔の孤独に、胸が締め付けられた。
朔が話している間、悠馬の視線は、病室の片隅に置かれた朔のスケッチブックに吸い寄せられていた。表紙は古く、何度も使い込まれて擦り切れている。中に何が描かれているのか、見たい衝動を抑えきれず、悠馬は朔に断ってそれを開いた。
最初のページには、見慣れた、だが今はもう朧気な、あの庭のある家の絵が描かれていた。その庭の片隅には、悠馬がアルバムで見た、あのゴールデンレトリバーが楽しそうに駆け回っている。そして、その犬の横には、幼い頃の自分と、もう一人、幼い朔の姿が描かれていた。二人は手を取り合い、満面の笑みを浮かべている。
その瞬間、悠馬の脳裏に、まるで凍りついていた川が解けるように、鮮明な記憶が流れ込んできた。
朔は、悠馬の幼馴染だった。
あのゴールデンレトリバーは、「コタロウ」。二人が秘密基地で遊んでいた帰り道、コタロウが飛び出して車に轢かれた事故があった。その時、悠馬はコタロウに駆け寄ろうとして、朔が咄嗟に悠馬の腕を掴んで引き戻した。その瞬間、朔の体質が暴走し、コタロウの死の悲しみと、悠馬の罪悪感が朔の身体に流れ込んだ。朔は記憶を吸い取ってしまったのだ。そのショックで、朔は記憶を操作して悠馬から自分に関する記憶を消し去り、悠馬の前から姿を消した。朔は自身の能力が悠馬を傷つけることを恐れ、孤独を選んだのだ。
悠馬が最近記憶を失っていたのは、朔の能力が再び暴走し、悠馬から「朔との出会いの記憶」を、まるで二度目の自己防衛のように吸い取っていたからだった。そして、朔が悠馬に近づいたのは、再び悠馬を蝕み始めた自分の力を制御するため、そして、残された時間を、ただ一人、記憶を共有できる悠馬と共に過ごすためだったのだ。
驚くべき真実が、悠馬の価値観の根底を揺るがした。「友情」という、最も純粋で美しいはずの感情が、こんなにも残酷な代償を伴うとは。自分が今朔と育んでいる絆は、朔の苦しみの上に成り立っているのか?そして、自分の記憶が失われていくことを知りながら、朔は再び自分に近づいた。その朔の孤独と、悠馬への想い。それは、悠馬の心を激しく揺さぶった。友情とは何か。真実とは何か。自己犠牲の果てに、何が残るのだろうか。
***第四章 記憶の庭園を越えて***
病室の窓から差し込む夕陽が、悠馬と朔の顔を赤く染めていた。真実を知った悠馬は、混乱と同時に、深く心が痛んだ。朔の孤独、そして彼が背負ってきた重荷を思うと、言葉にならない感情が込み上げてくる。
「なぜ、もっと早く言ってくれなかったんだ」悠馬の声は、震えていた。
朔はうつむき、何も言えない。その肩は小さく震えていた。
「でも、わかったよ、朔」悠馬は震える手で、朔の冷たい手を握りしめた。「君がどれだけ苦しんできたか。そして、それでも僕との友情を求めてくれたこと、嬉しい」
朔の特異体質は、心の傷と深く結びついていた。過去の孤独と罪悪感が、その能力を増幅させていたのだ。朔が自分自身の失われた記憶、あるいは、悠馬から吸い取ってしまった悠馬の記憶の一部を「返還」することで、均衡を取り戻せるかもしれない――医師と相談し、専門の文献を調べた悠馬は、一つの仮説にたどり着いた。それは、朔自身の内なる治癒を促すための、最も困難な道だった。
悠馬は朔に、過去の傷と向き合うことを提案した。
「たとえ、僕の記憶が全て戻らなくても、いや、たとえ僕が君との出会いを再び忘れてしまうとしても、心で感じる君との絆だけは失わない。だから、一緒に過去を辿ろう。君が抱えている孤独を、僕が受け止めるから」
悠馬の言葉に、朔の瞳から再び涙が溢れ出した。それは悲しみの涙ではなく、ようやく孤独から解放された安堵の涙のように見えた。
二人は、朔がかつて住んでいたという、あの古い庭のある家へと向かった。そこは、長い間手入れされず、荒れ果てた庭園になっていた。雑草が生い茂り、蔦が壁を覆い尽くしていたが、悠馬の記憶の中の、あの光景と重なる。
二人は一緒に、荒れた庭の草を刈り、朽ちた門を直した。かつてコタロウが駆け回っていた場所を探し、幼い頃に二人で隠した「秘密の宝物」を掘り起こした。それは、悠馬と朔が描いた、下手な絵が挟まれた小さな貝殻の箱だった。その絵には、無邪気に笑う二人の姿と、それを見守るコタロウが描かれていた。
その日暮れ、夕陽が庭園全体を黄金色に染める中、朔は悠馬から吸い取った記憶と、自身の奥底に眠っていた記憶が融合していくのを感じた。コタロウとの別れ、そして悠馬の前から姿を消した時の、痛みと後悔。それら全てが、鮮明な色彩を帯びて蘇った。
その瞬間、朔の能力は一時的に安定した。悠馬から吸い取っていた記憶の一部が、まるで光の粒子のように、ゆっくりと悠馬の脳裏へと戻っていくのを感じた。全てが戻ったわけではなかったが、朔との再会、そして二人が育んだ新しい友情の記憶は、鮮明に悠馬の心に残った。
朔の能力は完全に消えたわけではない。しかし、過去の傷が癒え、悠馬というかけがえのない友を得たことで、彼はその力をコントロールできるようになった。人との接触を恐れることはもうない。
二人は再び、絵を描き始めた。朔のキャンバスには、ようやく人が描かれるようになった。それは、悠馬の横顔だったり、あるいは、楽しそうに笑い合う幼い子供たちの姿だったりした。
悠馬は、自分の記憶が全て戻ったわけではないことを知っていた。幼い頃のコタロウの名前は、まだ曖昧なままだ。しかし、記憶は移ろいやすいものだが、心で感じる絆は永遠であるという真実を知った。
悠馬は朔の手を握る。その手からは、もう記憶の断片は流れてこない。代わりに、温かい友情の鼓動だけが、力強く伝わってくる。
「また一緒に絵を描こう、朔」
「うん、悠馬」
彼らの友情は、記憶の彼方からやってきた、唯一無二の、そして永遠に続く物語になった。荒れ果てた忘却の庭園は、今、二人の手によって、新しい記憶と希望に満ちた場所へと生まれ変わっていた。
忘却の庭園
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