選ばれなかった日々の花

選ばれなかった日々の花

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***第一章 響く透明な幻***

午前八時。朔太郎は、いつものように満員電車に揺られていた。鉄と汗と香水の混じった、都会特有の混濁した匂いが鼻腔をくすぐる。その中で、彼だけにしか感じられない、甘くもどこか寂しい「花の香り」が微かに漂っていた。そして、耳の奥では、まるでガラスの破片が触れ合うような、澄み切った「透明な音」が、静かに、しかし確かに響いている。

朔太郎にとって、それは幼い頃から当たり前の感覚だった。誰に話しても「疲れているんじゃないか」「気のせいだよ」と一笑に付されるだけ。だから、彼はいつしかそれを、自分だけの秘密の幻として心に閉じ込めるようになった。幻の音と香り。それはまるで、遠い記憶の残響か、あるいはまだ見ぬ世界の囁きか。彼はその正体を知りたかったが、同時に、これ以上踏み込めば何かが壊れるような、漠然とした恐怖も抱いていた。

職場に着き、コーヒーを淹れる。挽きたての豆の香りがフロアに広がるが、朔太郎の鼻には、相変わらずあの甘く寂しい花の香りが微かに混じっている。彼の席は窓際だ。高層ビル群の隙間から差し込む朝日は、無機質なオフィスを鈍く照らし出す。今日の仕事は、クライアントへのプレゼン資料作成。集中力を要する作業だ。

キーボードを叩く指先は、正確に、しかしどこか生気がなかった。朔太郎は、この数日、あの「幻」が現実世界に侵食してきているような気がしてならなかった。最初は些細なことだった。駅のホームで、見慣れないはずの種類の花びらが足元に落ちているのを見つけた。それは、彼の幻の香りを放つ花と酷似していた。風もないのに、突然、オフィスの無機質な空間でその花の香りが強くなったこともあった。同僚たちは誰一人として気づかない。誰もが平然と仕事に没頭している中で、朔太郎だけが、その異変に戦慄していた。

昼休み、屋上庭園でサンドイッチを頬張る。都会の喧騒が遠く聞こえる。目を閉じると、透明な音と、甘く寂しい花の香りが一層鮮明になった。まるで、そこに「何か」があるかのようだ。
「…まさか、実体があるのか?」
朔太郎は独りごちた。しかし、目を開ければ、そこにあるのは無機質なコンクリートと、見慣れた一般的な植物ばかり。幻は幻のまま。

しかし、その日の夕方、朔太郎は決定的な体験をした。
プレゼン資料が完成し、最終チェックを終えたときだった。彼のデスクの上、普段なら何もないはずの空間に、突如として、まるでそこに根を張るかのように、一本の白い花が咲いていたのだ。それは、彼が幼い頃から嗅ぎ続けてきた、あの甘くも寂しい香りを放っていた。茎は細く、花弁は幾重にも重なり、光を透過するような繊細さ。この世のどの花とも似ていない、しかしなぜか強烈な既視感を覚える、不思議な花だった。
隣の席の同僚は、その花にまったく気づいていない。朔太郎の視線が集中しているのは、あくまでパソコンの画面だと思っているようだった。
朔太郎は震える手で、その幻の花に触れようとした。指先が、透き通るような花弁に触れる寸前。ふっと、花は淡い光を放ち、まるで最初から何もなかったかのように消え去った。
残されたのは、彼の指先にまとわりつく、甘くも寂しい花の香りだけだった。
朔太郎の日常は、確実に、音を立てて崩れ始めていた。

***第二章 記憶の残響を追う***

幻の花が消えた後も、朔太郎の手のひらには、まるで花弁の感触が残っているかのような微かな震えが続いていた。あれは幻覚だったのか、それとも現実だったのか。彼の理性は混乱し、しかし、心はあの花が確かに存在したことを強く訴えかけていた。あの花は、何かのメッセージを彼に伝えようとしている。そう直感した。

朔太郎は、幻の音と匂いの正体を探るべく、過去の記憶を遡ることを決意した。まず手始めに、実家へ帰省した際、彼の部屋に眠っていた古いアルバムや日記を引っ張り出した。
埃っぽい空気の中、ページを捲る。幼い頃の自分の写真、家族旅行の思い出、そして、親友だった詩織との写真が次々と現れた。詩織は、朔太郎が小学四年生の時に交通事故で亡くなった女の子だ。明るくて、いつも笑顔で、小さな花を大切にする子だった。彼女の死は、朔太郎の心に深い傷を残し、以来、彼はどこか感情を抑え込むようになった。

アルバムの中の詩織は、無邪気に笑っていた。その笑顔を見るたび、朔太郎の耳元に、あの透明な音が微かに響く。写真の隅には、詩織が大切に育てていた小さな鉢植えが写っていることもあった。しかし、それはどこにでもあるような、ごく普通の草花だった。あの幻の花とは似ても似つかない。

さらに日記を読み進める。幼い字で書かれた、たどたどしい文章。
『きょう、しおりちゃんと、ひみつきちをつくったよ。大きくなったら、そこに、ふたりだけの花を植えようねってやくそくした。どんな花がいいかなあ。』
『しおりちゃんは、このせかいにない、とくべつな花がいいって言ってた。ぼくは、しおりちゃんがえらぶなら、なんでもいいよって言った。』
日記の記述はそこで途切れていた。詩織が亡くなる、ほんの数日前のことだった。

朔太郎の脳裏に、古い記憶が蘇る。あの透明な音は、詩織がいつも口ずさんでいた、メロディーのない鼻歌のようなものだった。そして、あの花の香りは、詩織がいつもつけていた、あの頃流行っていた安物の花の香りの石鹸の匂いに似ている。いや、正確には、石鹸の匂いではなく、もっと純粋で、しかしどこか儚げな、彼女の「想い」が具現化したような匂いだ。
もしかしたら、あの幻は、詩織の、そして自分の「約束」が形になったものなのではないか。

朔太郎は、古い家の地図を引っ張り出し、詩織との秘密基地の場所を探した。そこは、今ではすっかり空き地になってしまっているが、彼らの思い出が詰まった場所だった。彼は翌日、会社を休むことを決めた。そして、その空き地へと向かった。

冷たい風が吹き抜ける、がらんとした空き地。かつて彼らが秘密基地を作った場所は、今では雑草が生い茂り、当時の面影はほとんど残っていなかった。それでも、朔太郎の足は、自然とある一角へと引き寄せられた。
そこは、幼い詩織が「ここに花を植えたい」と言って、小さなシャベルで土を掘り、ささやかな花壇を作ろうとしていた場所だった。朔太郎は、その場所を見つめていると、彼の耳に響く透明な音と、鼻腔をくすぐる花の香りが、まるで目の前に幻の花が咲き乱れているかのように強くなった。
朔太郎は、その場所で、しゃがみ込んだ。土に触れる。冷たく湿った土の感触。
そして、その時、彼の指先が、土の中に埋もれていた、硬いものに触れた。

***第三章 選ばれなかった未来***

土の中から現れたのは、小さな、しかしずっしりとした石だった。表面には苔が生え、長い年月を感じさせる。朔太郎は、その苔を拭い取った。すると、石には幼い筆跡で「朔太郎」と「詩織」という二つの名前が彫られているのが見えた。そして、その隣には、つぼみを付けた、小さな花の絵が彫り込まれていた。まさに、あの幻の花にそっくりな絵だった。

石に触れた瞬間、朔太郎の視界は、眩い光に包まれた。そして、途方もない速度で、過去の記憶が脳裏を駆け巡り始めた。
それは、詩織が交通事故で亡くなった日のことだった。
彼は鮮明に思い出した。あの日、二人は秘密基地で遊んでいた。日が暮れて、朔太郎は詩織を家に送っていくことになっていた。いつもの帰り道。角を曲がった先に、詩織が大好きだったケーキ屋があった。
「ねえ、朔太郎!今日だけ、あのケーキ屋さん、寄り道しない?」
詩織が、いつものキラキラした笑顔で朔太郎に尋ねた。朔太郎は少し迷った。母親には、寄り道せずに真っ直ぐ帰るように言われていたからだ。
「だめだよ、お母さんに怒られちゃう」
朔太郎は答えた。
「ええー!ちょっとだけだよ?朔太郎もあのケーキ好きでしょ?」
詩織が食い下がった。
朔太郎は、その時、別の選択肢を選ぼうとしていた。もう一度だけ、詩織の満面の笑顔が見たかったから。
「…うん、じゃあ、ちょっとだけ、ね」
そう言いかけた、その瞬間。遠くから、けたたましい車のブレーキ音が聞こえた。
朔太郎は、ハッと顔を上げた。直感的に、何か恐ろしいことが起こっていると悟った。
「詩織!」
朔太郎は詩織の手を掴み、そのままいつもの帰り道から逸れて、別の脇道に引き込んだ。彼は、あのブレーキ音の方向から詩織を引き離そうとしたのだ。

フラッシュバックはそこで途切れた。
しかし、朔太郎は悟った。あの時、自分が引き止めていなければ、詩織はあのケーキ屋へ向かっていただろう。そして、あの事故に巻き込まれていた。だが、彼が詩織を引き止めたことで、詩織は「別の場所」で事故に遭い、命を落としたのだ。
朔太郎は、あの時、自分の直感に従って詩織を脇道に引っ張った。それは、結果的に詩織の命を救う行為ではなかった。ただ、事故が起こる場所を「変えた」だけだった。
あの事故は、朔太郎が寄り道を拒否したことで、結果的に詩織が一人でケーキ屋に向かい、事故に遭った、と両親から聞かされていた。それが、彼の記憶の「現実」だった。
しかし、今、フラッシュバックが示したのは、違う。
朔太郎が「寄り道を拒否しなかった」場合の未来。
「うん、じゃあ、ちょっとだけ、ね」
もし、朔太郎がその言葉を選んでいたら、詩織はケーキ屋へ向かい、事故に遭うことはなかった。
朔太郎は、自分が事故の直前に、無意識に「別の選択」をしていたことを知った。そして、その「選ばなかった選択肢」こそが、詩織が生き永らえた未来だったのだ。
彼の心に、衝撃が走った。自分は、詩織の命を救うどころか、無意識のうちに「事故が起きる選択肢」を選び、そして、その罪悪感を「自分は寄り道を拒否したから」という記憶にすり替えて、長年生きてきたのだ。

彼の周りに、あの透明な音が激しく響き渡る。まるで、無数のガラスが砕ける音のようだ。そして、あの甘くも寂しい花の香りが、あたり一面に充満した。空き地の土から、白い茎がすっと伸び、一輪、また一輪と、あの幻の花が咲き誇り始めたのだ。無数の花が、風もないのに揺れ、光を放っている。それは、朔太郎が「選ばなかった日常」で、詩織と二人で育てていたはずの花々だった。
彼が長年幻だと思っていたもの。それは、彼が「選ばなかった日常」の、もう一つの世界から漏れ出た、詩織の「生きていた証」だったのだ。
あの音は、詩織が彼が生きる世界で、彼に気づいてほしくて鳴らしていた、声なき声。
あの香りは、詩織が彼が生きる世界で、彼の隣で生きていたかった、想いの香り。
朔太郎の価値観は、根底から揺らいだ。彼は、自分の選択によって、詩織の、そして自分の未来を捻じ曲げていた。その深い罪悪感と、途方もない悲しみが、彼を襲った。

***第四章 散りゆく日々の花***

朔太郎の目の前には、白く輝く無数の花々が、幻想的な光景を作り出していた。それは美しく、しかし、あまりにも切ない光景だった。彼が選び損ねた未来。詩織が生き、共に花を育て、共に成長したはずの日常。そのすべてが、この「幻の花」として、今、目の前に具現化していた。

朔太郎は、その花の一つにそっと触れた。ひんやりとした、しかし確かな感触。彼は、指先から伝わるその感触を通して、詩織の温かさ、彼女の笑顔、そして、もしもの未来で分かち合っていたであろう、すべての喜びと悲しみを感じ取った。
透明な音は、今、彼を包み込むように優しく響いている。それは、もはや悲しみの音ではない。まるで、「大丈夫だよ」と語りかけるような、穏やかな音色に変わっていた。

朔太郎は、とめどなく溢れる涙を拭いもせず、ただただ、その光景の中に身を置いていた。彼はずっと、詩織の死を自分のせいだと責め続けていた。あの時、寄り道しなければ、あの時、別の道を選ばなければ。しかし、彼は今、自分が選んだ道、選ばなかった道、どちらに進んだとしても、詩織の死は避けられない「運命」であったのかもしれない、ということに気づき始めていた。あるいは、自分が無意識に選んだ「その選択」が、たまたまその結果を招いただけなのかもしれない。
どちらにしても、彼の罪悪感は、深い悲しみと、そして、詩織への尽きせぬ愛情へと姿を変えていった。

どれほどの時間が経っただろうか。
空き地に吹き抜ける風が、少しだけ強くなった。
すると、白く輝く幻の花びらが、ハラハラと舞い散り始めた。まるで、時が満ちたかのように、光の粒子となって、大気の中に溶けていく。
朔太郎は、ただ静かに、その散りゆく花々を見つめていた。花びらが一つ、また一つと消えていくたびに、彼の心の中に長年こびりついていた重い鎖が、ゆっくりと解かれていくのを感じた。
透明な音も、次第に静かになっていく。最後の一輪が消え去った時、音も、香りも、完全に消え去った。

残されたのは、朔太郎が手にした、詩織との約束の石だけだった。その石は、もう幻の花を映し出すことはない。ただ、朔太郎と詩織の、確かな絆を刻んだ証として、彼の手のひらに温かく残っていた。
朔太郎は、深い呼吸をした。新鮮な空気が、彼の肺を満たす。それは、これまでの人生で感じたことのないほど、清々しく、そして、生気に満ちた空気だった。
幻は消えた。しかし、詩織との記憶は、もはや彼の心の奥底に封じ込められた「罪悪感」や「後悔」としてではなく、彼の一部として、温かい光として息づいていることを知った。

朔太郎は、立ち上がった。空を見上げる。青い空はどこまでも高く、白い雲がゆっくりと流れていた。
彼の日常は、何も変わらないように見えるだろう。しかし、彼の内面は、大きく変化していた。過去の選択に囚われ、幻に苦しめられていた彼は、今、この現実の日常を、新たな視点で見つめられるようになっていた。
幻の花が教えてくれたのは、失われた過去への執着ではなく、今生きているこの瞬間を大切にすること、そして、未来へと歩みを進める勇気だった。
彼は、ポケットに石をしまい、再び会社へと向かう道を歩き始めた。足取りは、以前よりもずっと軽やかだった。
ふと、彼は立ち止まる。道の脇に、小さな名もなき花が咲いていた。その花は、彼がこれまでの人生で、一度も意識して見たことのなかった花だ。
朔太郎は、その花に、少しだけ笑いかけた。
そして、今度こそ、彼は未来へと、一歩を踏み出した。
彼の心には、透明な音と、甘く寂しい花の香りはもうない。しかし、その代わりに、詩織との温かい記憶と、今を生きる確かな生命の息吹が宿っていた。
これからの彼の日常は、きっと、もっと豊かで、もっと色鮮やかなものになるだろう。

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