沈黙の彩り

沈黙の彩り

0 5235 文字 読了目安: 約10分
文字サイズ:

第一章 無色の男

水野奏の世界は、常に色で溢れていた。それは比喩ではない。彼女にとって音とは、視覚情報と分かち難く結びついた、具体的な色彩を持つ現象だった。同僚の軽やかなキーボードの打鍵音は、春の若葉のような黄緑色の粒子となって舞い、ページをめくる乾いた音は、砂色のさざ波のように広がる。彼女が司書として働くこの静かな図書館でさえ、音の色彩から逃れることはできなかった。

この特殊な共感覚は、奏に世界を豊かに見せる一方で、彼女を人との間に見えない壁を築かせた。人の声は、感情の機微をあまりにも明け透けに映し出す。喜びは輝く金色に、悲しみは滲む藍色に。そして、嘘や悪意は、ヘドロのような濁った茶色や、神経を逆撫でするどす黒い赤色となって、彼女の視界を汚した。その色の暴力に耐えきれず、奏は次第に人との深い関わりを避けるようになり、言葉の少ない、静かな日常だけを愛するようになっていた。

そんな彼女の平穏な日常に、小さな、しかし無視できない染みが生まれたのは、初夏の気配が漂い始めたある日の午後だった。一人の老人が、ふらりと図書館に現れたのだ。歳の頃は七十代後半だろうか。背筋は伸びているが、その歩みはひどくゆっくりで、まるで時間を惜しむかのように一歩一歩を踏みしめていた。

奇妙なのは、彼の周りだけが、完全に「無色」だったことだ。

革靴が床を打つ硬質な音も、古びたツイードジャケットが擦れる微かな音も、確かに奏の耳には届いている。しかし、彼女の視界には何の色も映らない。それは静寂とは違う。音が存在しているにもかかわらず、色が生まれない。まるで、彼の存在そのものが、世界の色彩法則から逸脱しているかのようだった。

老人は、窓際の一番奥の席に腰を下ろすと、鞄から本を一冊取り出した。しかし、彼はその本を開くことなく、ただ窓の外を流れる雲や、風に揺れるケヤキの葉をじっと眺めている。その日から毎日、老人は同じ時間に現れ、同じ席に座り、何もせずに一時間ほど過ごして帰っていくようになった。

彼の周りに広がる無色の領域は、奏の心をかき乱した。それは、彼女がこれまで拠り所にしてきた世界のルールが、根底から覆されるような感覚だった。色に満ちた世界の中で、その男の周りだけがぽっかりと空いた穴のように、ただ透明に存在している。奏はカウンターの向こうから、その不可解な空白を、まるで解けない謎を睨むように見つめ続けるしかなかった。

第二章 色彩の壁と透明な空白

老人が日課のように通い始めてから、二週間が過ぎた。奏の日常は、彼という名の静かな異物によって、確実に侵食されていた。彼女の心は、好奇心と、得体の知れないものへの畏怖との間で揺れ動いていた。

奏は、自分の能力を呪わしく思うことが多かった。他人の感情の色が、望みもしないのに流れ込んでくる。友人の励ましの言葉に混じる憐憫の薄紫色。恋人の愛の囁きに潜む自己満足の油ぎった黄色。それらの色を見るたびに、彼女は傷つき、心を閉ざしてきた。だからこそ、この図書館の、言葉少なで抑制された音の世界は、彼女にとって唯一の聖域だったのだ。本が発する音は嘘をつかない。紙の囁きは、ただ純粋な物語の色をしていた。

しかし、あの老人はどうだ。彼が発する音には、何の感情も、物語も、色も乗っていない。まるで、音の魂だけが抜き取られてしまったかのように、空っぽだった。奏は、彼に話しかけてみたいという衝動に駆られた。彼の声は、一体どんな色をしているのだろう。あるいは、彼の声さえもが無色なのだろうか。

だが、足が動かなかった。彼の周りを漂う無色の空気は、まるで強力な斥力を持つ結界のように、奏を押し返すのだ。皮肉なことだった。普段、彼女は他人との間に「色の壁」を感じ、自ら距離を置いていた。しかし、この老人との間には、色がないことによって、より厚く、より不可侵な壁が存在しているように感じられた。

ある日の午後、珍しく図書館が混み合い、様々な色の音が飛び交っていた。子供のはしゃぐオレンジ色の声、学生たちのひそひそ話が織りなす紫色のグラデーション、そして調べ物に行き詰まった男性の焦燥感が滲む赤黒い溜息。色の洪水に眩暈を覚えながら、奏は無意識に窓際の老人へと視線を送った。

彼は、いつものように静かに座っていた。周囲の喧騒などまるで存在しないかのように、彼の周りだけがしんと静まり返った無色の空間を保っている。その姿は、荒れ狂う嵐の中の、凪いだ瞳のようにも見えた。その瞬間、奏はふと思った。もしかしたら、彼は自分と同じように、この音の洪水から逃れるために、ここにいるのではないだろうか。彼もまた、自分だけの聖域を求めているのではないか。

その考えは、彼女の中に小さな共感の灯をともした。壁の向こう側にいるかもしれない、もう一人の自分。奏は、カウンターの縁を固く握りしめた。明日こそは、この透明な壁を越えてみよう。たとえ、その先に何が待っていようとも。彼女は、自分の日常が変わり始める予感を、胸の奥にかすかな熱として感じていた。

第三章 沈黙の交響曲

翌日、奏は朝から落ち着かなかった。カウンターに立つ彼女の心臓は、時を告げる古時計の振り子のように、不安と期待の間で大きく揺れていた。午後三時。いつものように、図書館の重い扉がゆっくりと開き、老人が姿を現した。彼の足音は、今日も色を持たなかった。

老人がいつもの席に着くのを見届けると、奏は深呼吸を一つした。指先が冷たい。彼女はカウンターを出て、軋む床に注意しながら、ゆっくりと彼の席へと向かった。一歩近づくごとに、彼の周りの無色の領域が濃くなっていくような錯覚に陥る。それはまるで、真空地帯に足を踏み入れるような感覚だった。

「あの……」

声が震えた。老人は、ゆっくりと窓の外から視線を外し、奏の方を向いた。穏やかだが、何も映していないように見える瞳だった。

「いつも、ご利用ありがとうございます。何かお探しのものでもございますか?」

ありきたりの、司書としての言葉しか出てこない。老人は少し驚いたように目を瞬かせると、ふっと口元を緩めた。そして、彼の唇から、静かな声が紡がれた。

「いや。私は、探し物をしているわけではないのです。ただ、聴いているのですよ」

その声が発せられた瞬間、奏は息を呑んだ。

彼の声は、色を持っていた。

それは、夜明け前の空のような、深く、静かで、どこまでも澄み切った藍色だった。嘘も、飾りも、何もない、ただ純粋な響き。その藍色の粒子が、奏の周りに広がる無色の空間を、優しく満たしていく。

「聴いている……ですか?」

「ええ」と老人は頷いた。「この世界の、沈黙の音楽をね」

奏は混乱した。沈黙に、音楽があるというのだろうか。

彼女の戸惑いを察したように、老人は続けた。

「私は、昔、作曲家をしていました。しかし、ある事故でね、この耳がほとんど聴こえなくなってしまったのです」

彼は、そう言って自身の耳を指差した。その仕草には、悲壮感のかけらもなかった。

「音を失った当初は、絶望しました。私の世界から、音楽が消えてしまったのですから。しかし、ある時気づいたのです。音がないのではない。私が聴こうとしていなかっただけなのだと」

老人の藍色の声が、奏の心に深く染み込んでいく。

「私は、心の耳で聴くことを覚えました。人々が発する音の裏側にあるもの……その言葉と言葉の『間』、呼吸の揺らぎ、気配、その場の空気。それら全てが、私にとっては美しい楽譜なのです。この図書館は、特に素晴らしい。たくさんの想いが、声にならない音となって、静かな交響曲を奏でている」

その言葉は、雷のように奏を撃ち抜いた。

価値観が、ガラガラと音を立てて崩れ落ちていく。

奏は、震える声で、ずっと胸の内に秘めていた秘密を打ち明けた。

「私……私、音を色として見ているんです。あなたの周りだけが、ずっと無色に見えていました。だから、不思議で……」

老人は、初めて心からの笑みを浮かべた。その笑顔は、藍色の声に、温かな橙色の光を灯した。

「そうか。そうだったのか。君は、私が見つけられなかった音の『形』を見ていたんだね」

彼は、優しい眼差しで奏を見つめた。

「私の周りが無色に見えたのは、当然かもしれん。君のその素晴らしい目は、きっと『音』そのものに反応するのだろう。だが、私が聴いているのは、音ではない。音と音の狭間にある、『沈黙』なのだから」

沈黙。

奏の世界には存在しなかった概念だった。彼女にとって世界は、色を持つ音か、何もない無かのどちらかでしかなかった。しかし、この老人は、その無の中に、豊かな音楽を見出していたのだ。

彼が無色だったのは、彼が空っぽだったからではない。むしろ、誰よりも豊かなものを、その静寂の中に抱いていたからだった。音の色に振り回され、人との関わりを恐れてきた自分。音の有無や色彩に囚われ、その間にある大切なもの、声にならない想い、沈黙の雄弁さを見過ごしてきた自分。その愚かさに、奏は気づかされた。

目の前に広がる無色の空間は、もはや恐怖の対象ではなかった。それは、無限の可能性を秘めた、神聖なカンバスのように見えた。

第四章 あなたが遺した色彩

老人――高村と名乗った作曲家との出会いは、奏の世界を根底から変えた。彼女は、高村が図書館を訪れるのを、心待ちにするようになった。彼との対話は、いつも静かで、短いものだった。しかし、彼の発する藍色の声と、その周りに広がる透明な沈黙は、奏に新しい世界の捉え方を教えてくれた。

彼女は、自分の能力を違った角度から見つめ直せるようになっていた。同僚の愚痴っぽい声が、不快な焦げ茶色に見えても、その色の奥に、疲労を示すくすんだ灰色や、誰かに気づいてほしいと願う寂しさの淡い水色を見つけようと努めるようになった。色の洪水は相変わらずだったが、それはもはや苦痛ではなく、世界がいかに多様な感情で満ちているかを示す、豊かなパレットのように感じられた。そして何より、彼女は色のない「沈黙」にも、豊かな意味と温かさがあることを知ったのだ。

しかし、その穏やかな日々は、唐突に終わりを告げた。

秋風が図書館の窓を揺らすようになったある日、高村は現れなかった。次の日も、その次の日も、彼の席は空いたままだった。言いようのない不安が、冷たい霧のように奏の心を包み込んでいく。

一週間が過ぎた雨の日。一人の女性が、カウンターの奏を訪ねてきた。歳の頃は四十代だろうか。高村によく似た、穏やかな目をした人だった。

「水野奏さん、でいらっしゃいますか」

「はい……」

「父が、いつもお世話になっておりました。私は、高村の娘です」

女性は深く頭を下げた。彼女の声は、悲しみを湛えた優しい藤色をしていた。

「父は、先日、眠るようにして参りました。生前、これをあなたに渡すようにと……。父は、あなたのことを『沈黙に色を与えてくれた友人だ』と、嬉しそうに話しておりました」

女性から手渡されたのは、少し厚みのある封筒だった。奏は、震える手でそれを受け取った。ありがとう、という言葉が、うまく声にならなかった。

女性が帰った後、奏は一人、窓際の、今はもう主のいない席に座った。封筒を開けると、中から出てきたのは一枚の楽譜だった。鉛筆で書かれた、手書きの楽譜。

そのタイトルを見て、奏の目から涙が溢れ落ちた。

『沈黙の彩り』

彼女が楽譜を広げると、不思議なことが起きた。一つ一つの音符が、五線譜の上で、まるで生きているかのように様々な色を帯びて輝き始めたのだ。優しい旋律は若葉色に、力強い和音は茜色に、そして切ない調べは、彼が教えてくれた藍色に。それは、高村が心の耳で聴いていた世界の音楽であり、音を失った彼が、奏という友を得て初めて見ることができた色彩の交響曲だった。彼が奏に遺した、最後のメッセージだった。

涙で滲む視界の中で、楽譜の色は混じり合い、美しい虹を描いた。奏は、その楽譜を胸に抱きしめた。

季節は巡り、冬が訪れた。図書館の窓辺に立った奏は、静かに降りしきる雪を眺めていた。雪が地面に積もる音は、ほとんどしない。世界は、限りなく白く、静かだ。

かつての彼女なら、この色のない静寂に不安を覚えたかもしれない。

しかし、今の彼女には、聴こえていた。見えていた。

しんしんと降る雪の、その一粒一粒の間に存在する、透明で、清らかで、豊かな沈黙の音色を。それは、高村が教えてくれた、世界で最も美しい音楽だった。

彼女の世界は、以前よりもずっと広く、深く、そして優しくなっていた。奏は、そっと目を閉じ、心の中に響く「沈黙の彩り」に、静かに耳を澄ませた。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る