第一章 砕けた虹の欠片
夜明けの光が、部屋の埃を金色に染め上げていた。僕、リヒトはベッドから身を起こし、いつもの習慣で枕元の小箱に手を伸ばした。中には、たった一つだけ、宝物が入っている。親友のカイと交換した「記憶結晶(メモリー・クリスタル)」。僕たちの友情の、揺るぎない証だ。
この世界では、人と人が強い絆で結ばれると、その思い出が体内で結晶化し、体外に排出される。特に、初めて心を通わせた瞬間の記憶は、最も純粋で強い輝きを放つと言われている。僕とカイの結晶は、五年前、彼が転校してきた初日に生まれたものだ。ひとりぼっちだった僕に、太陽のような笑顔で話しかけてくれたあの放課後の光景。その全てが、この掌サイズの虹色の結晶に封じ込められているはずだった。
小箱の蓋を開けた瞬間、息が凍った。
そこにあったのは、完璧な多面体ではなく、見るも無惨に砕け散った光の破片だった。きらきらと輝きを失ったガラス片のように、ただ虚しく転がっている。乾いた鈴が割れるような、甲高い幻聴が耳の奥で響いた。
何が起きたんだ? 昨夜までは、確かにここに、あの温かい光を放つ結晶があった。胸がどきり、と嫌な音を立てる。そして、気づいてしまった。もっと恐ろしい事実に。
カイのことだ。カイの顔は思い出せる。彼の声も、快活な性格も知っている。だが、肝心の「出会った日の記憶」が、まるで分厚い霧に覆われたかのように、すっぽりと抜け落ちているのだ。あの日の高揚感も、彼に向けた最初の感謝の気持ちも、今はもうどこにもない。結晶の崩壊と共に、僕の中から、僕たちの友情の礎が消え去ってしまった。残されたのは、理由のわからない喪失感と、冷たい焦りだけだった。
第二章 不協和音のプリズム
学校へ向かう足取りは、鉛のように重かった。砕けた結晶のことは、カイには言えなかった。友情の証を破壊してしまったなどと、どうして告げられるだろうか。それに、記憶を失ったことを知られれば、彼はどう思うだろう。僕らの友情は、こんなにも脆いものだったのかと、幻滅するに違いない。
「よお、リヒト! 寝癖ついてんぞ」
背後から、太陽の声がした。振り返ると、カイが屈託のない笑顔で僕の髪をくしゃくしゃとかき混ぜる。いつも通りの、彼だ。だが、僕にはその笑顔が、薄い膜を隔てた向こう側にあるように感じられた。
「……ああ、おはよう、カイ」
声がかすれる。彼の顔をまともに見ることができない。僕の中から消えてしまった最初の記憶は、カイの中にはまだ鮮やかに存在しているはずだ。その非対称性が、僕と彼の間に見えない亀裂を作っていく。
その日から、僕は記憶結晶について憑かれたように調べ始めた。図書館の古びた文献を漁り、専門家の論文を読み漁った。分かったことは、結晶は持ち主の精神状態に強く影響されるということ。特に、共有する相手への疑念や不安は、結晶の内部構造に微細な亀裂を生じさせ、輝きを曇らせるらしい。
僕が、カイを疑っていた?
そんなはずはない。だが、胸に手を当ててみると、小さな棘が刺さっていることに気づく。カイは人気者だ。誰にでも優しく、彼の周りにはいつも人が集まっている。僕だけが彼の特別ではないのかもしれない、という黒い感情。それは確かに、僕の中にずっと前から巣食っていた。その小さな嫉妬や孤独感が、僕たちの結晶を蝕んでいたのだろうか。
街を歩けば、恋人や友人たちが交換した結晶をアクセサリーにして身につけているのが目に入る。楽しげな思い出を宿した結晶は暖かなオレンジ色に、穏やかな信頼の記憶は深い青色に輝いている。彼らの結晶は、どれも完璧な形を保っていた。
ふと、僕とカイの結晶が、少しだけいびつな形をしていたことを思い出した。他の誰のものとも違う、わずかな歪み。あれは一体、何だったのだろう。失われた記憶の断片を探すように、僕はカイとの会話の端々から、何か手がかりを得ようと必死になった。だが、カイは何も変わらない。僕が何かを隠していることに気づいているのか、いないのか。彼の変わらない明るさが、逆に僕の心をじりじりと締め付けていった。僕たちの間に流れる空気は、美しいプリズムが奏でるはずの和音ではなく、耳障りな不協和音に満ちていた。
第三章 告白と代償
焦燥感は、やがて僕を限界まで追い詰めた。このままでは、結晶だけでなく、僕たちの関係そのものが塵になってしまう。放課後の誰もいない教室で、僕はついにカイと向き合った。
「カイ……話があるんだ」
僕の硬い声に、カイはいつもの笑顔を消し、静かにこちらを見つめた。僕は震える手で、小箱から砕けた結晶の破片を取り出して見せた。
「ごめん……。僕たちの結晶、砕けちゃったんだ。それに、出会った日の記憶も……思い出せない」
懺悔だった。どんな罵声が飛んできても、軽蔑されても仕方がない。だが、カイの反応は、僕の予想とは全く違っていた。彼は驚きもせず、怒りもせず、ただ、深く、深く悲しそうな瞳で僕を見つめ、ぽつりと言った。
「……やっぱり、ダメだったか。ごめん、リヒト。僕のせいだ」
「え……?」
理解が追いつかない。カイは、僕の手から結晶の破片を受け取ると、そっとそれに触れた。
「リヒトの結晶が砕けたのは、事故じゃない。僕が、壊したんだ」
彼の告白は、僕が築き上げてきた世界のすべてを根底から覆すものだった。
カイには、特殊な才能があった。他人の記憶結晶に宿った負の感情を吸い出し、「修復」する力。多くの人が知らない、ごく稀な能力。友人たちが抱える悲しみや苦しみが彼らの結晶を曇らせるたびに、カイは密かにそれを預かり、浄化していたのだという。
「でも、それには代償がある。僕が吸い出した感情や記憶は、僕の中に流れ込んでくる。友人の悲しみは僕の悲しみになり、僕自身の楽しい記憶は、上書きされて少しずつ薄れていくんだ」
カイがいつも快活でいられたのは、彼が強いからではなかった。彼が、友人たちの痛みを一身に引き受けることで、周りの世界を守っていたからだった。僕が感じていた嫉妬や孤独感は、僕自身の結晶を蝕んでいた。その黒い澱に気づいたカイは、僕に黙って結晶を預かり、修復しようと試みた。
「リヒトの孤独は、僕が今まで引き受けてきた誰の感情よりも、深くて、強かった。僕の力では受け止めきれなくて……浄化の途中で、結晶は耐えきれずに砕けてしまった。君の最初の記憶が消えたのも、そのせいだ。本当に、ごめん……」
言葉を失った。僕が抱えていたちっぽけな劣等感が、彼にどれほどの負担を強いていたのか。僕が友情の証だと思っていた結晶の歪みは、彼が僕の負の感情を引き受けてくれた痕跡だったのだ。彼は、僕の知らないところで、たった一人で、僕たちの友情を守ろうと戦ってくれていた。
涙が溢れて止まらなかった。それは失われた記憶を嘆く涙ではなかった。彼の途方もない優しさと、それに気づけなかった自分の愚かさに対する、後悔と感謝の涙だった。僕はずっと、カイの友情に甘えていただけだったのだ。
第四章 ゼロからの和音
夕陽が教室を赤く染めていた。床に散らばった虹の欠片が、最後の光を反射して物悲しくきらめいている。僕は涙を拭い、カイの前にまっすぐに立った。
「もういいんだ、カイ。もう君一人に背負わせない」
僕の声は、まだ震えていた。でも、その奥には、確かな意志があった。
「記憶がなくたっていい。結晶がなくたっていい。そんなものに頼らなくても、僕たちはまた始められる。ゼロからさ。今度は、僕が君を支える番だ」
カイは驚いたように目を見開き、やがて、その瞳から大粒の涙がこぼれ落ちた。それは、僕が初めて見る、彼の本当の涙だった。彼がずっと自分の中に溜め込んできた、無数の悲しみが、ようやく外へと流れ出した瞬間だったのかもしれない。
僕たちは、どちらからともなく床に膝をつき、砕けた結晶の破片を一つ一つ拾い集めた。それはもはや、完璧な思い出の器ではない。傷だらけで、不完全で、二度と元には戻らない。でも、それでいいと思えた。この欠片こそが、一方的な犠牲の上に成り立っていた脆い関係を乗り越え、互いを支え合うと決めた、僕たちの新しい友情の象徴なのだから。
小箱に戻された破片は、もう虹色には輝かなかった。ただ、夕陽を受けて、温かい琥珀色に静かに光っているだけだ。
帰り道、僕たちは並んで歩いた。まだ少し、会話はぎこちない。失われた記憶の空白が完全に埋まったわけではない。けれど、僕の心は不思議なほど穏やかだった。隣を歩くカイの、少しだけ軽くなったように見える横顔を見つめる。
物理的な記憶の結晶に頼る友情は、終わった。その代わりに、僕の心の中には、もっと確かで、決して砕けることのないものが芽生えていた。それは記憶ではなく、「意志」だった。彼を理解したい、彼の痛みを分かち合いたい、彼の隣に立ち続けたいという、静かで、しかし何よりも強い意志。
僕たちの足元で、二つの影が長く伸びて、やがて一つに重なった。これから僕たちは、どんな和音を奏でていくのだろう。きっと、時には不協和音も生まれるだろう。それでも、二人で音を探し、調律し、新しいハーモニーを創り上げていけばいい。
空っぽになったはずの胸の奥で、ゼロから始まる新しいメロディが、確かに響き始めていた。