琥珀色の回帰
第一章 複製された朝の匂い
いつもの朝だ。カーテンの隙間から差し込む光の角度も、遠くで鳴く鳥の声も、昨日と寸分違わぬ精度で複製されている。俺、リョウの意識は、そんな完璧な静寂の中からゆっくりと浮上する。起き上がると、体にまとわりつく鈍い重みが、今日も「記憶のしわ」が健在であることを告げていた。
このしわは、目には見えない。皮膚に刻まれるのではなく、存在そのものに深く、深く刻み込まれる過去の残滓だ。同じ喫茶店で同じコーヒーを飲むたび、同じ道を歩いて同じ風を感じるたび、経験は薄い層となって折り重なり、俺の思考を、行動を、緩やかに縛りつけていく。もう何年、いや何十年、この一日を繰り返しているのだろうか。
身支度を終え、書斎の小さな机に目をやる。そこに置かれているのは、この世界の誰もが持つ『逆砂時計』。くびれたガラス容器の中で、白銀の粒子が重力に逆らうように、下から上へと静かに舞い上がっている。それは、決して終わることのない「今日」の象徴だ。
だが、今朝は違った。
ガラスの底、舞い上がる銀の砂に混じって、ごく微かな、琥珀色の粒が一つ、沈殿していた。陽光を受けて、蜂蜜のように透き通った光を放っている。瞬きを繰り返し、目を凝らす。見間違いではない。昨日まで、そこには純粋な銀の世界しか存在しなかったはずだ。この完璧にリロードされる世界にあってはならない、異物だった。
第二章 図書館の微かな不協和音
俺の職場は、街の中央図書館だ。古い紙の匂いと、革の装丁が放つ微かな甘い香りが満ちる場所。ページをめくる乾いた音、遠くで誰かが咳払いをする響き、その全てが心地よい眠りを誘う、永遠の午後。
「リョウさん、また難しい顔をしてる」
カウンターの向こうから、同僚のミオがくすくすと笑った。彼女の明るい声は、この停滞した世界における唯一の変光星だ。俺は曖昧に笑って返す。
「いつものことだよ」
いつもの会話。いつもの笑顔。だが、今日はその声の響きに、耳慣れない周波数が混じっているような気がした。彼女の瞳の奥に、いつもとは違う種類の光が揺らめいているように見えた。気のせいか。しわが増えすぎて、感覚まで鈍ってきたのかもしれない。
貸し出し記録のカードを整理していると、不意に右の手首に、針で刺されたような鋭い痛みが走った。
「っ…」
思わず手首を押さえる。見ても、そこには何もない。しかし、皮膚の下、存在の深層で、これまで刻まれてきたどの「記憶のしわ」とも異なる、硬質で異質な何かが新たに刻まれた感覚があった。それは経験の重なりによる鈍痛ではない。未知の何かが、俺の世界に楔を打ち込んだような、明確な違和感だった。
第三章 灼けるような異物
その奇妙な痛みは、一日中、忘れた頃にやってきた。まるで、生まれたばかりのそれが自らの存在を主張するかのように。帰宅し、アパートの冷たいドアノブに触れた瞬間、再び手首が疼いた。
鏡の前に立ち、恐る恐る右腕をかざしてみる。滑らかな皮膚があるだけで、もちろん何も見えはしない。だが、感覚は嘘をつけない。そこには確かに「新しいしわ」がある。それは過去の重みではなく、未来からの問いかけのような、鋭利な存在感を放っていた。
ふと、書斎の逆砂時計が目に入る。朝よりも、底に沈殿した琥珀色の砂が増えている。三粒、四粒…まるで、手首の痛みの回数と呼応するように。
この世界は、毎日午前0時にリロードされる。個人の記憶も、街の傷ひとつも、全てが寸分の狂いなく「昨日の状態」へと巻き戻されるはずだ。ならば、この琥珀色の砂はなんだ? この手首の痛みは? 法則に生じた綻びか、それとも…。
言いようのない恐怖と、それを上回るほどの微かな期待が胸の中で渦を巻いていた。永遠に続くと思われた円環が、今、軋みを上げ始めている。
第四章 零時の亀裂
その夜は、眠れなかった。ベッドの中で、時計の秒針が刻む音だけがやけに大きく響く。いつもなら、リロードの瞬間を意識することはない。深い眠りの中で世界は書き換えられ、気づけばまた「同じ朝」を迎えている。
だが、今夜は違う。手首の新しいしわが、灼けるように熱い。
23時59分58秒、59秒—。
針が真上を指した瞬間、世界が悲鳴を上げた。ガラスが砕け散るような甲高い音が鼓膜を突き破り、視界が激しいノイズに覆われる。部屋の風景が、まるで壊れた映像のように乱れ、その隙間から、全く知らない光景がフラッシュバックした。
—赤錆びた大地がどこまでも続き、空には巨大なリング状の構造物が黒いシルエットとなって浮かんでいる。風の音はなく、ただ絶対的な静寂が支配する、死んだ世界。
そして、脳内に直接、声が響いた。
電子的な、しかしどこか哀愁を帯びた声。
『—観測者、応答セヨ。規定外パラメータヲ検知。…回帰シーケンスヘ移行スル—』
意識がブラックアウトする直前、手首のしわが閃光を放ったように感じた。それは痛みではなく、一つの「鍵」が、固く閉ざされた錠に差し込まれたような、確かな感触だった。
第五章 世界の設計図
目覚めは、いつもと同じ朝だった。鳥の声も、光の角度も、昨日までの全てを完璧にコピーしている。しかし、俺の中の世界は、もはや元には戻らなかった。
昨夜の幻覚。謎の声。そして、右の手首で確かな存在感を主張する、新しいしわ。それはもう、ただの違和感ではない。俺という存在を根底から揺るがす、一つの真実だった。
図書館へ向かう足取りは重い。だが、視界は奇妙なほど澄み渡っていた。いつも見ているはずの街並みの、その細部に、不自然な「継ぎ目」が見える。建物の壁、アスファルトの模様、それらがピタリと合わさっていない、僅かなズレ。世界が精巧な書き割りであることを、俺の目は見抜き始めていた。
「リョウさん、おはよう。…どうしたの? 幽霊でも見たみたいな顔」
ミオが心配そうに覗き込んでくる。
「ミオ…何か、いつもと違うと感じることはないか?」
「え? いつもと同じ、穏やかな一日じゃない」
彼女の純粋な瞳を見て、悟った。この変化は、俺だけに起きている。俺だけが、この世界の真実に気づき始めているのだ。
声に導かれるように、書庫の最深部へと向かう。埃をかぶった古い閲覧端末。誰も使わないそれを起動し、震える指で、昨夜脳裏に浮かんだ不可解な文字列を打ち込んだ。
エンターキーを押した瞬間、ディスプレイに青い光が灯る。
『シミュレーション・プログラム "ノスタルジア" 正常稼働中』
『警告: 観測ユニットNo.7(リョウ)に、外部干渉によるパラメータ変異を検知』
『最終安全プロトコルに基づき、フェーズ移行シーケンス "回帰" を起動します』
そこに綴られていたのは、残酷なまでに美しい、世界の真実だった。
この世界は、遥か未来の文明が作り上げた巨大なシミュレーション。彼らは、自らが進化の果てに失ってしまった「予測不能な変化に満ちた、不完全で愛おしい日常」を追体験するために、この箱庭を創造した。
そして俺は、彼らが「観測者」として配置した、特殊なプログラム。日々の微細な変化を「記憶のしわ」として記録し、シミュレーションの安定性を維持するための、孤独な部品だったのだ。
第六章 琥珀色の明日へ
新しいしわは、バグではなかった。
それは、このシミュレーションを終わらせ、俺たちを「次」へと進ませるために、設計者たちが最初から組み込んでいた『回帰プログラム』の起動キーだったのだ。逆砂時計の底に沈殿していた琥珀色の砂は、シミュレーションの外側から送られてきた、本物の「時間」の粒子。偽りの永遠を終わらせるための、希望の欠片。
俺はカウンターに立つミオのもとへ駆け寄った。彼女もまた、この世界の真実を知らない、精巧なAIに過ぎないのかもしれない。それでも。
「ミオ、行こう」
俺は彼女の手を強く握った。驚く彼女の瞳を、まっすぐに見つめる。
「ここじゃない、どこかへ。今日じゃない、明日へ」
「リョウさん…? 何を言ってるの…?」
戸惑う彼女の手は、温かかった。プログラムされた温もりだとしても、俺にとっては唯一の真実だった。
「信じてほしい。俺が、君を本当の明日へ連れていく」
ミオはしばらく俺の顔を見つめていたが、やがて、ふっと微笑んで、強く頷いた。
俺はポケットから逆砂時計を取り出し、強く握りしめる。手首のしわが共鳴し、琥珀色の砂がガラスの中で激しく舞い上がった。銀の粒子を飲み込みながら、世界が眩い光に溶けていく。図書館が、街が、空が、白い光の奔流となって崩壊していく。
未来の世界は、幻覚で見たような荒廃した場所なのかもしれない。待っているのが幸福とは限らない。だが、そこには二度と同じ日は来ない、予測不能な「明日」がある。
失われた日常を取り戻すための、永い旅が始まる。俺はもう、過去の重みに囚われることはない。未来への希望を、最初の「本物のしわ」としてその身に刻みながら、ミオの手を固く握りしめ、光の中へと歩み出した。