空席のパフューム

空席のパフューム

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第一章 香りのない男

私の日常は、香りで満ちている。それはフローラルやシトラスといった香水の話ではない。私が感じるのは、人の感情が放つ、もっと生々しく、繊細な香りだ。生まれつきのこの体質を、共感覚と呼ぶのだと知ったのは随分後になってからだった。喜びは焼きたてのパンのように甘く香ばしく、悲しみは雨に濡れたアスファルトの匂いがする。怒りは錆びた鉄の臭気を放ち、子供たちの純粋な好奇心は、弾けるソーダ水のように鼻先をくすぐる。

市立図書館の司書という仕事は、そんな私にとって天国であり、同時に地獄でもあった。静寂に満ちた書架の間を漂う、無数の感情の香り。ページをめくる指先から立ち上る物語への期待感、試験勉強に追われる学生の焦燥感、退屈を持て余す老人の倦怠感。それらは混ざり合い、一種の複雑な芳香となって空間を満たしている。私は、その香りの洪水から身を守るように、いつも心を少しだけ閉ざしてカウンターの奥に座っているのが常だった。

そんな私の平穏な日常に、小さな波紋が広がったのは、ひと月ほど前のことだ。その男、古川さんと名乗る老紳士は、毎日決まって午後二時にやってくる。背筋の伸びた端正な立ち姿、丁寧にアイロンがけされたシャツ。彼はいつも窓際の一番奥の席に座り、植物図鑑を静かに開く。彼の周りだけ、まるで時が止まっているかのようだった。

そして、何よりも奇妙なこと。彼からは、何の香りもしなかったのだ。

人間である以上、そこには感情があるはずだ。たとえ無表情を装っていても、心の奥底では何かが揺らいでいる。それは微かな霞のような香りとなって、必ず私の鼻に届く。だが、古川さんからは、喜びも、悲しみも、怒りも、退屈さえも、一切感じられない。彼はまるで、精巧に作られた無機質な人形のようだった。空っぽの器。その完全なる「無臭」は、私の日常に静かに投げ込まれた、解けない謎だった。私はカウンター越しに彼を見つめながら、その存在が放つ不気味なほどの静けさに、知らず知らずのうちに心を奪われていた。

第二章 空っぽの頁

古川さんへの興味は、日増しに私の心を占めていった。これまで他人の感情の香りにうんざりし、人との関わりを極力避けてきた私が、一人の人間の内面を知りたいとこれほど強く思ったことはなかった。彼の「無」は、私にとって強烈な引力を持っていた。

私は彼の行動を、それとなく観察するようになった。彼は毎日、同じ植物図鑑を借りていく。分厚いそれは、既に何度も読み返したのか、表紙の角が少し擦り切れていた。貸し出しカードを処理する際、彼の指先が私のそれに触れそうになる。その瞬間、私は息を詰めるが、やはり何も伝わってこない。ただ、ひんやりとした皮膚の感触だけが残る。

「いつも、植物がお好きなんですね」

ある日、私は勇気を出して話しかけてみた。

「ええ、まあ」

古川さんは穏やかに微笑む。しかし、その笑顔からも何の香りもしない。まるで、顔に貼り付けた仮面のようだった。

「特に、好きな花とかあるんですか?」

「……忘れな草、ですかね」

彼は少しだけ遠くを見るような目をして、そう呟いた。その一瞬、彼の周りの空気が微かに揺らぎ、何か香りが立ち上るかと期待したが、やはりそこにあるのは空虚な無臭だけだった。会話はいつも、そこで途切れてしまう。彼の内面に続く扉は、固く閉ざされているようだった。

私は、自分のこの奇妙な執着に戸惑い始めていた。なぜ、これほどまでに彼が気になるのか。それは、私の「普通」を揺るがす存在だからだろうか。感情の香りがしない人間など、あり得ない。私の知る世界の法則が、彼一人の前で崩れ去っている。その事実が、私を不安にさせ、同時にどうしようもなく惹きつけた。

ある雨の日、古川さんがカウンターに返却した植物図鑑の間に、一枚の古い栞が挟まっているのに気づいた。押し花で作られた、青く小さな忘れな草の栞。その裏には、拙い子供の字で『おじいちゃんへ。大きくなったら、さきちゃんも図書館の人になるね』と書かれていた。「さき」。私と同じ名前。心臓が小さく跳ねた。これは、彼に近づくための手がかりかもしれない。しかし、それを彼に返す勇気は、まだ私にはなかった。私はその栞を、そっと自分の手帳に挟み込んだ。彼の空白のページをめくる、鍵になるような気がして。

第三章 ジオラマの図書館

九月に入り、長雨が続くようになった。その日、開館以来初めて、古川さんは図書館に姿を見せなかった。午後二時を過ぎ、三分、五分と時計の針が進んでも、彼の指定席は空いたままだ。胸騒ぎがした。いつもと違う、というだけで、これほど心がざわつく自分に驚く。

閉館時間になっても、彼は現れなかった。私はいてもたってもいられなくなり、先日、彼が傘を忘れていった際に確認した、利用者カードの住所を頼りに、彼のアパートへ向かうことにした。土砂降りの雨が、私の不安を煽るようにアスファルトを叩いていた。

古びた木造アパートの二階、一番奥の部屋。表札には確かに「古川」とある。ドアをノックするが、返事はない。諦めて帰ろうとした時、ドアが僅かに開いていることに気づいた。錆びた蝶番が、私の迷いを見透かすように、小さくきしむ。

「ごめんください、古川さん?」

声をかけるが、しんと静まり返っている。私は意を決して、ゆっくりとドアを開けた。

目に飛び込んできた光景に、私は息を呑んだ。

六畳ほどの部屋の中央に鎮座していたのは、驚くほど精巧に作られた、私が働く市立図書館のジオラマだった。本の背表紙の一文字一文字、窓から差し込む光の角度、床のタイルの傷に至るまで、完璧に再現されている。そして、いつも古川さんが座っている窓際の席には、彼そっくりの小さな人形が、植物図鑑を開いて座っていた。

部屋の壁には、図書館の設計図や写真がびっしりと貼られている。その中に、一枚の色褪せた写真があった。優しそうに笑う若き日の古川さんと、その隣で微笑む奥さんらしき女性。そして、二人の間で、図書館のパンフレットを嬉しそうに掲げる、おかっぱ頭の小さな女の子。

足が震えた。私は、机の上に置かれた一冊の古い大学ノートに吸い寄せられる。それは、古川さんの日記だった。許されないことだと知りながら、私はそのページをめくってしまった。

そこには、彼の絶望が克明に綴られていた。三年前に、最愛の妻と、司書になることを夢見ていた孫娘の「さき」ちゃんを、交通事故で同時に亡くしたこと。悲しみのあまり、心が空っぽになってしまったこと。何も感じず、何も考えられなくなり、ただ時間だけが過ぎていく日々。

『私は、心を失った。喜びも悲しみも、もうどこにもない。ただ、さきが好きだったあの図書館の、あの席にいる時だけ、ほんの少しだけ、あの子の気配を感じられる気がするのだ』

日記の最後のページに、こう書かれていた。

『このジオラマが、私の世界だ。この小さな私に意識を移し、さきの夢だった場所で過ごす。そうしている時だけ、私は息ができる。現実の私は、ただこの部屋で、空っぽのまま座っているだけだ』

そうだったのか。図書館に来ていたのは、彼の抜け殻だったのだ。感情を失い、悲しみのあまり心を閉ざしてしまった彼の魂は、このジオラマの中にあった。だから、何の香りもしなかったのだ。私の鼻は、彼の肉体ではなく、彼の魂が放つ「無」を正確に嗅ぎ取っていたのだ。

雨の音が、遠くに聞こえる。私は、彼の途方もない孤独と愛情の深さに、ただ立ち尽くすことしかできなかった。

第四章 雨上がりの匂い

日記をそっと閉じ、私は静かに部屋を出た。ジオラマの中の小さな古川さんは、窓の外を眺めているように見えた。私がいつも見ていた、あの姿のまま。

次の日、図書館の彼の席は、空いていた。その次の日も。彼はもう、ここへは来ないだろう。私は直感的にそう感じていた。彼が、ジオラマの世界から旅立ったのか、それとも、現実の自分と向き合うことを決めたのか。それは私には分からない。ただ、彼の物語の一片に触れてしまったという事実だけが、ずしりと重く私の心に残っていた。

数日が過ぎた朝、私はいつものようにカウンターに立っていた。ふと、あの窓際の空席に目をやる。すると、信じられないことに、そこから香りがした。

それは、雨が上がった後の、湿った土のような、深く穏やかな「悲しみ」の香り。そして、その奥にかすかに混じる、焼きたてのパンのような、温かくて優しい「感謝」の香り。

香りのない男がいた場所に、今、確かに感情の香りが漂っている。それは、彼が残していったものなのかもしれない。彼が失われた心を取り戻し、孫娘と妻への愛と悲しみを、ようやく感じられるようになった証なのかもしれない。

涙がこみ上げてきた。私はこれまで、他人の感情の香りを、自分を乱す厄介なものとして避けてきた。しかし、今、この空席から漂う切なくて温かい香りを、心の底から愛おしいと感じていた。感情とは、人が生きた証そのものなのだ。たとえそれが、深い悲しみであっても。

その時、一人の少女がカウンターにやってきて、不安そうな顔で私を見上げた。その子の周りからは、迷子の小犬のような、心細さと好奇心が混じった香りがした。

私は、自分でも驚くほど自然に、そして柔らかな笑みを浮かべて、少女に語りかけた。

「こんにちは。何か、お探しの本はありますか?」

私の声は、もう、香りの洪水から身を守るための壁を作ってはいない。少女の不安げな香りを、私はそっと受け止める。私の世界は、一人の「無臭」の男との出会いを通して、ようやく本当の意味で、豊かで優しい香りに満ち始めたのだ。窓の外では、雨上がりの光が、濡れた葉をきらきらと輝かせていた。

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