第一章 記憶を売る店
路地裏の突き当たり、蔦に覆われた古い洋館が、月島漣の仕事場兼住処である「時忘れ堂」だ。看板はとうに錆びつき、辛うじて読めるその文字は、ここを訪れる人々の目的を的確に言い当てていた。漣は、記憶の古物商。人々が捨てたい、忘れたいと願う記憶を買い取り、アンティークの品々に封じ込めていた。
店内は、埃と古い木材、そして微かなインクの匂いが混じり合った、時が止まったかのような空気に満ちている。棚には、インク壺、懐中時計、万華鏡、レースの手袋といった品々が、それぞれの来歴を秘めて静かに並んでいた。それらは単なる古物ではない。ある男が忘れたかった初恋の痛み、ある女が捨てたかった裏切りの光景、そのすべてが、これらの品々の中で深い眠りについているのだ。
漣は、他人の強い感情に触れるこの仕事を、どこか醒めた目で見つめていた。記憶を売りに来る人々は、皆一様に何かに追いつめられた顔をしている。彼はただ、提示された記憶の「重さ」と「色」を鑑定し、相応の対価を支払うだけ。深入りはしない。それが彼の流儀だった。自分自身の感情の大部分も、どこか店の奥の開かずの棚に仕舞い込んでいるような、そんな男だった。
ある雨の降る午後、店のドアベルが、湿った音を立てて鳴った。入ってきたのは、背中の丸まった小柄な老婆だった。深い皺の刻まれた顔に、穏やかだが、どこか遠くを見つめるような瞳を宿している。手には、古びた木製の小箱を大切そうに抱えていた。
「記憶を、買い取っていただけますか」
しわがれた、しかし芯のある声だった。
漣はいつものように、無表情に頷き、カウンターの内側から老婆に向き直る。「どのような記憶で?」
老婆は黙って小箱をカウンターに置いた。漣が蓋を開けると、中には掌に乗るほどの小さなオルゴールが収まっていた。精巧な木彫りが施された、年代物の逸品だ。しかし、漣の目を奪ったのはその造形美ではなかった。オルゴールから放たれる、淡く、温かい光のような気配。それは、彼がこの店で買い取ってきた、苦痛や後悔に満ちた記憶とは全く異質のものだった。
「これは……随分と、温かい記憶のようですが」
漣は思わず問いかけた。忘れたい記憶というものは、大抵が冷たく、重い。
「ええ、とても。陽だまりのように温かく、幸せな記憶です」老婆は静かに答えた。「だからこそ、忘れたいのです。あまりに眩しくて、今の私には……辛すぎる」
その言葉に、漣はわずかな違和感を覚えた。しかし、客の事情に踏み込まないのが信条だ。彼は鑑定のためにオルゴールにそっと触れた。その瞬間、脳裏に、知らないはずの光景がフラッシュバックした。
―――柔らかい日差しが差し込む部屋。幼い子供の笑い声。優しい子守唄を口ずさむ、若い女性の横顔。その声は、春のそよ風のように心地よく、絶対的な安心感に満ちていた。
漣はハッとして手を引いた。心臓が早鐘を打っている。今のは何だ?客の記憶が流れ込んでくることはあるが、これほど鮮明で、まるで自分自身の体験であるかのような感覚は初めてだった。
「……買い取りましょう」
動揺を押し殺し、彼は引き出しから数枚の紙幣を取り出した。老婆は金を受け取ると、深々と頭を下げ、名残惜しそうにオルゴールを一瞥してから、静かに店を出ていった。
雨音が強くなる中、漣は一人、カウンターの上に置かれたオルゴールを見つめていた。あの懐かしいような感覚の正体は何なのか。そして、あの記憶の中の幼子は、なぜか自分であるような気がしてならなかった。日常を覆す、小さなオルゴールの奏でる予感。それは、漣が長年閉ざしてきた心の扉を、静かに叩き始めていた。
第二章 忘れられた旋律
老婆が去った後も、漣はしばらくその場から動けなかった。カウンターに置かれたオルゴールは、まるで生き物のように静かな存在感を放っている。彼が普段扱う記憶たちは、悲しみや怒りで淀み、息を潜めている。しかし、これは違う。温かく、穏やかな光を内包し、まるで「聴いてほしい」と呼びかけているようだった。
好奇心と、得体の知れない不安。二つの感情に引き裂かれながらも、漣の手は自然とオルゴールのネジに伸びていた。カチ、カチ、とゼンマイを巻く音が、静寂な店内に響く。指を離すと、澄んだ、しかしどこか切ないメロディが流れ出した。
その旋律は、漣の心の最も深い場所に眠っていた何かを揺り起こした。それは、言葉になる前の感情の破片。忘れていたはずの温もり、失われたと思っていた光。
メロディに導かれるように、再び鮮明なビジョンが彼の意識に流れ込んできた。
―――公園のベンチ。隣には、優しく微笑む母親がいる。彼女が、このオルゴールのメロディを子守唄として口ずさんでいる。「大丈夫よ、漣。お母さんがずっとそばにいるからね」。その声、手の温もり、彼女の髪から香るシャンプーの匂い。幼い自分は、その腕の中で安心しきって微睡んでいる。それは、紛れもなく自分自身の記憶だった。自分が、完全に忘れていた、母親との幸せな記憶。
「……母さん」
掠れた声が、自分の口から漏れた。漣は、物心つく前に母親を病で亡くしたと聞かされている。父は母のことをほとんど語らず、写真も数枚しか残っていない。だから、漣の中の母親の記憶は、色褪せた写真の中の無表情な女性でしかなかったはずだ。なのに、このオルゴールが呼び覚ました記憶は、あまりにも鮮やかで、温かかった。
なぜ、こんなにも大切な記憶を、自分は忘れていたのか?
そして、なぜあの見ず知らずの老婆が、自分の記憶を持っていたのか?
混乱が、漣の冷静さを奪っていく。彼は衝動的に店の外へ飛び出した。雨は小降りになっていたが、石畳は濡れて光っている。老婆が去った方向に走り出すが、そこに彼女の姿はどこにもなかった。手掛かりは何もない。ただ、彼女が去り際に言った「あまりに眩しくて、辛すぎる」という言葉だけが、頭の中でこだましていた。
その日から、漣の日常は一変した。仕事が手につかない。棚に並ぶ品々に封じ込められた他人の記憶に触れても、心が動かなくなった。彼の意識はすべて、あのオルゴールと老婆の謎に占められていた。
彼は近隣の聞き込みを始めた。普段の彼からは考えられない行動だった。人との関わりを避け、他人の人生に深入りしないことを信条としてきた男が、見ず知らずの老婆の行方を必死で探している。
「背の小さな、上品な雰囲気のおばあさんを見かけませんでしたか?」
商店街の店主たちに尋ねて回るが、有力な情報は得られなかった。
数日が過ぎ、諦めかけた頃、路地裏で花を世話していた一人の老婦人が、漣の話に心当たりがあると言った。
「ああ、その方なら、たしか海沿いの古い療養所のほうへ向かうバスに乗っていたような……。最近、あちらの施設に移ってこられた方だって、噂で聞いたかねぇ」
海沿いの療養所。その言葉に、漣の心臓がどきりと音を立てた。なぜなら、そこは、彼の母親が最期を迎えた場所だったからだ。偶然か、それとも。
漣は逸る気持ちを抑え、バス停へと急いだ。潮の香りが、彼の記憶の扉をさらに開けようとしている。オルゴールの旋律が、まるで道標のように、彼の頭の中で鳴り響いていた。
第三章 母の置き土産
海沿いの療養所は、白い壁が潮風に晒され、時の流れを感じさせる静かな建物だった。受付で事情を話すと、漣はすぐに面会室へと通された。ガラス窓の向こうには、穏やかな灰色の海が広がっている。
やがて、車椅子に乗ったあの老婆が、看護師に付き添われて現れた。彼女は漣の姿を認めると、驚いた様子もなく、ただ静かに微笑んだ。
「……やはり、来られましたか」
その声は、店で聞いた時よりも少しだけ弱々しく聞こえた。
「なぜ、あなたが俺の記憶を?教えてください」
漣は椅子から立ち上がり、感情を抑えきれずに問い詰めた。
老婆―――千代と名乗った彼女は、ゆっくりと話し始めた。
「あれは、あなたの記憶であり、あなたのものです。私はただ、長い間お預かりしていただけ……。あなたの、お母様から」
「母から……?」
漣の思考が停止する。千代は、遠い昔を懐かしむように目を細めた。
「ええ。私は、あなたの母……美咲の、たった一人の親友でした」
千代の口から語られた真実は、漣の予想を遥かに超えるものだった。
漣の母、美咲は、若くして不治の病に侵された。日に日に衰えていく自分。そして、腕の中で無邪気に笑う幼い息子。彼女にとって、漣の存在は生きる希望であると同時に、耐え難い苦しみでもあった。自分が死んだ後、この幼い子が母親を失った悲しみで心を壊してしまわないだろうか。母の記憶が、彼の未来を縛り付ける枷になってしまわないだろうか。
「美咲は、決意したのです」千代の声が震える。「あの子が私のことを忘れて、悲しみを知らずに、強く生きていけるようにしてあげたい、と。そのために、漣の一番幸せな、一番温かい、母親との記憶を……自分という存在の根幹を、抜き取ってほしい、と」
その頃、千代は偶然にも、記憶に干渉する特殊な力を持つ一族の末裔であることを知ったばかりだった。親友の悲痛な願いを、彼女は断ることができなかった。
「美咲は、あのオルゴールに、あなたとの最も美しい思い出を封じ込めました。そして、私に託したのです。『いつか、あの子が大人になって、悲しみを受け止められる強さを持った時が来たら、これを返してあげて』と……。それが、彼女の最後の願いでした」
漣は言葉を失い、その場に立ち尽くした。忘れていたのではない。忘れさせられていたのだ。自分を悲しみから守るためという、あまりにも深い、母親の愛情によって。
「あなたのお店を見つけたのは、偶然でした。でも、記憶を扱うと知って、ここなら……と。あなたが、他人の痛みを引き受ける立派な大人になったことを見届けて、私もようやく、美咲との約束を果たせると思ったのです」
千代はそう言うと、皺の寄った手でそっと漣の手に触れた。「忘れたい記憶として売ったのは、あなたの店の流儀に合わせただけ。本当は、母からの置き土産を、返しに来たのですよ」
その瞬間、漣の心の中で、何かが音を立てて崩れ落ち、そして、温かい光が満ちていくのを感じた。今まで空虚だった胸の奥が、母親の愛情で満たされていく。涙が、止めどなく頬を伝った。それは、悲しみの涙ではなかった。失われた時間を取り戻し、ようやく母親の愛に触れることができた、喜びと感謝の涙だった。
第四章 時忘れぬ堂
自分の店に戻った漣は、カウンターの中心に、あのオルゴールをそっと置いた。以前はただの謎めいた古物だったそれが、今では何物にも代えがたい宝物に見える。それは、母の愛の結晶であり、自分が生きてきた証そのものだった。
彼は、ゆっくりと店内を見渡した。棚に並ぶ、インク壺、懐中時計、万華鏡……。今まで、そこに封じ込められた記憶を「人々が捨てたがったガラクタ」だと、どこか冷ややかに見ていた。だが、今は違う。
一つ一つの品が、持ち主の人生の断片を懸命に抱きしめているように見えた。忘れたいほどの痛みも、苦しみも、その人が確かに生きて、何かを愛し、傷ついた証なのだ。母が、自分の未来のために最も美しい記憶を切り離したように、ここに記憶を売りに来た人々もまた、前に進むために、何かを守るために、断腸の思いでその記憶を手放したのかもしれない。
漣は、店の奥から一枚のベルベットの布を取り出し、オルゴールを丁寧に磨き始めた。そして、それを商品棚ではなく、自分の机の一番よく見える場所に置いた。これは、売るものではない。忘れるものでもない。これから自分が共に生きていく、自分自身の一部なのだ。
彼はもう、他人の感情から目を背けないだろう。この店を訪れる人々の痛みに、ただ寄り添うことができるだろう。記憶を買い取り、封じ込める。その行為は、忘却のための作業ではなく、その人が再び歩き出すための、一時的な「お預かり」なのだと、漣は悟った。この「時忘れ堂」は、時を忘れさせる場所ではなく、時と向き合う準備ができるまで、大切なものを守る場所なのだ。
窓の外は、すっかり夕焼けに染まっていた。漣はそっとオルゴールのネジを巻いた。澄んだ、優しいメロディが店内に流れ出す。
―――『大丈夫よ、漣。お母さんがずっとそばにいるからね』
記憶の中の母の声が、旋律と重なる。漣は目を閉じ、その温かい響きに身を委ねた。頬を伝う一筋の涙は、もう冷たくはなかった。それは、母の愛に包まれた、陽だまりのように温かい涙だった。オルゴールの最後の音が消えても、その余韻は、漣の心の中で永遠に鳴り響き続けるだろう。