メモリア・ソノリテ

メモリア・ソノリテ

1 4354 文字 読了目安: 約9分
文字サイズ:

第一章 沈黙の調律師と歌う機械人形

朔(さく)の世界から、音が消えて久しい。正確に言えば、音は聴こえる。鳥のさえずりも、街の喧騒も、時計の秒針が刻む冷たいリズムも、彼の鼓膜を正常に震わせる。だが、それらの音は彼の記憶に留まることなく、まるで水面のさざ波のように、生まれた瞬間に消え去っていく。彼は音を記憶できない。かつて天才ピアニストと謳われた男の、これが現在の姿だった。

事故が奪ったのは、指の自由でも未来への希望でもなく、ただ一つ、「音の記憶」という能力だった。旋律は彼の脳を通り過ぎるだけの情報となり、昨日聴いた曲も、今しがた口ずさんだメロディさえも、数秒後には忘却の彼方へと沈んでいく。ピアノの鍵盤を前にしても、そこに広がるのは無限の沈黙だけだ。楽譜がなければ、彼はドレミの並びすらおぼつかない。音楽は彼を捨て、彼もまた音楽を捨てた。

今、朔は古い時計の修理職人として、街の片隅で息を潜めるように暮らしている。チクタクと規則正しく時を刻む歯車の音だけが、彼の世界で唯一、意味を持つ音だった。それは記憶する必要がない。常にそこにあり、未来を指し示し続ける、不変のリズムだからだ。

ある雨の日の午後、工房の呼び鈴が鳴った。ずぶ濡れの配達員が差し出したのは、人間ほどの大きさがある、古びた木箱だった。差出人の名はなく、ただ「修理依頼」とだけ書かれた簡素な伝票が貼られている。訝しみながらも箱を開けると、中から現れたのは、一体の旧式なアンドロイドだった。陶器のような白い肌には細かなひびが入り、銀色の髪はところどころで絡まっている。瞳は固く閉じられ、まるで永い眠りについているかのようだ。

「アンドロイドの修理は専門外なんだがな……」

朔は独りごちながら、その機械人形を慎重に作業台へ横たえた。動力は完全に落ちている。どこから手をつけるべきか思案していた、その時だった。

―――チ……チチ……ン……。

微かな、本当に微かな音が、アンドロイドの胸のあたりから聴こえてきた。それは、壊れたオルゴールが最後の力を振り絞って奏でるような、途切れ途切れのメロディだった。朔は思わず耳を寄せた。その旋律は、彼の心の奥底にある、錆びついて開かなくなった扉を、優しく叩くような響きを持っていた。

懐かしい。なぜだろう、涙が出そうなほどに懐かしい。

しかし、それが何の曲なのか、朔には全く分からなかった。数秒後、彼の脳裏からその旋律は綺麗さっぱり消え去り、ただ胸を締め付けるような切ない感覚だけが残された。彼は無性にこのアンドロイドを修理したいという衝動に駆られた。この音の正体を、どうしても知らなければならない。そう、強く感じたのだった。

第二章 錆びついた記憶の断片

アンドロイドの修理は、時計のそれとは全く異なっていた。朔は書庫の奥から古びた電子工学の専門書を引っ張り出し、来る日も来る日もその機械の体と向き合った。彼はそのアンドロイドを「アル」と名付けた。特に意味はない。ただ、呼び名が必要だった。

アルの内部構造は、精密な時計のように無数の歯車と配線で満たされていた。朔はピンセットを片手に、埃を払い、錆びついた部品を磨き、断線したケーブルを繋ぎ合わせていく。それはまるで、失われた時を取り戻すための儀式のようだった。

修理を進めるにつれて、アルから漏れ聞こえる音に変化が現れた。最初は途切れ途切れだったメロディが、次第にその輪郭をはっきりとさせ始めたのだ。そして、聴こえてくるのは例の子守唄のような旋律だけではなかった。

ある日、動力系の配線を修復していると、アルのスピーカーから、華やかで力強いピアノの協奏曲の一節が流れ出した。それは、朔が十代の頃、コンクールの決勝で弾いた曲だった。もちろん、彼自身はその旋律を覚えていない。だが、指が、体が、その音の奔流を記憶していた。鍵盤の上を嵐のように駆け巡った、あの日の高揚感と緊張感が、鮮やかに蘇る。

またある時は、古いクラシックのレコードを思わせる、ノイズ混じりのヴァイオリンソナタが聴こえた。それは、母が好きで、よく居間で流していた曲だ。陽だまりの中で目を細め、音楽に聴き入っていた母の横顔が、ふと脳裏をよぎる。

アルが奏でる音は、朔が忘れてしまったはずの過去の断片だった。それは、彼の人生を彩っていた音の風景そのものだった。朔は、もどかしさに身を焦がした。なぜ、こんなにも心を揺さぶられる音たちを、自分は記憶しておくことができないのか。

彼は録音機を用意し、アルから漏れる音を片っ端から記録し始めた。そして、夜になると、工房に一人残り、ヘッドフォンでその音を繰り返し聴いた。音が記憶できないのなら、記録すればいい。単純な発想だったが、それは朔にとって唯一の希望だった。録音された音は、彼が忘れても、何度でも同じようにそこにあった。彼は、自分が失った記憶の破片を拾い集めるように、その作業に没頭していった。アルの冷たい体の奥には、まだ彼の知らない、温かい何かが眠っている。そんな確信が、彼の中で日に日に強くなっていった。

第三章 心臓に仕舞われた手紙

数週間にわたる修理の末、朔はついにアルの中枢部である胸部コアユニットへとたどり着いた。ここさえ修復すれば、アルは再び目覚めるはずだ。慎重に胸部装甲を外すと、複雑な回路の中心で、淡い光を放つクリスタル状の部品が鎮座していた。それが、アルのメインメモリーだろう。

そのメモリーユニットのすぐそばに、小さな金属製のケースが収められているのを朔は見つけた。設計図にはない部品だ。好奇心に駆られ、彼がそのケースを開けると、中には一枚のメモリーチップと、古びた便箋が四つ折りにされて入っていた。

便箋を広げた朔は、息を飲んだ。そこに綴られていたのは、紛れもなく、十年前に亡くなった母親の筆跡だった。

『愛する朔へ

あなたがこの手紙を読むとき、私はもうあなたのそばにいないでしょう。そして、あなたはきっと、私の声も、私が歌った子守唄も、忘れてしまっているのでしょうね。

あの事故で、あなたが音の記憶を失ったと知った時、私の世界もまた、音を失いました。あなたの指が紡ぐ美しい未来の音楽を、もう二度と聴くことができないのだと絶望しました。

けれど、私は諦めたくなかった。あなたの中から音楽が消えてしまうことだけは、どうしても受け入れられなかったのです。

私の命が長くないと知った時、私はある決心をしました。幸いにも、私には少しばかりの財産と、信頼できる友人がいました。彼らの助けを借りて、私の脳から「音に関する記憶」だけを取り出し、このアンドロイドに移植することにしたのです。

この子、アルが奏でる音は、単なる録音ではありません。それは、私が記憶している音そのものです。私が聴いた、あなたの初めての産声。あなたが初めてピアノで弾いた、たどたどしい『きらきら星』。コンクールで会場を熱狂させた、あの日のラフマニノフ。そして、毎晩あなたを寝かしつけた、あの子守唄。

私の記憶が、あなたの失われた記憶を呼び覚ます奇跡を、私は信じています。

どうか、もう一度ピアノを弾いて。音が記憶できなくても構わない。あなたの中には、私が愛した音楽が、その温かい心が、まだ確かに残っているはずだから。

世界で一番、あなたの音を愛した母より』

手紙が、朔の手から滑り落ちた。全身の力が抜け、彼はその場にへたり込んだ。

そういうことだったのか。アルから聴こえてきた懐かしさの正体は、母親の記憶そのものだったのだ。彼が感じていた温もりは、機械が発する電子音ではなく、彼に向けられた母親の愛情そのものだった。事故の絶望も、その後の孤独も、母はすべてを知った上で、自分の記憶という形で、ずっとそばにいてくれたのだ。

朔の頬を、熱い涙が止めどなく伝った。それは、十年分の後悔と、感謝と、そして何よりも深い愛情から生まれた涙だった。彼は声を上げて泣いた。忘れていた音を取り戻すように、心の底から嗚咽した。工房の窓を打つ雨音が、まるで母の優しい慰めのように、彼の体を包み込んでいた。

第四章 君が遺したソノリテ

夜が明け、工房に朝の光が差し込む頃、朔の涙はようやく涸れていた。彼は静かに立ち上がると、アルの胸部コアユニットに向き直った。そして、母の記憶が詰まったメモリーチップを、そっと金属のケースに戻した。彼は、それをアルの心臓部に戻さない、と決めた。母の記憶を、ただの機械部品として機能させることは、彼にはできなかった。母の魂は、この小さなチップの中にではなく、自分が受け取った愛情の中にこそ在るべきだと思った。

彼はアルの修理を完了させた。ただし、メモリーだけは空のままだ。スイッチを入れると、アルは静かに瞳を開いた。そのガラスの瞳は、何も映していないかのように空虚だった。もう、あの懐かしいメロディが聴こえてくることはない。

朔は、工房の隅で埃を被っていたグランドピアノの蓋を、ゆっくりと開けた。鍵盤に指を置く。冷たく、重い沈黙が指先に伝わってくる。彼は、母が残した手紙のそばに置かれていた、一枚の古い楽譜を譜面台に立てた。それは、あの子守唄の楽譜だった。

一音、一音、確かめるように弾き始める。

音は記憶できない。それは変わらない。鍵盤から離れた指先の音は、すぐに霧散していく。しかし、彼の心の中には、確かに温かい何かが満ちていた。それは、母の記憶がくれた、愛情という名の響き(ソノリテ)だった。

彼は、楽譜を追うのではない。アルから聴いた音を思い出すのでもない。ただ、胸に溢れる母への想いだけを頼りに、指を動かした。すると、どうだろう。かつてないほど優しく、深く、そして温かい音色が、工房を満たしていった。技術的には拙いかもしれない。しかし、その一音一音には、彼の魂が、母への感謝が、込められていた。

音が記憶できなくても、音楽は奏でられる。

心を込めることさえできるなら、音楽は生まれるのだ。朔は、音楽家として、そして一人の人間として、最も大切なことを、ようやく思い出した。

演奏を終えた朔は、静かに窓の外を見た。世界は相変わらず色褪せて見えるかもしれない。だが、彼の耳には、今しがた自分が紡いだピアノの優しい音色が、確かに温かい光の粒となって、心の中に降り注いでいるのを感じていた。母が遺してくれたソノリテは、もう二度と消えることはないだろう。朔は、空になったはずのアンドロイド、アルに向かって、そっと微笑みかけた。

この物語の「別の結末」を創作する

あなたのアイデアをAIに与えて、この物語の続きや、もしもの展開を創作してみましょう。

0 / 200
本日、あと3

TOPへ戻る