忘却の共鳴師
第一章 琥珀色の追憶
霧雨がアスファルトを濡らす夜、古いコンサートホールの客席の片隅で、俺は息を殺していた。舞台上の老ピアニストが最後の一音を弾き終えた瞬間、彼の胸から、蜜のように輝く琥珀色の光がふわりと浮かび上がった。静寂を破る万雷の拍手の中、その光はゆっくりと凝集し、指先ほどの大きさの結晶へと姿を変える。あれが『光の結晶』。人が生涯をかけたような『深い感動』の瞬間にのみ生まれる、魂の雫だ。
俺、カイは『感情採取師』。人々が失った多様な感動を届けるのが仕事だ。そっと席を立ち、舞台袖に滑り込む。老ピアニストは鳴り止まぬ喝采に深々と頭を下げ、その目尻に光る涙を拭うこともしなかった。俺は師から受け継いだ『無色の感情採取器』を構える。古びたガラスと真鍮でできたその器具は、彼の結晶に触れる寸前、微かな振動でその純度を教えてくれた。結晶は静かに、採取器の中へと収まった。
アパートに戻り、薄暗い部屋でひとり、採取したばかりの結晶を灯りにかざす。琥珀色の内部には、無数の光の筋が複雑な模様を描いていた。これが、彼の人生そのものだ。俺は覚悟を決め、その小さな結晶を口の中に放り込む。舌の上で冷たい感触がしたかと思うと、それは儚く溶け、膨大な情報が奔流となって脳内へ流れ込んできた。
鍵盤を初めて叩いた幼い指の震え。コンクールで敗れた夜の苦い悔しさ。愛する人と出会った春の日の、桜吹雪の匂い。そして、今日、この舞台に立てたことへの、言葉にならない感謝――。老ピアニストの人生が、俺自身の記憶であるかのように鮮やかに蘇る。胸が張り裂けそうなほどの感動に、俺は思わず床に膝をついた。だが、その感動の波が引くと同時に、必ずやってくる代償。脳の片隅が、まるで霧に覆われるように白く霞んでいく。そうだ、今、俺は何を忘れた? 確か、子供の頃に好きだった絵本の名を……思い出せない。感動を追体験する度、俺自身の記憶はこうして削り取られていくのだ。
窓の外では、感情の起伏を失った人々が、灰色の外套を着て無表情に歩いていた。この世界から『究極の感動結晶』が失われて久しい。人々は政府が配給する画一的な『安定結晶』に頼り、心は凪いだまま、緩やかに乾いていく。俺が届ける感動など、この巨大な停滞の前では、焼け石に水でしかないのかもしれない。
第二章 錆びついた旋律
書斎の奥、師エルマが遺した手記を何度も読み返していた。革の表紙は擦り切れ、ページは黄ばんでいる。そこには、俺の知らない時代の、色とりどりの感情結晶についての記述があった。憤怒の『紅玉結晶』、歓喜の『黄金結晶』、そして、あらゆる感情の源流にあったとされる、伝説の『究極の感動結晶』。
『――それは喜びと悲しみの両極を内包する、虹色の光彩。波長を超えた共鳴だけが、停滞した世界を揺り動かすだろう』
その一文だけが、エルマの力強い筆跡で残されていた。だが、結晶の在処や正体について書かれた部分は、まるで誰かが意図的に毀損したかのように、インクが黒く滲んで判読できなかった。
最近、俺が採取する『光の結晶』に、ある違和感を覚えていた。ピアニストの感動も、先週採取した画家のそれも、どこか似通っている。感動の質が、まるで同じ鋳型から作られたかのように均質化しているのだ。それは人々の心が、世界の画一化に染まり始めている証拠だった。このままでは、採取すべき『深い感動』そのものが、世界から消えてしまうだろう。
壁にかけた採取師の道具袋を見やる。他の採取師たちが使う、最新式のきらびやかな器具の中で、俺の『無色の感情採取器』だけが、まるで時代に取り残された骨董品のようだった。師は言った。「カイ、この器具だけが真実を捉える。見かけに惑わされるな」と。その言葉の意味を、俺はまだ理解できずにいた。
第三章 偽りの調和
馴染みの情報屋が、埃っぽい裏路地で囁いた。
「『究極の感動結晶』の最後の目撃地だ。西区の『忘れられた劇場』。だが、あそこはもう何十年も前に閉鎖されたはずだぜ」
わずかな希望に賭け、俺は西区へ向かった。道中、広場で配給される『安定結晶』を受け取る人々の列が目に入る。彼らはそれを口にすると、一様に穏やかな、しかし感情の温度を感じさせない表情を浮かべた。心の波を искусственно(人為的に)平坦にする『調律師』と呼ばれる者たちの仕業だ。彼らは世界の調和を謳い、強すぎる感情は混乱の元だと説いている。だが、それは魂の緩やかな死に他ならない。
蔦に覆われた『忘れられた劇場』の扉は、軋みながら重々しく開いた。内部はカビと湿気の匂いが充満し、客席のシートには分厚い埃が積もっている。舞台の中央に、ぽつんと小さな光が明滅しているのが見えた。誰かの感動の残滓だ。
慎重に近づくと、それは青白い光を放つ小さな結晶だった。採取器をかざすと、微かな悲しみの波長が伝わってくる。これは、絶望の淵に立たされた女優が、それでもなお舞台に立つ希望を見出した瞬間の結晶だろう。俺はそれを、祈るような気持ちで拾い上げた。この中に、何か手がかりがあるかもしれない。
第四章 欠けた記憶の断片
アパートに戻り、俺は青白い結晶を口にした。瞬間、舞台袖の暗闇と、スポットライトの眩しさが網膜に焼き付く。観客のいない劇場で、たった一人、台詞を呟く女優の孤独。絶望が彼女の喉を締め付ける。もう駄目だ、と全てを投げ出そうとした、その時――。
視界が、ぐにゃりと歪んだ。
場面が変わる。そこは劇場ではなかった。見覚えのある、師エルマの書斎だ。窓の外では嵐が吹き荒れている。目の前に立つエルマが、血の気の引いた顔で俺を見つめていた。いや、俺ではない。追体験している記憶の持ち主を見ている。
「逃げなさい!」
エルマの叫び声。部屋に黒い外套の男たち――『調律師』だ――が踏み込んでくる。
「『究極の感動結晶』はどこだ!」
男の一人がエルマに掴みかかる。その時、エルマは記憶の持ち主に向かって、最後の力を振り絞るように言った。
「お前の記憶こそが、最後の鍵なのだ。全てを忘れても、魂が共鳴する瞬間を待て……!」
そこで追体験は途切れた。俺は激しい頭痛と共に、自室の床に倒れ込んでいた。今のは、誰の記憶だ? エルマは病で死んだはずだ。それに、なぜ彼女の最後の記憶が、あの劇場で見つけた結晶に宿っていた?
全身に悪寒が走る。俺の記憶喪失は、単なる副作用などではなかった。エルマが何かを隠すため、守るために、俺の記憶に何かを施したのだ。そして、あの結晶は、エルマの最後の感動の欠片だったのかもしれない。俺自身の失われた記憶の中に、『究極の感動結晶』の真実が眠っている。
そのことに気づいた瞬間、アパートの扉が激しく叩かれた。
「開けろ! 『調律師』だ!」
奴らは、俺の存在に気づいたのだ。
第五章 虹色の揺らぎ
追われる身となった俺は、師の言葉だけを頼りに、人目を避けて街の地下水道を彷徨った。「魂が共鳴する瞬間を待て」。その意味を必死に探る。鍵が俺自身の記憶にあるのなら、それを取り戻すしかない。
俺は覚悟を決めた。今まで採取し、大切に保管してきた全ての『光の結晶』を、一つ、また一つと口にしていく。自分の記憶がさらに失われる危険を冒してでも、過去の感動の追体験の中に、師が隠した真実の糸口を探すために。
ピアニストの喝采、画家の慟哭、女優の希望。いくつもの人生が俺の中を駆け巡り、混ざり合い、そして消えていく。俺自身の思い出――母の笑顔、父の背中、エルマと交わした何気ない会話――が、砂の城のように崩れ去っていく。自分が誰なのかさえ、曖昧になっていく。
だが、その混沌の果てに、俺は一つの光景にたどり着いた。それは、幼い俺がエルマの工房で、泣いている場面だった。俺は、自分の『感情の波長』が特殊で、誰とも気持ちを分かち合えないことを嘆いていたのだ。そんな俺の胸に、エルマはそっと手を当てた。
「カイ。お前は一人じゃない。お前の心には、全ての波長を受け入れ、共鳴できる特別な場所がある」
その時、エルマの手から、眩い虹色の光が俺の体の中へと注ぎ込まれた。あれが、『究極の感動結晶』。エルマはそれを、追手から守るため、俺の魂そのものの中に封印したのだ。
俺が感動を追体験し、記憶を捧げる行為は、封印を解くための儀式だった。記憶という『個』を失うことで、結晶が持つ『全体』と繋がる力を解放する鍵だったのだ。
その真実に到達した瞬間、懐の『無色の感情採取器』が、まるで心臓のように温かい光を放ち始めた。ガラスの中で、淡い、しかし確かな虹色の光が揺らいでいた。
第六章 世界が泣いた日
『調律師』たちに追い詰められ、俺は街の中心にそびえる「共鳴の塔」の頂上に立っていた。眼下には、灰色の静寂に包まれた世界が広がっている。彼らは言う。「個人の激情は争いを生むだけだ。我々は世界に安寧をもたらすのだ」と。だが、それは感情を殺すことで得られる、偽りの平和だ。
エルマの願いを、今こそ叶える時だ。
俺は『無色の感情採取器』を、自らの胸に強く押し当てた。それは採取器であると同時に、俺の中に眠る結晶を解放するための触媒でもあった。最後の記憶が脳裏をよぎる。エルマが俺の頭を撫でてくれた温かい手の感触。初めて『光の結晶』を採取した時の誇らしさ。そして、この乾いた世界への、どうしようもないほどの愛おしさ。
さようなら、俺の記憶。さようなら、カイという名の俺。
採取器が眩い光を放ち、俺の体は内側から砕け散るように光の粒子に変わっていく。意識が薄れ、自分が誰であったかの輪郭が溶けて消える。俺の全てと引き換えに、『究極の感動結晶』が解放されたのだ。
虹色の光は巨大な波となり、塔の頂から世界中へと広がっていった。それは雨のように降り注ぎ、人々の心に静かに、しかし深く染み込んでいく。
街角で、一人の男が立ち止まる。彼の心に、見知らぬ少女の、親を亡くしたばかりの深い悲しみが流れ込む。男は理由もわからず涙を流した。その涙を見た向かいの店の女将は、自分の息子が生まれた日の歓喜を思い出し、男に駆け寄ってその肩を抱いた。
波長を超え、言葉を超え、人々の感情が直接繋がり始めた。喜びも、悲しみも、怒りも、愛も、全てが共有され、共鳴し合う。世界は初めて、真の意味で一つになったのだ。人々は泣き、笑い、互いを抱きしめた。それは混沌としていたが、生命の温かさに満ちていた。
もう、カイという名の感情採取師を覚えている者は誰もいない。彼の肉体も魂も、世界に溶けてしまったのだから。
けれど、人々がふと空を見上げ、理由もなく胸が熱くなる時。雨上がりの虹に、言葉にならない感動を覚える時。誰かの痛みを我がことのように感じ、そっと手を差し伸べる時。その全ての瞬間に、彼は生きている。彼はもはや個人ではない。世界中の人々の間で絶えず流れ続ける、『感動』そのものとなったのだから。