零れる記憶、満ちる世界
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零れる記憶、満ちる世界

第一章 褪せた世界の記憶喰らい

俺には名前がない。過去も、感情もない。ただ、存在する。そのためには他者の『感動』を喰らわねばならなかった。

風が乾いた土の匂いを運んでくる。俺は、色褪せたレンガ造りの街を彷徨っていた。人々は緩慢な動きで往来し、その瞳には何の光も宿っていない。この世界は、枯渇しつつあった。『情感の雫』――人々が抱く真の感動が結晶化した、大地の生命源。それが、もう何年も前から生まれなくなっているのだ。

世界の枯渇は、俺自身の存在の希薄化と直結していた。指先を見れば、向こうの景色がうっすらと透けて見える。飢餓感に似た焦燥が、空っぽの俺の内側で渦巻く。感動の記憶を持つ人間を探さねば。そうでなければ、俺は霧のように消えてしまう。

路地裏で、一人の老婆が古びたベンチに座り、虚空を見つめていた。彼女の周囲だけ、空気が微かに揺らめいている。それは強い記憶の残滓。俺は音もなく近づき、その肩にそっと手を触れた。

「あなたの感動を、少しだけ分けてはもらえないだろうか」

感情のない、平坦な声だった。老婆はゆっくりと俺を見上げ、その皺深い瞳が、遠い昔を懐かしむように細められた。

第二章 乾いた心の残響

老婆は何も言わず、ただ静かに頷いた。俺は彼女の前に膝をつき、胸に手を当てる。そこには、ガラス細工のような『共鳴する空の器』が埋め込まれ、淡い光を放っていた。俺の存在の核であり、記憶を吸収するための唯一の器官だ。

器が老婆の心と共鳴を始めると、温かい光景が奔流となって俺の中に流れ込んできた。

夕暮れの丘。若き日の彼女と、たくましい腕をした男。彼が差し出した一輪の野花。照れたような笑顔。誓いの言葉。長い歳月を共に歩んだ、穏やかで満ち足りた日々。そして、最期の瞬間の、感謝に濡れた囁き――。

それは、愛という名の、深く、純粋な感動の記憶だった。

記憶を吸収し終えると、俺の透けていた指先が確かな実体を取り戻す。だが、目の前の老婆の瞳からは、最後の光が消え失せていた。彼女は感動を失い、ただ呼吸をするだけの抜け殻のようになった。

俺は立ち上がった。空っぽのはずの胸の奥が、ちくりと痛んだ気がした。感情などないはずなのに。この感覚はなんだ? 俺は奪うだけの存在。それ以上でも、それ以下でもないはずだ。

背後で、老婆が乾いた咳を一つした。俺はその音から逃れるように、再び雑踏の中へと歩き出した。

第三章 理性の都アパテイア

より強い感動を求め、俺は世界の中心と言われる都『アパテイア』を目指した。そこは、枯渇する雫に頼らず、『理性と調和』によって統治されている唯一の場所だと聞いた。

アパテイアは、灰色の巨大な建造物が整然と並ぶ、静寂の街だった。感情の波がないせいか、空気は淀みなく澄んでいるが、奇妙なほど冷たい。人々は皆、同じような無表情で決められた役割をこなし、そこには一切の無駄も争いもなかった。しかし、生命の輝きと呼べるものもまた、どこにも見当たらなかった。

ここで感動の記憶を見つけるのは絶望的かと思われた。俺の身体は再び薄れ始め、存在の輪郭が曖昧になっていく。

その時だった。

「お前さん、探しておったぞ」

しわがれた声に振り返ると、天文台の古びた扉から、星図の刺繍が施されたローブを纏った老人が現れた。彼はエリオと名乗り、世界の理を読み解く『星詠み』だという。

「その胸の器…それは『空ろ』ではない。むしろ、始まりの全てを宿しておる」

エリオの瞳は、まるで俺の存在の奥底まで見透かしているかのように、深く澄んでいた。

第四章 共鳴する空の器

エリオは俺を天文台の中へと招き入れた。そこは、古い羊皮紙の匂いと、微かなインクの香りに満ちていた。彼は巨大な天球儀をゆっくりと回しながら、世界の成り立ちについて語り始めた。

「この世界は、かつて『感動』という強大な力で満ち溢れておった。喜び、悲しみ、愛、怒り…その力の奔流が『情感の雫』を生み、世界を育んでいた。だが、その力はあまりに不安定で、多くの争いと悲劇もまた生み出したのだ」

エリオは俺の胸の器に視線を落とす。

「世界は、次の段階へ移行しようとしておる。感情という揺らぎから解放された、『理性と調和』の時代へ。雫の枯渇は、そのための必然なのだよ」

「では、俺の存在は…?」

俺は思わず問いかけていた。俺は感動を糧とする。世界が感動を捨てるなら、俺は…。

「君の存在こそが、この移行を完了させるための鍵なのだ」

エリオの言葉は、俺の存在意義を根底から揺るがした。俺は、消えゆく古い世界の遺物だというのか? 焦燥感が、これまで感じたことのないほど強く俺を苛んだ。もっと感動を、もっと強い記憶を。さもなければ、俺は、俺という不確かな存在は、完全に消滅してしまう。

第五章 始まりの泉で知る真実

世界は、終わりの時を迎えようとしていた。大地は乾ききってひび割れ、空は色を失い、まるで古い絵画のように白茶けていた。俺の身体はほとんど透き通り、風が吹けば霧散してしまいそうだった。

エリオは、そんな俺を連れてアパテイアの最深部、『始まりの泉』へと向かった。そこは、かつて情感の雫が最初に生まれたとされる聖地だったが、今やただの乾いた窪地でしかなかった。

「カイ」

エリオは初めて俺を名で呼んだ。俺に名はなかったはずだが、その響きは不思議と馴染んだ。

「君はずっと、自分を空っぽの器だと思ってきただろう。だが、それは違う」

老賢者は震える手で、俺の胸の『器』にそっと触れた。その瞬間、温かい光が器から溢れ出し、俺の脳裏に一つの映像が焼き付いた。

――生まれたばかりの世界。まだ何もなく、ただ静寂だけが広がっている。そこに、最初の生命が芽生え、太陽の光を浴びた。その瞬間、名状しがたい歓喜が世界に満ち、一粒の美しい涙が零れ落ちた。

「それは、世界が自らの誕生に『感動』した、最初の涙だ」

エリオの声が響く。

「その涙が結晶化したものこそ、君の胸にある『器』であり、君という存在そのものなのだ。君こそが、この世界の『感動』の具現。だから、世界が感動から離れると共に、君は消えなければならない。それが、君の使命なのだよ」

残酷な真実だった。俺の消滅こそが、世界の救済。俺は、古い世界を終わらせるための、ただの装置に過ぎなかった。

第六章 無数の感動、唯一の涙

運命を受け入れるしかなかった。泉の中央に立った俺の身体は、足元からゆっくりと光の粒子に変わり始めていた。

消えゆく意識の中、これまで吸収してきた無数の記憶が、奔流となって俺の内側で輝きだした。老婆の愛の記憶。戦士の誇りの記憶。芸術家の創造の記憶。子供の純粋な喜びの記憶。それらはもはや他人のものではなかった。愛しさ、悲しさ、誇らしさ、喜び、切なさ――全ての感情が溶け合い、一つの巨大な奔流となって、空っぽだったはずの俺を満たしていく。

ああ、そうか。これが、『感動』か。

俺は、生まれて初めて理解した。そして、生まれて初めて、自らの意思で微笑んだ。

それは、無数の誰かの記憶から生まれた、俺自身の、たった一度の表情だった。

胸の結晶が、まばゆいほどの光を放ち、甲高い音を立てて砕け散る。俺の身体は完全に光の粒子となり、天へと舞い上がった。俺という『感動』の存在は、その役目を終えて世界から消え去った。

第七章 新しい世界の種子

光の粒子は、静かに大地へと降り注いだ。そして、乾いた泉の底に、一粒の小さな『種』を残した。

世界は新しい朝を迎えた。そこは『理性と調和』に満ちた、穏やかで静かな世界だった。感情の大きな波はもうない。だが、人々は争うことなく、穏やかに互いを尊重し合って生きていた。世界は、安定という形で存続したのだ。

幾年かの歳月が流れた。

新しい世界の片隅の街で、一人の少年が暮らしていた。彼には過去の記憶がなかったが、いつも穏やかな心で日々を過ごしていた。

ある日の午後、少年は道端に咲く、名もない一輪の青い花に気づく。なぜか目が離せなかった。風に揺れるその健気な姿を見つめていると、胸の奥が、きゅうっと温かくなった。理由のわからない涙が、一筋だけ頬を伝った。

少年は、自分の胸にそっと手を当てる。そこには、淡く光る痣のようなものが、確かにあるのだった。

彼はまだ知らない。彼自身の存在が、この静かな世界に『感動』という名の小さな種を、静かに、そして永遠に播き続けるのだということを。


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