記憶の味を紡ぐ古書店

記憶の味を紡ぐ古書店

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第一章 雨の日の来訪者と奇妙な依頼

神保町の裏路地にひっそりと佇む『蒼井古書店』の主、蒼井湊(あおい みなと)には、生まれついての秘密があった。彼には、他人が長く触れた物に宿る「記憶の味」を感じる力があったのだ。それは文字通りの味覚だった。喜びは蜂蜜のように甘く、悲しみは焦げたパンのように苦い。怒りは唐辛子のように舌を刺し、後悔は錆びた鉄の味がした。

この能力のせいで、湊は他人の生々しい感情の奔流に常に晒されてきた。他者との接触は、未知の料理を無理やり口に詰め込まれるようなもの。次第に彼は人との深い関わりを避け、埃と静寂が支配するこの古書店の奥で、本の背表紙を眺めて過ごすことが日常となっていた。

だから、その老婦人が店のドアベルを鳴らした時、湊は一瞬、身を硬くした。しとしとと降る初夏の雨が、ガラス窓を伝って筋を描いている。傘から滴る雫で床を濡らしながら店に入ってきた老婦人は、背筋をしゃんと伸ばし、気品のある佇まいをしていた。

「いらっしゃいませ」

感情を排した声で応対する湊に、老婦人は柔和な笑みを向けた。そして、大切そうに抱えていた風呂敷包みを解き、中から一冊の古びた絵本を取り出した。

「これを、お願いしたいのです」

表紙は色褪せ、角は丸くすり減っている。湊が受け取ろうと手を伸ばすと、老婦人はそれを制した。

「いえ、買取りではありませんの。……奇妙なお願いだとは重々承知の上なのですが」

老婦人は一度言葉を切り、湊の目をまっすぐに見つめた。その瞳の奥には、深い悲しみと、それでも消えない一条の光のようなものが揺らめいていた。

「この本に残された、最後の『味』を、教えてはいただけませんでしょうか」

湊は息を呑んだ。『味』。彼女は、湊の能力を知っているのだろうか。いや、そんなはずはない。これはきっと、比喩的な表現だ。そう自身に言い聞かせようとしたが、老婦人の言葉はあまりにも確信に満ちていた。

「噂で聞きましてね。この店の主は、物に宿る記憶を味わうことができると。……馬鹿げた話だとお思いでしょう。でも、私にはもう、これしか縋るものがないのです」

湊は言葉を失った。ひた隠しにしてきた能力が、どこからか漏れていた。警戒心と好奇心が胸の中でせめぎ合う。いつもなら丁重に断るところだ。しかし、目の前の老婦人が放つ、雨上がりの土のような、切実で清らかな匂いに、彼はなぜか抗うことができなかった。

「……分かりました。お引き受けします」

気づけば、湊はそう答えていた。老婦人の顔が、ぱっと花が咲くように明るくなった。その笑顔は、湊が長い間忘れていた、温かい陽だまりの味を微かに感じさせた。

第二章 絵本が語る甘美な追憶

老婦人は、藤乃(ふじの)と名乗った。彼女が持ってきた絵本『星降りの夜の小さな船』は、亡き夫、正一(しょういち)との思い出の品だという。

「主人が、プロポーズの時にくれたものなのです。下手くそな字で、『この船で、一緒に人生の海を渡ってください』なんて書いてあって」

藤乃は懐かしそうに目を細めた。湊はカウンターの奥にある作業机に絵本を置き、指先をそっと表紙に触れさせた。

途端に、口の中に微かな甘みが広がった。それは、緊張と期待が入り混じった、熟れる前の果実のような味。若き日の正一の、はち切れそうな恋心の味だった。湊は、その味を辿るように、ページを一枚、また一枚とゆっくりめくっていく。

最初のページは、レモンキャンディのように甘酸っぱい初恋の味。公園のベンチで初めて交わした会話、ぎこちなく繋いだ手の温かさ。湊の口の中に、青春のきらめきが弾けた。

「……公園の、大きな銀杏の木の下でしたか」

湊がぽつりと呟くと、藤乃は驚いたように目を見開いた。

「ええ、ええ!よくご存知で。秋になると、そこは一面、黄金色の絨毯になるんですよ」

藤乃は嬉しそうに、当時の思い出を語り始めた。湊が味わう記憶と、藤乃の言葉が重なり合い、物語はより一層、鮮やかな色彩を帯びていく。

中盤のページは、焼きたてのパンのような、温かく香ばしい日常の味がした。小さなアパートでの新婚生活、共に囲む食卓、些細なことで笑い合った日々。時には、焦げ付いたシチューのような喧嘩の味もしたが、すぐに雨上がりの虹のような、仲直りの優しい甘さがそれを包み込んだ。湊は、まるで自分自身がその幸せな時間を生きてきたかのような錯覚に陥った。これまで忌み嫌ってきた能力が、こんなにも温かい形で誰かの心を慰めることができる。その事実は、湊の頑なだった心を少しずつ溶かしていった。

湊は、藤乃の人生という極上の物語を味わう、一人の読者になっていた。ページをめくるごとに深まる愛情の味。子供には恵まれなかったが、二人で寄り添い、歳を重ねていく日々の穏やかな味は、上質な和三盆のように繊細で、後を引く甘さがあった。

しかし、物語が終わりに近づくにつれて、味は徐々に変化していく。苦い薬の味。消毒液の匂い。そして、なによりも、愛する人を失うことへの恐怖が、じわりと舌に染み渡る塩辛い味となって広がった。正一が病に倒れたのだ。

「主人は最後まで、弱音一つ吐きませんでした。いつも私の体を気遣って、『大丈夫だよ』と笑っていました」

藤乃の声が震える。湊もまた、その記憶の味に胸を締め付けられていた。最後のページをめくるのが、少し怖かった。

第三章 最後のページの苦い真実

湊は深呼吸を一つして、最後のページに指を置いた。藤乃が知りたがっていた、最後の『味』。それはきっと、夫への感謝と、来世での再会を願う、温かくも切ない、愛の集大成のような味のはずだ。湊はそう信じていた。

しかし、指先がページに触れた瞬間、彼の全身を凄まじい衝撃が貫いた。

口の中に広がったのは、温かい感謝の味ではなかった。それは、舌が痺れるほどに強烈な、**『後悔』**の味。そして、その奥には、インクと紙が混じり合ったような、無機質で空虚な**『虚構』**の味が、どろりと絡みついていた。

「……っ!」

湊は思わず指を離した。何だ、これは。今まで味わってきた温かい記憶は、どこへ行ったのだ。混乱する湊の脳裏に、断片的な映像が流れ込んでくる。

それは、病院の白い天井だった。降りしきる雨の音。タクシーが捕まらず、必死で走る藤乃の姿。息を切らして病室にたどり着いた時、そこに横たわる正一は、もう言葉を発することはできなかった。穏やかな最期などではなかった。間に合わなかったのだ。夫の最期の言葉を聞くことができなかった。それが、この絵本に刻まれた、あまりにも苦い真実の味だった。

では、今まで味わってきた甘美な追憶は、一体何だったのか。湊は愕然とした。あれは、藤乃が「そうであってほしかった」と、何十年もの間、この絵本を撫で、祈り、語り聞かせることで**自ら創り上げた、偽りの記憶の味**だったのだ。彼女の強い願いが、インクのように紙に染み込み、上書きされ、美しい物語を形成していた。しかし、最後のページにだけは、拭い去ることのできない、たった一つの「真実」が、苦い澱のように沈殿していた。

湊は顔を上げられない。藤乃がどんな顔で自分を見ているのか、確かめるのが怖かった。

「……どう、でしたか」

静寂を破ったのは、藤乃のかすれた声だった。その声には、長年抱えてきた重荷をようやく下ろせるかもしれないという、かすかな期待が滲んでいた。彼女は、おそらく気づいていたのだ。自分の記憶が、美しい嘘で塗り固められていることに。そして、その嘘を確認するために、最後の審判を求めて、この店にやって来たのだ。

湊は唇を噛み締めた。真実を告げるべきか。彼女が創り上げた美しい物語を、この一言で粉々に打ち砕いてしまうのか。それとも――。

第四章 優しい嘘と光の在処

湊は、ゆっくりと顔を上げた。目の前の藤乃は、まるで判決を待つ被告人のように、固く目を閉じ、両手を膝の上で握りしめている。その指先が、小さく震えていた。彼女の顔に刻まれた深い皺の一つ一つが、長い年月の苦悩を物語っているように見えた。

湊の脳裏に、これまで味わってきた数々の記憶が蘇る。レモンキャンディの初恋。焼きたてのパンの日常。そして、最後のページの、身を切るような後悔の味。それら全てが、藤乃という一人の人間の、愛の形なのだと湊は思った。真実だけが、全てではない。人が生きていくためには、時に美しい物語が必要なのだ。

彼は、生まれて初めて、自分の能力を、真実を暴くためではなく、人を救うために使おうと決意した。

「最後の味は……」

湊は、言葉を選びながら、静かに語り始めた。

「今まで味わったどの記憶よりも、温かくて、優しい味がしました。それは、深い感謝の味です。『君と出会えて、最高の人生だった。ありがとう』……ご主人は、そう伝えたがっているように感じました。そして、ほんの少しだけ、甘い金平糖のような味が混じっています。きっと、天国であなたを待っている間の、楽しみの味ですよ」

それは、完全な嘘だった。湊が自らの想像力で紡ぎ出した、ありもしない味。しかし、彼の言葉には、藤乃の創り出した物語への最大限の敬意と、彼女の人生を肯定したいという強い願いが込められていた。

湊の言葉を聞き終えると、藤乃の閉じた瞼から、一筋の涙が静かに流れ落ちた。それは、安堵の涙だった。彼女はゆっくりと目を開け、湊に向かって、心の底から微笑んだ。その笑顔は、雨上がりの空に架かる、七色の虹のように美しかった。

「……ありがとう。本当に、ありがとう」

藤乃は深く頭を下げ、絵本を再び大切そうに風呂敷で包むと、静かに店を去っていった。ドアベルがちりんと鳴り、店にはまた元の静寂が戻った。

一人残された湊は、窓の外に目をやった。いつの間にか雨は上がり、雲の切れ間から、柔らかな西陽が差し込んでいる。その光は、古書の背表紙を優しく照らし、空気中を舞う埃をキラキラと輝かせていた。

湊は、自分の手のひらを見つめた。この手は、他人のどす黒い感情に触れ、心をすり減らすためだけにあるのだと思っていた。しかし、そうではなかった。この手は、誰かの物語に寄り添い、優しい嘘を紡ぎ、人の心に小さな光を灯すこともできるのだ。

彼は初めて、自分の忌まわしい能力を、呪いではなく、一つの個性として受け入れることができた。世界はまだ、苦くて辛い味で満ちているかもしれない。しかし、その中にはきっと、今日味わったような、誰かを想う心が創り出す、温かくて優しい味も隠されているはずだ。

湊は、店の入り口に掛けられた『準備中』の札を、そっと『営業中』に裏返した。明日、また誰かが、それぞれの物語を持ってこの店の扉を叩くかもしれない。その時を、彼は少しだけ、楽しみに待っている自分に気づいていた。

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