第一章 記憶のインク
水野蓮(みずの れん)の時間は、濁った水底のように淀んでいた。グラフィックデザイナーとして昼夜なくモニターと向き合う日々は、彼の色彩感覚を麻痺させ、世界をくすんだグレーに見せていた。三ヶ月前、唯一の肉親だった祖父・宗一郎が亡くなった。多忙を理由に、危篤の報せを受けても病院へ駆けつけられなかった後悔が、心の底に重たい鉛となって沈んでいる。
週末、蓮は初めて祖父が遺した古い一軒家の整理に訪れた。埃っぽい書斎の引き出しの奥から、一本の古びた万年筆を見つけた。深い瑠璃色の軸に、銀細工のキャップ。手に取ると、ひんやりとした重みが心地よい。インクは入っていないようだったが、なぜか強く惹きつけられた。
リビングに戻り、整理のために広げていたノートの隅に、何気なくその万年筆を走らせた。乾いたペン先が紙を引っ掻くだけだろう。そう思って、自分の名前『蓮』と書いた、その瞬間だった。
世界が、ぐにゃりと歪んだ。
目の前の散らかった部屋が消え、むせ返るような夏の夜の匂いと、けたたましい祭囃子が鼓膜を揺さぶった。隣には、自分よりずっと若く、がっしりとした手のひら。見上げると、知らない男が自分に向かって笑いかけている。いや、知っている。写真で見た、若き日の祖父・宗一郎だ。
「蓮、迷子になるなよ」
その声は、自分の名前を呼んでいるようで、そうではない。祖父は、幼い自分の父親の手を引いていたのだ。金魚すくいの屋台の赤い光、りんご飴の甘い香り、人々の熱気。五感の全てが、洪水のように流れ込んでくる。それは、蓮が生まれるずっと前の、祖父の記憶だった。
数秒後、蓮はハッと我に返った。心臓が激しく波打ち、額には汗が滲む。手の中の万年筆を見ると、ペン先から滲み出た淡いインクが、ノートに『蓮』という文字を確かに形作っていた。軸を捻ると、ガラスのインクタンクに、ほんのわずか、瑠璃色の液体が揺らめいているのが見えた。
まさか。この万年筆は、持ち主の記憶を追体験させるのか? 蓮はゴクリと唾を飲み込んだ。有限のインク。それは、祖父の人生そのものが封じ込められた、限られた雫だった。濁っていた蓮の世界に、初めて鮮烈な一滴の色が落ちた。
第二章 万華鏡の日々
その日から、蓮の生活は一変した。仕事から帰ると、彼は逃げ込むように書斎に籠もり、祖父の万年筆を握った。インクを節約するため、書くのはいつも一言だけ。「海」と書けば、潮の香りと共に、祖母となる女性に初めて告白した、夕暮れの砂浜に立った。「桜」と書けば、生まれたばかりの父を抱き、満開の並木道を見上げた日の、頬を撫でる春風を感じた。
蓮は、祖父の人生という万華鏡に完全に魅了されていた。宗一郎という男は、蓮が思っていたよりもずっと情熱的で、悩み、そして深く人を愛する人間だった。蓮は知らなかった祖父の顔を知るたびに、胸が高鳴り、同時に、最期に会えなかった後悔が鋭く疼いた。
追体験する記憶は、どれも輝かしいものばかりだった。陽光に満ち、希望に溢れている。まるで、祖父が人生の最も美しい瞬間だけを、このインクに込めたかのようだった。蓮は、自分の色褪せた現実を忘れるために、その輝きに溺れていった。
「結婚」と書いた夜、蓮は祖父として、白無垢姿の祖母の前に立った。彼女の潤んだ瞳に映る自分を見て、蓮自身の目から涙がこぼれた。それは祖父の感動であり、蓮自身の孤独感が溶けていくような、温かい涙だった。
しかし、至福の時間は、タンクの中のインクが減るたびに、終わりが近づいていることを告げていた。瑠璃色の液体は、見る見るうちに細くなっていく。蓮は焦った。もっと知りたい。もっと祖父を感じていたい。だが、インクが尽きれば、この魔法は終わる。祖父との繋がりが、永遠に失われてしまう。
蓮の心は、甘美な追憶への渇望と、それを失うことへの恐怖とで引き裂かれそうになっていた。彼は、モニターの中の無機質なデザインデータと、万年筆が紡ぎ出す温かい記憶の世界とを、危ういバランスで行き来するようになっていた。現実の時間は、さらに淀みを増していくようだった。
第三章 最後の一滴
インクは、もうあと一滴、二滴分しか残っていなかった。蓮は、最後の追体験に何を望むべきか、何日も悩み続けた。祖父の人生で、最も幸福な瞬間は何だったのだろう。会社を立ち上げた日か。それとも、初孫である自分を抱いた日か。
蓮は、後者を選んだ。自分が生まれた日の記憶を体験すれば、祖父の愛情を最も強く感じられるはずだ。そして、それができれば、会いに行けなかった罪悪感も、少しは和らぐかもしれない。
震える手で、万年筆を握る。ノートの上に、祈るようにペン先を落とし、ゆっくりと『蓮』と、再び自分の名前を書いた。これが最後だ。祖父の最大の喜びを、この目に焼き付けよう。
しかし、流れ込んできた光景は、蓮の期待を無慈悲に粉砕した。
そこは、産院の華やかな光ではなかった。しん、と静まり返った、白い天井の病室。消毒液のツンとした匂いが鼻をつく。蓮は、骨張った手でシーツを握りしめる、痩せ細った祖父になっていた。呼吸が浅く、視界が霞んでいる。体の自由はほとんど効かない。
(あぁ、そうか。これが、最期の記憶…)
蓮は悟った。祖父は、人生の輝かしい記憶ではなく、ただ純粋に、その時々の思いをこの万年筆に込めていただけなのだ。そして、最後の最後に祖父が抱いた最も強い想いは――。
「……れん」
掠れた声が、乾いた唇から漏れた。祖父の意識が、朦朧としながらも必死に一つの名前を呼び続けている。
「れん……会いたいなぁ……」
その声は、願望であり、絶望であり、そして、どうしようもないほどの深い愛情の塊だった。仕事に追われる孫を気遣い、無理に来なくていいと電話口では気丈に振る舞っていた祖父。その裏で、たった一人、病室のベッドで、こんなにも蓮に会いたがっていたのだ。
蓮の頬を、熱い雫が伝った。それは祖父の涙であり、蓮自身の、後悔と嗚咽が入り混じった涙だった。輝かしい記憶の追体験は、所詮、過去を覗き見るだけの行為だった。しかし、この最後の記憶は違った。それは、祖父から蓮個人に向けられた、痛切なメッセージだった。時を超えて、インクの最後の一滴を通して、祖父の魂が叫んでいた。
会いたかった、と。
視界が闇に閉ざされる直前、祖父の口が、かすかに動いた気がした。
『ありがとう』
次の瞬間、蓮は自分の部屋の床に崩れ落ちていた。手の中の万年筆のインクタンクは、完全に空になっていた。
第四章 明日への手紙
万年筆は、沈黙した。何を書こうとも、もう記憶の断片が流れ込んでくることはない。蓮は数日間、抜け殻のようになった。祖父の最後の記憶が、脳裏に焼き付いて離れなかった。後悔が胸を抉り、自分を責め続けた。
だが、涙が枯れ果てた頃、蓮の心に小さな変化が芽生え始めていた。祖父が最期に抱いたのは、蓮への一方的な想いだけだったのだろうか。違う。あの弱々しい声には、絶望だけでなく、孫の未来を案じる温かさも滲んでいた。そして、最後に感じた『ありがとう』という言葉。あれは幻聴だったのか。いや、確かにそう感じた。
蓮は立ち上がった。万年筆に頼り、過去の美しい記憶に浸るのはもう終わりだ。祖父が残してくれたのは、過去への逃避行ではなく、未来を生きるための道標だったのだ。
彼は会社に休暇を申請し、祖父が若き日に告白したという海辺の町へ向かった。潮風に吹かれながら、彼は祖父の記憶をなぞるのではなく、自分の足でその砂浜を歩いた。祖父が通ったという古い喫茶店を訪ね、店の主人から「宗一郎さんは、いつも孫の話を嬉しそうにしていたよ」という話を聞いた。
蓮は、初めて自分の意志で、祖父の生きた証を辿り始めた。それは、万年筆が見せてくれた鮮やかな記憶よりも、ずっと手触りがあり、温かいものだった。人々の中に生きる祖父の思い出に触れるたび、蓮の中で、祖父は過去の記憶の存在から、今も自分を支えてくれる確かな存在へと変わっていった。
東京に戻った蓮は、空になった万年筆を手に取った。そして、新しいノートの最初のページに、万年筆で、インクの出ないペン先を走らせた。そこに文字は現れない。だが、彼は心の中で、はっきりと文字を綴った。
『おじいちゃん、ありがとう。僕は、僕の時間を生きます』
それは、過去への返信であり、未来の自分への約束だった。
蓮の世界から、グレーのフィルターが剥がれ落ちていく。窓から差し込む夕日は燃えるようなオレンジ色で、街のネオンは宝石のように煌めいていた。失われた色彩が、ゆっくりと、しかし確実に彼の世界に戻りつつあった。
蓮は、空になった玻璃色の万年筆を、そっと胸ポケットにしまった。それはもう記憶を映し出す魔法の道具ではない。だが、愛する人の想いを胸に、明日へ向かうための、世界で一番大切なお守りだった。