第一章 重力の囚人
古物商『時のかけら』の店主、相沢一真(かずま)の朝は、いつも鉛を引きずるような重さから始まる。それは比喩ではない。彼にとって、後悔や悲しみは物理的な質量を持ち、その身に重力となってのしかかる。この世界では、強い感情が人の体を重くも軽くもさせた。そして一真は、間違いなく「重い」人間だった。
ベッドから起き上がるだけで、深海から浮上する潜水士のような努力がいる。床に足をつければ、ぎしりと木が軋む音は、まるで家全体が彼の重さに悲鳴を上げているかのようだ。Tシャツ一枚、ジーンズ一本ですら、まるで鎖帷子(くさりかたびら)のように肌に食い込む。十年前に犯した、取り返しのつかない過ち。その記憶が、彼の肩に、背中に、足首に、見えない鉄塊となってまとわりついているのだ。
店を開け、埃っぽい空気の中に差し込む朝の光を浴びても、心は晴れない。カウンターに並ぶ古時計の針の音だけが、停滞した彼の時間をせかすように響いていた。一真は、客が持ち込む古い品々を修理することで、かろうじて生計を立てていた。物に宿る他人の記憶、その重さや軽さを感じ取れる彼は、この仕事に妙な適性があったのだ。持ち主の愛情をたっぷり受けてきた品は羽のように軽く、悲しい別れを経験した品はずしりと重い。彼は、その手触りだけで、物の来歴を言い当てることができた。
その日、店のドアベルがちりん、と乾いた音を立てた。入ってきたのは、背中の丸まった小柄な老婆だった。手には、褪せたビロードの布に包まれた小さな箱を抱えている。
「すみません、これ……直していただけないでしょうか」
老婆がカウンターに置いたのは、細かな装飾が施された木製のオルゴールだった。一真は無言でそれを受け取る。そして、指が触れた瞬間、息を呑んだ。
軽い。
まるで中身が空洞であるかのように、ありえないほど軽かった。これまで触れてきたどんな「幸せな物」とも違う、まるで重力そのものから解放されたかのような、奇妙な浮遊感。しかし、その軽さとは裏腹に、オルゴールのゼンマイは固く巻かれず、沈黙を保ったままだった。
「亡くなった孫娘の、たった一つの形見でして……。どうしても、もう一度この音色が聴きたいのです」
老婆の目には、深い悲しみの色と、すがるような光が揺れていた。
一真は、自分の体を縛り付ける重力に抗うように、ゆっくりと頷いた。この不可解な軽さの正体を、どうしても突き止めたかった。それは、重さに沈む彼にとって、一筋の光のように思えたからだった。
第二章 軽いオルゴールの謎
オルゴールの分解は、慎重を極めた。一真は、拡大鏡を覗き込み、ピンセットを巧みに操りながら、複雑に絡み合った機械部品を一つひとつ外していく。埃と古い油の匂いが、彼の鼻腔をくすぐった。木製の筐体、櫛歯(くしは)、シリンダー。どれもが年代物で、繊細な均衡の上で成り立っている。
作業を進めるほどに、謎は深まった。部品のどれもが、あの奇妙な「軽さ」を放っている。まるで、幸福な記憶の粒子が隅々にまで染み渡っているかのようだ。しかし、櫛歯の一本が根元から折れ、シリンダーのピンも数本が歪んでいた。これでは音が鳴るはずもない。物理的な破損と、感情的な「軽さ」。その矛盾が一真を苛んだ。
彼は、この道数十年の師である時計職人のもとを訪ねることにした。街外れにある工房の扉を開けると、無数の歯車の音と油の匂いが一真を迎えた。
「珍しいな、お前が人様を頼るとは」
白髪を後ろで束ねた老職人、田所は、一真が差し出したオルゴールを一瞥すると、興味深そうに眉を上げた。
「ほう……これは」
田所は皺だらけの指でそっとオルゴールに触れると、ふむ、と唸った。「記憶が飽和しておる。喜びという感情で満ち満ちて、質量を失いかけているようだ。こんな品はわしも初めて見る」
「でも、壊れています。こんなに幸せな記憶が詰まっているのに、なぜ?」
一真の問いに、田所はゆっくりと首を振った。
「物と心は、いつも理屈通りにいくわけじゃない。強い想いは、時に物を強くし、時に物を壊しもする。……それより一真、お前のその『重さ』は、まだ取れんのか」
田所の言葉が一真の胸に突き刺さる。彼の重さの原因は、十年前の夏祭りの夜にあった。幼馴染だった少女、美咲との約束。必死で作ったガラス細工のトンボを渡すはずが、些細なことで喧嘩になり、彼は自暴自棄になってそれを地面に叩きつけてしまったのだ。泣きじゃくる美咲の顔と、砕け散ったガラスの煌めき。その光景が、今も彼の体を重く縛り付けている。彼女を深く傷つけたという後悔が、彼の魂の錨だった。
工房からの帰り道、夕日が影を長く伸ばしていた。自分の影が、まるで地面に溶け込んだコールタールのように濃く、重く見える。あのオルゴールには、誰の、どんな喜びが詰まっているのだろう。自分とは無縁の、その眩しい軽さに焦がれながら、一真は再び修理作業へと戻るのだった。
第三章 記憶の欠片と偽りの後悔
オルゴールの心臓部であるシリンダーを慎重に取り外した時、何かがからりと音を立てて転がり出た。それは、シリンダーの内部に隠されていた、米粒ほどに丸められた古い紙片だった。一真はピンセットでそっとそれを広げる。古びた紙には、インクが滲んだ、見覚えのある拙い文字が記されていた。
『かずまくんへ。ありがとう。ずっとたいせつにするね』
全身の血が凍りつくような感覚に襲われた。これは、美咲の字だ。間違いない。小学生の頃、彼女が交換日記に書いていたのと同じ、少しだけ右肩上がりの、優しい文字。
なぜ。なぜ、彼女のメッセージがこのオルゴールの中に?
混乱する頭で、一真はもう一度、折れた櫛歯と歪んだピンを検分した。そして、彼は信じがたい事実に気づく。折れた櫛歯の根元には、不自然な接着剤の跡があった。そして、その折れた破片の代わりに、シリンダーのピンが当たるべき場所に取り付けられていたのは、見覚えのある蒼いガラスの欠片だった。
十年前の夏祭り。彼が地面に叩きつけて砕け散った、あのガラス細工のトンボの羽の一部だった。
何が何だか分からなかった。自分は彼女を裏切り、彼女の大切なものを壊したはずだ。それなのに、なぜ彼女からの感謝の言葉がここにある? なぜ、壊したはずの贈り物が、このオルゴールの一部になっている? 彼が十年もの間、背負い続けてきた「重い」後悔は、一体何だったというのか。
一真は、店を飛び出した。息を切らし、まるで重力に逆らうように必死で足を動かし、あの老婆の家へと向かった。ドアを叩く指が震える。
「……どうなさいました、そんなに慌てて」
穏やかな表情で現れた老婆に、一真はオルゴールと紙片を突き出した。
「これは……これは、どういうことですか! なぜ、美咲の字が……」
老婆は、一真の言葉に驚くでもなく、ただ静かに彼を家の中へと招き入れた。そして、古びたアルバムを開き、一枚の写真を指差した。そこには、はにかみながら笑う少女が写っていた。十年前の、美咲だった。
「あの子は、私の孫です」
老婆は、静かに語り始めた。
「あの夏祭りの夜、あの子は泣きながら帰ってきました。あなたが作ったトンボが壊れてしまった、と。でもね、あの子はあなたのことを一度も責めなかった。喧嘩してしまった自分も悪いんだって。そして、こっそりあの場所に戻って、砕けたガラスの欠片を一つひとつ拾い集めてきたんですよ」
老婆の言葉が、一真の心臓を鷲掴みにする。
「美咲は、そのガラスの欠片を宝物にしていました。そして、私が大切にしていたこのオルゴールが壊れてしまった時、あの子、自分で直そうとしたんです。あなたのくれたガラスを使って、折れた櫛歯の代わりにすれば、また音が鳴るかもしれないって……。この手紙は、その時に、あなたへの感謝を込めて、中に入れたんでしょうね」
美咲は、その数年後、長く患っていた病気で、静かにこの世を去ったのだという。
「あの子は、あなたの不器用な優しさを、ずっと信じていましたよ。あなたを傷つけたと、自分を責めていたのは、きっと、あなたの方だけだったんでしょうね……」
第四章 解き放たれる旋律
一真は、言葉を失って立ち尽くしていた。十年という歳月をかけて、彼の全身に染み付いていた重さ。その正体は、美咲を傷つけたことへの後悔ではなかった。彼女の優しさに気づけず、自分勝手な罪悪感に溺れていただけの一人よがりの勘違い。それが、彼を縛り付けていた重力の正体だった。偽りの後悔が、彼を地面に縫い付けていたのだ。
涙が、頬を伝った。それは、悲しみの涙ではなかった。あまりにも温かく、そしてあまりにも切ない真実に触れた、魂が震えるような涙だった。美咲は、彼を恨んでなどいなかった。それどころか、彼の贈り物を、彼の心を、最後まで大切にしてくれていた。
店に戻った一真は、まるで祈るようにオルゴールの修理を再開した。美咲が遺したガラスの欠片を大切に避け、田所師に作ってもらった新しい櫛歯を正確に取り付ける。歪んだピンを一本一本、丁寧に元の位置に戻していく。すべての作業を終え、彼は震える指でゼンマイを巻いた。
カチ、カチ、という小さな音の後、オルゴールから澄んだメロディが流れ出した。それは、子供の頃、美咲と二人でよく口ずさんでいた、古い童謡の旋律だった。
優しい音色が店内に満ちた瞬間、一真は信じられない感覚に包まれた。
ふわり、と体が浮き上がるような、圧倒的な解放感。長年彼を苛んできた物理的な「重さ」が、雪が溶けるように消えていく。肩が軽い。足が軽い。呼吸が、驚くほど楽になっている。十年ぶりに、彼は自分の体の重さを忘れ、ただそこに立つことができた。
美咲の赦しが、彼女の変わらない想いが、ついに彼を重力の呪縛から解き放ったのだ。
翌日、一真は完璧に修理されたオルゴールを老婆の元へ届けた。老婆は、涙を浮かべながらその音色に耳を傾け、何度も「ありがとう」と繰り返した。一真は深々と頭を下げ、彼女の家を後にした。
帰り道、空はどこまでも青く、吹き抜ける風は心地よかった。昨日までとは、世界の何もかもが違って見えた。足取りは羽のように軽い。彼は空を見上げた。もうそこにはいない美咲の笑顔が、浮かんだような気がした。
失ったものは戻らない。時間は巻き戻せない。けれど、遺された想いが、人を救うことがある。一真は、これからはこの軽い体で、誰かの心の重荷を少しでも軽くできるような、そんな古物商になろうと心に誓った。彼の足元に伸びる影は、もう地面に縛り付けられてはいなかった。それはただ、光の傍らに寄り添う、穏やかな影だった。