幸福標本士と最後の一日

幸福標本士と最後の一日

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***第一章 空ろな採光師***

カイの仕事は、死者の記憶から「幸福」を切り出し、結晶化させることだった。人々は彼を「記憶標本士(メモリア・マイスター)」と呼ぶ。人がその生を終えるとき、最も輝かしい一日を「記憶の標本(メモリア・クリスタル)」として遺すことが、この時代では最後の贅沢であり、最高の弔いとされていた。

カイの工房は、街外れの古い時計塔の最上階にあった。磨き上げられた無数のレンズと、銀色の配線が張り巡らされた施術椅子が、部屋の中央に鎮座している。彼は依頼人の脳内に保存された膨大な記憶データに精神を同調させ、その光景の中へと潜っていく。まるで深海に眠る真珠を探す潜水夫のように、彼は人生という名の海を泳ぎ、最も純粋で強い光を放つ一瞬を探し当てるのだ。

「……見つけた」

カイは静かに呟くと、意識を現実へと引き戻した。目の前のディスプレイには、ある老人の記憶が映し出されている。孫娘の結婚式。涙ぐみながらヴァージンロードを歩く娘を見つめる、誇らしさと寂しさが入り混じった一瞬。カイは寸分の狂いもなくその感情の波形を捉え、特殊な結晶化装置へと転送する。やがて、装置から手のひらサイズのクリスタルが吐き出された。それは夕焼けのような、温かい橙色に輝いていた。

完璧な仕事だった。遺族はきっと満足するだろう。しかし、カイの心にはいつものように、静かで冷たい虚無感が広がっていた。彼は他人の幸福を誰よりも間近で見つめ、それに触れることができる。しかし、彼自身はその温かさを、本当の意味で理解したことがなかった。幼い頃の事故で過去の記憶の一切を失った彼にとって、「幸福」とは、書物の上の定義か、依頼人の記憶から垣間見える、手の届かない光の断片でしかなかったのだ。

そんなある日の午後、工房の呼び鈴が鳴った。ドアを開けると、そこに立っていたのは、細い銀髪を丁寧にまとめ、穏やかな微笑みを浮かべた一人の老婆だった。エマと名乗る彼女は、余命宣告を受けたのだと、まるで天気の話でもするかのように淡々と告げた。そして、彼女自身の「記憶の標本」の作成をカイに依頼した。

「標本にしてほしい一日は、決まっておりますの」
エマは、窓の外を眺めながら言った。
「息子と二人で出かけた、森でのピクニックの日。……ただ、それだけでございます」

具体的な日付も、特別な出来事も語られない。あまりに曖昧な依頼だったが、カイは彼女の澄んだ瞳の奥に、何か強い意志のようなものを感じ取り、その仕事を引き受けることにした。それが、自身の空っぽの心を根底から揺るがすことになる旅の始まりだとは、まだ知る由もなかった。

***第二章 緑玉色のデジャヴ***

エマの記憶への最初のダイブは、驚くほど穏やかな光景から始まった。

カイの意識が着地したのは、木漏れ日が若葉の上で踊る、初夏の森だった。風が頬を撫でる感触、土と草いきれの匂い、遠くで響くカッコウの鳴き声。五感に流れ込んでくる情報が、作り物ではない過去の真実であることを告げている。

視線を動かすと、チェック柄のレジャーシートの上で、若き日のエマが小さな男の子にサンドイッチを手渡していた。少年はまだ五、六歳だろうか。栗色の髪を風になびかせ、母親の顔を無邪気に見上げている。

「おいしい?」
「うん! ママのたまごサンド、世界一!」

屈託のない笑顔と、それを見つめる母親の慈愛に満ちた眼差し。それは紛れもなく、幸福の典型的な光景だった。カイは標本士としての冷静な目で、その一日を観察し始めた。蝶を追いかけて転ぶ少年の笑い声。小川で二人で見つけた、キラキラ光る石。疲れて母親の膝の上で眠ってしまった少年の、穏やかな寝息。

どの瞬間を切り取っても、美しい標本になるだろう。だが、カイは微かな違和感を覚えていた。記憶の中のエマは、時折、息子から見えない角度で、ふっと表情を曇らせるのだ。それは悲しみとも、諦めともつかない、複雑な感情の影だった。幸福なはずの一日に、なぜこんな陰りが存在するのか。純粋な幸福の結晶を作るためには、この陰りの正体を突き止めなければならない。

カイはその後、何度も同じ一日にダイブを繰り返した。時間を進め、巻き戻し、様々な角度からその日を検証する。しかし、陰りの理由は分からないままだった。少年が無邪気であればあるほど、エマの眼差しの奥に潜む切なさは、カイの心を静かにかき乱した。

「なぜだ……」

現実の工房で、カイは頭を抱えた。このままでは、彼女が望む「本当の幸福」を形にすることはできない。焦りが募る中、彼はひとつの禁じ手に手を出すことを決意した。通常、標本士は客観的な観察者に徹する。しかし、彼は今回、記憶の中の「少年」の視点に、深く同化してみることにしたのだ。それは術者の精神に大きな負荷をかける危険な行為だったが、真実を知るためには、それしか方法がないように思えた。

再び、森の光景が広がる。だが、今度の世界は違って見えた。すべてが鮮やかで、大きく、驚きに満ちていた。母親の笑顔は絶対的な安心感をくれる太陽で、彼女が握ってくれる手は、世界で一番温かい場所だった。カイは、自分が忘れていたはずの子供時代の感覚に、戸惑いながらも心を奪われていた。

その時だった。蝶を追いかけていた少年が、木の根に足を取られて勢いよく転んだ。膝から血が滲む。途端に、世界が不安の色に染まった。

「大丈夫?」

若きエマが駆け寄り、優しく彼を抱き起こす。そして、擦りむいた膝に、そっと息を吹きかけた。

――フゥッ。

その温かい息が肌に触れた瞬間、カイの脳裏に、雷が落ちたような衝撃が走った。忘却の彼方に沈んでいたはずの扉が、凄まじい音を立てて開かれる。消毒液のツンとした匂い。白い天井。そして、耳の奥で木霊する、聞いたことのない、しかし懐かしい声。

『大丈夫よ、カイ』

……カイ?
少年の名前は、レオではなかったのか? いや、違う。記憶の中で、誰も彼の名前を呼んではいなかった。レオというのは、自分が勝手に付けた仮の名だ。

――じゃあ、この少年は。この、母親の温もりを全身で感じているこの子供は。

混乱する思考の果てに、一つの残酷な真実が形を結んだ。
この少年は、記憶を失う前の、幼い日の自分自身だった。

***第三章 最後のピクニック***

現実世界に引き戻されたカイは、施術椅子の上で激しく喘いでいた。冷たい汗が背中を伝い、心臓が肋骨を突き破らんばかりに鼓動している。

エマは、自分の母親だった。

信じられない、信じたくない事実が、彼の空っぽだった心に激流となって流れ込んでくる。なぜ? 事故で両親は亡くなったと、施設でそう聞かされて育った。なぜ母は生きていた? なぜ自分を名乗り出ず、遠くから見ているだけだったんだ? 怒り、悲しみ、そして裏切られたという感情が、カイの中で渦を巻いた。

彼は震える手で装置を操作し、三度、あの日の記憶へとダイブした。今度は、憎しみすら覚える「母親」の視点に同化するためだ。彼女の目で見た世界で、その裏切りの理由を暴き出してやろう。そう、心に誓って。

再び、緑の森。だが、今度は若きエマの視界が広がっていた。目の前には、愛しい息子の姿。彼の一挙手一投足が、胸を締め付けるほどの愛おしさで満たされている。カイは、彼女の心から流れ込んでくる、深く、純粋な愛情に戸惑いを隠せない。こんなにも自分は愛されていたのか。

時間は流れ、楽しいピクニックは終わりを告げる。帰り道、息子は疲れて彼女の背中で眠っていた。穏やかな寝息が首筋をくすぐる。その背中の温もりに、エマの心は幸福で満たされていた。カイもまた、その温かい感情に包まれ、怒りが少しずつ溶けていくのを感じていた。

だが、その幸福は、唐突に断ち切られた。

緩やかなカーブを曲がった瞬間、対向車線を猛スピードで暴走してくるトラックが視界に飛び込んできたのだ。避けられない。エマは絶叫する間もなく、とっさに背中の息子をかばうように、自分の体を強く丸めた。

――ドンッ!

耳をつんざく金属音と、体を砕くような凄まじい衝撃。そこで、記憶は途切れていた。

カイは、すべてを理解した。あの日が母にとって「最も幸福な一日」だったのは、それが輝かしい一日だったからだけではない。それが、愛する息子と「母親」として過ごすことができた、最後の一日だったからだ。

事故の後、母は重傷を負いながらも一命を取り留めた。しかし、息子は頭を強く打ち、過去の一切を忘れてしまった。医師は言っただろう。強いショックを与えれば、精神が崩壊する危険性がある、と。母は選んだのだ。自分の存在を告げず、息子のそばから消えることを。記憶を失った彼が、過去に縛られず、新しい人生を歩めるように。それは、身を引き裂くような苦しみを伴う、究極の愛の形だった。

ピクニックの最中に時折見せた、あの悲しみの影。その正体は、彼女だけが知っていた、この幸福な時間が永遠には続かないという、残酷な予感だったのかもしれない。

***第四章 幸福の輪郭***

工房を飛び出し、カイはエマが入院している病院へと走った。病室のドアを開けると、彼女はベッドの上で静かに体を起こし、まるで彼が来るのを待っていたかのように、穏やかに微笑んだ。その皺の刻まれた顔は、記憶の中の若き日の面影を残していた。

「……お帰りなさい、カイ」

その一言で、カイの心の堰は決壊した。彼の瞳から、生まれて初めて、熱い涙が止めどなく溢れ出した。それは、失われた時間への悲しみだけではない。自分に向けられていた、あまりにも深く、そして切ない愛情を知ったことへの、感謝の涙だった。彼はベッドのそばに膝をつき、子供のように声を上げて泣いた。エマは、何も言わず、彼の栗色の髪を、記憶の中のあの日のように、優しく、何度も撫で続けた。

工房に戻ったカイは、再び装置に向かった。彼は、母の記憶から標本を創り上げる。それは、ただ明るく輝くだけのクリスタルではなかった。木漏れ日のような暖かな光の中に、彼女の微笑みの裏にあった微かな悲しみの青が混じり、そして何よりも、息子を想う深い愛情が、中心で真珠のような柔らかな光を放っていた。幸福と、そのすぐ隣にある痛みと決別。そのすべてが内包された、複雑で、どこまでも美しい標本が完成した。

カイがそれを病室に届けた数日後、エマは、そのクリスタルを胸に抱きしめながら、安らかに旅立ったという。

季節が巡り、カイは記憶標本士の仕事を続けていた。だが、彼の作る標本は、以前とは全く違うものになっていた。彼はもう、幸福を単なる光の断片として捉えることはなかった。依頼人の人生に宿る喜びも、悲しみも、その後悔さえも、全てを優しく掬い上げ、一つの「物語」として結晶に封じ込めるようになった。彼の作る標本は、見る者の心を深く揺さぶり、いつしか彼は「魂を写す標本士」と呼ばれるようになっていた。

ある晴れた日の午後、カイは工房の窓辺に立ち、母が遺した小さなクリスタルを光にかざした。プリズムのように屈折した光が、部屋の中にいくつもの小さな虹を映し出す。

その虹の光の中に、カイは確かに感じていた。
あの日の森の匂いを。風の音を。そして、世界で一番美味しかった、たまごサンドの味を。

それは、彼が初めて手に入れた、自分自身の幸福の標本だった。彼の心にあった空虚な空間は、今、温かな光で満たされていた。そして彼は知るのだ。幸福とは、手に入れるものではなく、既にあることに気づくものなのだということを。その光を道しるべに、カイはこれからの人生を、ゆっくりと歩んでいくのだろう。

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