第一章 鉄の匂いの木箱
水島蓮の記憶の中の母は、いつも鉄の匂いをさせていた。それは、冷たく、硬質で、あらゆる感情を拒絶する匂いだった。母・今日子が亡くなって十年。二十八歳になった蓮は、来る十三回忌を前に、埃っぽい実家の屋根裏部屋で遺品整理をしていた。
「これも、もう要らないか」
古い着物や、一度も使われた様子のない食器を段ボールに詰めていく。作業は淡々と進んだ。涙は一滴も出なかった。蓮にとって母との思い出は、錆びついた鉄のように心に食い込み、今も鈍い痛みを放つ棘だったからだ。
絵を描くのが好きだった幼い蓮に、母はいつも冷ややかな視線を向けた。「そんなものでは食べていけない」。蓮が市のコンクールで金賞を取ったときでさえ、賞状を一瞥しただけで、「時間の無駄だ」と吐き捨てた。褒められた記憶など、一度もない。母の眉間には常に深い皺が刻まれ、その口から出るのはため息か、蓮の夢を否定する言葉だけだった。
だから、あの木箱を見つけたときも、蓮の心は凪いでいた。押し入れの奥、古い布団の山に埋もれるようにして置かれていた、桐の木箱。大きさは画材箱ほどで、表面は滑らかに磨かれているが、そこには真鍮の古びた錠前がついており、固く閉ざされていた。持ち上げてみると、ずしりと重い。振ってみても、中で何かが動く気配はない。
ただ、奇妙なことに、その木箱からは、あの懐かしくも忌まわしい鉄の匂いが微かにした。母そのものが凝縮されて、この箱に封じ込められているような感覚。蓮は一瞬、中身を確かめることもなく、このまま粗大ゴミに出してしまおうかと考えた。母との過去を、この重い箱ごと葬り去ってしまいたい。
しかし、できなかった。なぜだろう。指先が錠前に触れたとき、まるで母の冷たい指に触れられたような錯覚を覚えた。そして、心の奥底で、小さな声がしたのだ。『開けて』と。それは、十年前に言えなかった言葉を求める、幼い自分の声だったのかもしれない。
「……鍵は、どこにあるんだ」
呟きは、埃っぽい空気に溶けて消えた。蓮は、この重く冷たい箱と向き合うことを、宿命のように感じ始めていた。母が遺した最後の謎。それは、蓮が十年もの間、蓋をしてきた自身の心を開けるための、最初の試練だった。
第二章 錆びついた記憶の鍵
鍵探しは難航した。母の机の引き出し、貴重品を入れていたらしい古い缶、ハンドバッグの中。どこを探しても、あの木箱に合うような小さな鍵は見つからない。探すうちに、蓮は否応なく母との過去を反芻させられた。
机の引き出しの奥から出てきたのは、蓮が小学生の時に書いた作文だ。『将来の夢』という題で、拙い文字で「画家になりたい」と書かれている。その紙には、赤いペンで無数のバツがつけられていた。記憶が蘇る。これを見せた日の夜、母は一言も口をきかず、食卓は凍りつくように冷え切っていた。あの時の、喉に詰まったご飯の味まで思い出す。
どうして、あんなに反対したのだろう。どうして、一度くらい「頑張ったね」と言ってくれなかったのだろう。探しているのは物理的な鍵のはずなのに、蓮はいつしか、母が心を閉ざした理由、その答えの鍵を探しているような気分になっていた。憎しみと、捨てきれない愛情への渇望が、胸の中で渦を巻く。
諦めかけたその時、蓮はふと自分の古い学習机に目をやった。もう使われなくなって久しい机の、一番下の引き出し。そこには、蓮が大切にしていたものが仕舞われているはずだった。恐る恐る開けてみると、中には色褪せたスケッチブックが数冊、眠っていた。
その中の一冊。表紙に「海の絵」と書かれた、幼稚園の頃のスケッチブック。蓮はそれを手に取った。中には、クレヨンで描かれた、青とも緑ともつかない海と、棒人間のような家族の絵があった。この絵を描いた日のことを、蓮は断片的に覚えていた。珍しく家族で出かけた海で、母が「……この青色、きれいね」と、ぽつりと呟いたのだ。それは、蓮が母から受け取った、唯一の肯定的な言葉だったかもしれない。
その記憶に導かれるように、蓮はスケッチブックの厚紙の裏表紙を撫でた。指先に、微かな凹凸を感じる。セロハンテープで、何かが貼り付けられている。ゆっくりとテープを剥がすと、そこには、埃をかぶった小さな真鍮の鍵が、錆びついた記憶の中から現れた。
心臓が大きく跳ねた。なぜ、こんな場所に? 母がここに隠したのだろうか。だとすれば、母は、蓮がいつかこの絵を、そしてこの微かな思い出を頼りに、この鍵を見つけ出すと信じていたのだろうか。鉄の匂いしかしないと思っていた母との記憶の中に、陽だまりのような温かい点が、ぽつんと灯った気がした。蓮は、その小さな鍵を強く握りしめた。
第三章 パレットの上の告白
屋根裏部屋に戻り、蓮は震える手で木箱の錠前に鍵を差し込んだ。カチリ、と乾いた音が響く。十年という時間が解ける音だった。ゆっくりと蓋を開ける。途端に、インクと古い紙の匂いが、ふわりと鼻をかすめた。鉄の匂いではなかった。
箱の中には、同じ大きさのスケッチブックが隙間なく詰められていた。そして、一番上に、一通の封筒。宛名には、震えるような文字で『愛する蓮へ』と書かれていた。
蓮はまず、一冊のスケッチブックを手に取った。表紙をめくった瞬間、息を呑んだ。そこに広がっていたのは、プロの画家が描いたとしか思えない、緻密で、それでいて温かい鉛筆のデッサンだった。窓辺に置かれた花瓶。公園の錆びたブランコ。夕暮れの商店街。どれもが見慣れた町の風景だが、描いた者の愛情深い眼差しが、ページから溢れ出してくるようだった。
そして、ページをめくるうちに、蓮は言葉を失った。そこにいたのは、幼い自分だったからだ。ミルクを飲んで満足そうに眠る赤ん坊の自分。初めて立った瞬間の、不安と誇りが入り混じった表情の自分。クレヨンで壁に落書きをして、泣きべそをかいている自分。どの絵にも、日付と、短いメモが添えられていた。
『初めて笑った。天使かと思った』
『この子は、私が見たことのない色を見ている』
『この才能を、私が摘んでしまってもいいのだろうか』
これは、母の絵だ。画家になることを、誰よりも厳しく禁じた母が、誰にも知られず、こんなにもたくさんの絵を描き続けていた。そして、その視線は、常に蓮に向けられていた。
蓮は、たまらず封筒を破った。中から出てきた便箋には、見慣れた母の文字が並んでいた。
『蓮へ。あなたがこれを読んでいるとき、私はもうあなたのそばにはいないでしょう。そして、あなたはきっと、私のことを冷たい、あなたを愛さなかった母親だと思っていることでしょう。ごめんなさい。すべて、私の身勝手が生んだ過ちです。
実は、私にも夢がありました。あなたと同じ、画家になるという夢です。しかし、私には才能も、夢を追い続ける勇気もありませんでした。生活のために絵筆を折り、平凡な人生を選んだのです。後悔はしないと誓ったはずなのに、心のどこかでは、いつも絵の具の匂いがしていました。
そんな私の前に、あなたは現れた。あなたは、私が持てなかった全てを持っていました。純粋な好奇心、ためらいのない線、そして、世界を鮮やかに捉える、天賦の才。あなたの絵を見るたびに、私は嬉しくて、誇らしくて、同時に恐ろしくて仕方がなかった。
才能があるからこそ、夢に破れたときの絶望は深い。私と同じ苦しみを、この子にだけは味わわせたくない。その一心で、私はあなたから絵を取り上げようとしました。厳しい言葉であなたを傷つけ、あなたの才能の芽を、この手で摘み取ろうとしたのです。あなたを愛していなかったからじゃない。あなたを、誰よりも深く愛していたからです。なんと愚かで、独り善がりな愛情だったでしょう。
いつも鉄のような匂いがしたでしょう? あれは、私が心の奥にしまい込んだ絵の具の匂いを隠すために使っていた、安物の香水の匂いでした。夢に錆びついてしまった、私の心の匂いだったのかもしれません。
どうか、許してくれとは言いません。でも、これだけは信じてください。あなたという存在そのものが、私の人生にとって、最も鮮やかで、最も美しい作品でした。
あなたの好きなように、生きてください。あなたのパレットが、美しい色で満たされますように。
母、今日子より』
手紙を読み終えたとき、蓮の頬を熱い雫が伝っていた。一粒、また一粒と、雫はスケッチブックの上に落ち、幼い自分の笑顔の絵を滲ませた。憎しみではなかった。悲しみでもなかった。それは、十年分の誤解が解け、凍りついていた心が温かい愛情に溶かされていく、安堵の涙だった。鉄の匂いだと思っていた母の香りは、夢への憧れと、子を想う切ない愛の香りだったのだ。
「……お母さん」
嗚咽と共に漏れた声は、生まれて初めて呼ぶような、甘く、優しい響きをしていた。
第四章 十年目の陽だまり
母の十三回忌は、穏やかな晴天の日に行われた。墓前に立った蓮の心は、不思議なほど静かだった。以前は、墓石に刻まれた『水島今日子』の名を見るたびに、心の表面がささくれ立つような苛立ちを覚えた。だが今は、その文字の一つ一つが愛おしく、温かいものに感じられた。
蓮は、母のスケッチブックの中から一番気に入っている一枚――公園のベンチで、母の膝を枕に眠る幼い自分の絵――のコピーを、そっと墓石の前に置いた。
「お母さん。遅くなったけど、ただいま」
語りかけると、風がそよぎ、木漏れ日がきらきらと蓮の足元で揺れた。それはまるで、母が「おかえり」と微笑んでいるかのようだった。長年蓮を縛り付けていた、冷たい鎖はもうどこにもない。そこには、母から受け取った、不器用で、しかしどこまでも深い愛情だけが残っていた。
その数日後、蓮は屋根裏部屋から、自分が高校生の時に使っていたイーゼルと、埃をかぶった絵の具箱を運び出した。古書店での仕事は続けるつもりだ。だが、もう自分に嘘をつくのはやめようと決めた。
真っ白なキャンバスをイーゼルに立てかける。窓から差し込む午後の光が、部屋の隅々までを明るく照らしていた。蓮はパレットの上に、チューブから絵の具を絞り出していく。赤、青、黄色、白。十年ぶりに触れる油絵の具の、芳醇な香りが胸いっぱいに広がる。それは、もう二度と嗅ぐことはないと思っていた、蓮自身の夢の匂いだった。
傍らには、母が遺したスケッチブックを開いて置いた。蓮は、ゆっくりと筆を取る。そして、深呼吸を一つ。
最初にキャンバスに乗せたのは、優しい肌色だった。母が描いてくれた、幼い自分の頬の色。そこに、母の記憶の中の、柔らかな微笑みを重ねていく。蓮の心の中のパレットでは、母への感謝と、自分自身の未来への希望と、そして十年分の愛が混ざり合い、今まで見たこともない、新しい色が生まれていた。
鉄の匂いはもうしない。部屋を満たすのは、光と、希望と、親子の絆を紡ぐ絵の具の香り。蓮は、ただ静かに筆を動かし続けた。空っぽだったキャンバスに、そして蓮自身の心に、温かい色が満ちていく。その一枚の絵が完成したとき、蓮の本当の人生が始まるのだろう。物語は、まだ始まったばかりだった。