第一章 折れた誇りと奇妙な客
玉鋼を灼き、槌を振るう。父・宗近が遺したこの鍛冶場に満ちる鉄の匂いと火花の熱気だけが、藤原清十郎の心の拠り所だった。父は江戸でも指折りの名工と謳われた。その一振りは、大名から召し抱えの誘いが来るほど、美しく、そして恐ろしいほどによく斬れたという。しかし、清十郎が打つ刀は、なぜかいつも「斬れなかった」。
その日も、清十郎の誇りは無残に打ち砕かれた。旗本の次男坊であるという侍が、注文した一振りの試し斬りに来た。青竹が据えられ、侍が刀を振りかぶる。乾いた風切り音の直後、甲高い金属音が響き、刀身は真ん中から呆気なく折れた。竹には、浅い傷が一つ付いただけだった。
「なんだこれは!玩具か!父の名を汚す愚息め!」
侍は怒声と共に折れた刀を投げ捨て、代金も払わずに去って行った。清十郎は、土間に転がる無様な鉄の塊を、ただ呆然と見つめることしかできなかった。父の幻影が、炉の揺らめく炎の向こうで、「まだ足りぬ」と囁いているように思えた。悔しさと自己嫌悪で、奥歯を強く噛みしめる。血の味が、じわりと口の中に広がった。
その夜のことである。閉店いを済ませ、一人で荒れた酒を呷っていると、戸を叩く音がした。こんな夜更けに誰だろうか。不審に思いながらも戸を開けると、そこに立っていたのは、墨染の着流しを纏った痩身の男だった。歳は四十を超えたあたりだろうか。月明かりに照らされたその顔には、深い皺が刻まれ、静かだが底知れぬ光を宿した瞳が、真っ直ぐに清十郎を射抜いていた。
「夜分に済まない。刀を打っていただきたい」
男は静かに言った。その声は、夜のしじまに溶けるように穏やかだった。
「あいにくだが、今宵はもう……それに、俺の刀はご覧の有様だ。あんたの望むような代物は打てん」
清十郎は自嘲気味に、昼間折れた刀の残骸を指さした。男はそれに一瞥をくれると、ふ、と微かに笑みを浮かべた。
「いや、それがいい。それがいいのだ」
「……何?」
「昼間の噂は耳にした。竹も斬れぬ刀を打つ刀鍛冶がいる、と。だからこそ参ったのだ。どうか、私に『斬れぬ刀』を打ってはくれまいか」
奇妙な注文だった。武士の魂たる刀に、「斬れぬこと」を求めるなど聞いたことがない。清十郎は、目の前の男の真意が読めず、ただ困惑するばかりだった。男の瞳の奥には、斬ると斬られるの業をすべて見尽くしたかのような、深い諦観と、そして微かな祈りのような色が滲んでいた。
第二章 斬れぬ刀の理(ことわり)
男は玄斎と名乗った。以来、三日に一度は鍛冶場に顔を出し、清十郎が槌を振るうのを黙って眺めているようになった。彼は多くを語らなかったが、その佇まいは清十郎の心を不思議と落ち着かせた。
「なぜ、斬れない刀が欲しいんだ」
ある日、炉の火を落としながら、清十郎はたまらずに尋ねた。玄斎は、壁に立てかけてあった古い木刀を手に取り、静かに答えた。
「かつて、この手で多くの命を奪った。斬れば斬るほど、己の魂が削れていくのが分かった。刃(やいば)とは、ただ人を裂くためにあるのではない。何かを守るためにこそ、その鋭さを内に秘めるべきなのだと、全てを失ってから気づいた」
玄斎は元人斬りだった。今は江戸の片隅でささやかな医者を営み、人の命を救うことで過去の罪を償おうとしているのだという。彼の言葉は、清十郎の胸に重く響いた。父の背中を追い、ただ「斬れる」ことだけを求めてきた自分は、一体何を守ろうとしてきたのだろうか。
清十郎は、玄斎のために一振りを打つことを決意した。だがそれは、これまでのように「斬れる刀」を目指すのではなく、ただ純粋に、鉄と炎の声に耳を澄ませる作業だった。父の教えをなぞるのではない。己の心のままに槌を振るう。カン、カン、と響く音は、以前よりも迷いがなく、澄んでいた。焼き入れの際、水に刀身を浸す刹那、清十郎は祈った。この刀が、どうか人を傷つけることがありませんように、と。
一月後、一振りの刀が完成した。華美な刃文はない。ただ、磨き上げられた鋼が、鈍い光を放っているだけだ。しかし、その姿は不思議な気品と力強さを湛えていた。
「見事だ」
玄斎は刀を手に取ると、鞘から抜き放ち、月光にかざした。
「この刀は、斬ろうという殺気を込めねば、決して牙を剥かぬ。だが、守ろうという強い意志を込めれば、鋼の盾となるだろう。お主の優しさが、この鉄に宿っておる」
清十郎には、玄斎の言葉の意味がまだ完全には理解できなかった。だが、初めて自分の仕事に、小さな、しかし確かな誇りが芽生えるのを感じていた。それは、父の模倣ではない、藤原清十郎自身の仕事だった。
第三章 赤錆の誓い
穏やかな日々は、突如として破られた。ある風の強い夜、三人の浪人風の男たちが、殺気を漲らせて鍛冶場に押し入ってきた。彼らの目当ては、薬草を届けに来ていた玄斎だった。
「見つけたぞ、榊玄斎!いや、かつては『鬼斬り』と恐れられた榊兵馬!」
中心に立つ男が、憎悪に歪んだ顔で叫んだ。
「十年前、我らの父を斬ったこと、忘れたとは言わせんぞ!」
彼らは、玄斎がかつて斬った藩士の息子たちだった。復讐の刃が、今まさに玄斎に迫ろうとしていた。玄斎は覚悟を決めたように目を閉じ、静かに佇んでいる。その姿は、まるで裁きを待つ罪人のようだった。
清十郎の身体が、考えるより先に動いていた。壁に飾ってあった、玄斎のために打ったばかりの刀を掴むと、二人の間に割って入った。
「やめろ!この人に手を出すなら、俺が相手だ!」
刀を構えたものの、清十郎の手は震えていた。人を斬ったことなど一度もない。しかし、ここで退くわけにはいかなかった。守りたい、という一心だけが、彼を支えていた。
浪人の一人が、嘲笑いながら斬りかかってくる。清十郎は咄嗟に刃で受けた。キィン、と耳障りな音が響く。しかし、想像した衝撃はなかった。清十郎の刀は、相手の刃を滑らせるように受け流し、刃こぼれ一つしていない。相手の刀もまた、傷一つついていなかった。
「なっ……!?」
浪人が驚愕する。清十郎自身も、我が目を疑った。そうだ、この刀は斬れない。斬ろうとしても、斬れないのだ。しかし、守ることはできる。
その瞬間、清十郎の脳裏に、父が遺した秘伝書の隅に書かれていた言葉が蘇った。『真の名刀は、鞘に収まりてこそ事を成す。その輝きは威を示し、その重さは命の価値を示す。抜かざるを得ぬ時は、斬るにあらず、断つにあるべし。断つは、争いの連鎖なり』
父もまた、この境地を目指していたのではないか。ただ斬れるだけの刀の先に、虚しさを見ていたのではないか。清十郎の目から、鱗が落ちた。父を超えようと焦るばかりで、父が本当に伝えたかったことを見ようとしていなかったのだ。
「この刀は、誰も斬れん。だが、あんたたちの憎しみは、俺が断つ!」
清十郎の構えから、震えが消えた。浪人たちの太刀筋を冷静に見極め、刃ではなく峰で打ち、相手の体勢を崩していく。決して命を奪わぬ、しかし確かな重みを持った一撃。それは、人を傷つけるための剣術ではなく、場を制し、人を活かすための活人剣そのものだった。
第四章 暁の槌音
清十郎の不思議な刀と、決して反撃せず、ただ静かに頭を垂れる玄斎の姿に、浪人たちはやがて戦意を失い、刀を降ろした。
「なぜ、抵抗せぬ。我らを斬れば、お主は助かるものを」
首魁の男が、絞り出すように言った。玄斎はゆっくりと顔を上げ、静かに語りかけた。
「君たちの父上を斬ったあの日から、私の時間は止まったままだ。斬って償うは易し。だが私は、残りの人生で一人でも多くの命を救い、生きて償いたいのだ。この命、君たちがどうしようと構わぬ。だが、もし許されるなら、もう少しだけ、時間が欲しい」
その言葉に、憎しみ以外の何かが浪人たちの目に宿った。彼らは何も言わず、ただ背を向けて闇夜の中に消えていった。
嵐が去った鍛冶場に、静寂が戻る。玄斎は、清十郎に深々と頭を下げた。
「命の恩人だ。この刀は、私が二度と道を踏み外さぬための、何よりの戒めとなるだろう」
そう言って鍛冶場を去る玄斎の背中は、以前よりも少しだけ軽く見えた。
一人残された清十郎は、夜明け前の薄明かりの中、炉に新しい炭をくべ、火を起こした。ふいごを踏む足に力がこもる。父の幻影はもう見えない。目の前にはただ、赤々と燃える炎と、これから鍛え上げられるべき鉄があるだけだ。
カン、カン、カン──。
夜明けの空に、清十郎の打つ槌音が響き渡る。その音は、迷いを断ち切った者の覚悟のように、力強く、そしてどこまでも澄み切っていた。
彼が作る刀は、もう二度と「斬れる」ことを目指さないだろう。歴史に名を残す名刀にはならないかもしれない。しかし、その「斬れぬ刀」は、持ち主の心に寄り添い、争いを鎮め、誰かの命をそっと守る「護剣」として、この世のどこかで静かに輝き続けるのだ。
清十郎は、槌を振るい続けた。己の打つ鉄の音が、新しい時代の夜明けを告げているような気がして、彼の口元には、確かな笑みが浮かんでいた。