第一章 デジタルの石礫(いしつぶて)
モニターの青い光が、水野翔太の無感情な顔を照らし出していた。彼の指先がキーボードの上を無機質に滑り、クリック音だけが静まり返ったウェブメディアの編集部に響く。時刻は午後十時を回っていたが、誰も帰る気配はない。PV(ページビュー)という名の神に、誰もが生け贄を捧げ続けているのだ。
「水野、これ見たか?」
背後から声をかけたのは、編集長の黒田だった。油と汗の匂いが混じったような体臭を漂わせながら、黒田は翔太の隣に立ち、スマートフォンを突きつけた。画面には、粗い画質の動画が再生されている。
「またですか」
「まただ。だが、今回は特級のネタだぞ」
動画の中で、一人の老人がコンビニの床に手をつき、若い男性店員に向かって何かを叫んでいた。音声は不明瞭だが、老人の形相は怒りに歪んでいるように見える。テロップには『【炎上】キレる老人、コンビニ店員に土下座強要!』という扇情的な文言が踊っていた。この数時間で、動画は爆発的に拡散され、リプライ欄は老人への罵詈雑言で埋め尽くされている。
「このジジイ、特定班によって秒で身元が割られてる。高橋義男、75歳。住所もこの近くだ。記事、書けるよな?『社会の老害』『モンスタークレーマーの末路』、見出しはいくらでも思いつくだろ。アクセス爆増間違いなしだ」
黒田の目は、獲物を見つけたハイエナのようにギラついていた。翔太は胃のあたりが冷たくなるのを感じた。またか。真偽も定かでない一方的な映像を元に、匿名の大衆が正義の石礫を投げる。そして自分たちは、その石礫をより大きく、より鋭く加工して、さらに多くの野次馬に売りつけるのだ。
「……やります」
反論は、とうの昔に諦めていた。正義感を燃やしたところで、給料が上がるわけでも、世の中が良くなるわけでもない。それが、この業界で五年働いて翔太が学んだ、唯一の真実だった。
彼は新しいファイルを開き、タイトルを打ち込み始めた。『地域社会を脅かす「迷惑老人」の実態』。キーボードを叩く指先が、ひどく冷たかった。拡散された情報、誹謗中傷のコメントを無心でコピー&ペーストしていく。それはまるで、誰かの墓標に、他人の悪意を塗りたくるような作業だった。
ふと、動画をもう一度見返す。数秒の短いクリップ。老人は何かを必死に訴えているように見えた。怒りというよりは、むしろ悲痛な叫びに近いのではないか。そんな考えが頭をよぎるが、翔太はすぐにそれを打ち消した。感傷はPVにならない。彼は深く息を吸い、感情を切り離し、再びキーボードに向き合った。デジタル世界の片隅で、また一つ、匿名の悪意に満ちた火の手が上がろうとしていた。その最初の火付け役の一人が、自分であるという事実から目を背けながら。
第二章 沈黙の肖像
翌日、翔太は黒田に命じられるまま、高橋義男が住むという古い木造アパートへ向かった。梅雨入り間近の空はどんよりと曇り、湿った空気が肌にまとわりつく。目的のアパートは、ひっそりとした路地の奥に、まるで時代の流れから取り残されたかのように建っていた。
ドアの周りには、すでに数人の若者がたむろし、スマートフォンを向けていた。面白半分でやってきた野次馬だろう。彼らの嘲笑を背中に浴びながら、翔太はアパートの大家だという老婆に話を聞いた。
「高橋さん? ああ、頑固で無愛想な人だったけどねえ……」老婆は皺だらけの手で軒先の紫陽花を撫でながら、言葉を選んだ。「でも、悪い人じゃなかったよ。半年前かね、奥さんを亡くしてからは、めっきり口数も減ってしまって。見てるこっちが辛くなるくらい、寂しそうだった」
それは、ネット上で描かれている『モンスター老人』の姿とは、あまりにかけ離れた人物像だった。翔太は近所の小さな商店や、古びた理髪店でも聞き込みを続けた。返ってくる答えは、概ね同じだった。「挨拶はちゃんとする人」「奥さんのことを本当に大事にしていた」「最近は、何かを探しているように毎日どこかへ出かけていた」――。
記事にできるような「悪評」は、どこからも出てこない。だが、会社が求めるのはそんな地味な事実ではない。もっと過激で、読者の憎悪を煽るようなエピソードだ。翔太は取材メモを閉じ、重いため息をついた。
その夜、自室で再び炎上動画を再生する。何度見ても、違和感が拭えない。動画は老人が叫び始めた瞬間から始まっており、その前の経緯が全く分からない。そして、老人が床に手をついた瞬間、不自然にカットされているように見えた。高橋義男の顔。そこに浮かんでいるのは、本当にただの怒りなのだろうか。翔太の目には、それが何かを失った人間の、絶望の表情に見えてならなかった。
いてもたってもいられなくなり、翔太は会社のデータベースを使い、高橋義男の家族について調べ始めた。疎遠になっている娘が一人いることが分かった。高橋美咲。都心のデザイン会社に勤めているらしい。
これは、会社の命令ではない。完全に、個人的な興味だ。いや、興味というよりは、贖罪に近い感情だったのかもしれない。自分が加担したデジタルのリンチ。その向こう側にいる、一人の人間の本当の顔が見たい。翔太は、ほとんど無意識のうちに、美咲の会社の電話番号を調べていた。この行動が何を生むのか、彼自身にも分かっていなかった。ただ、このままではいけないという強い衝動だけが、彼を突き動かしていた。
第三章 割れた万華鏡
数日後、翔太は喫茶店の硬い椅子に座り、目の前の女性と向き合っていた。高橋美咲。彼女はやつれた顔で、しかし射るような強い視線で翔太を見つめていた。何度も電話を断られ、半ば強引に時間を作ってもらったのだ。
「父のことで、これ以上何を面白おかしく書くつもりですか」
美咲の声は、氷のように冷たかった。
「面白おかしく書くつもりはありません。ただ、真実が知りたいんです。あなたの、お父さんのことを」
翔太はまっすぐに彼女の目を見て言った。その言葉に嘘はなかった。美咲はしばらく翔太を値踏みするように見つめていたが、やがて諦めたように深く息を吐き、ぽつりぽつりと語り始めた。
「父は……不器用な人でした。でも、誰よりも母を愛していました」
彼女の話は、翔太の予想を遥かに超えるものだった。
美咲の母、つまり高橋義男の妻・和子は、二年ほど前から認知症を患っていた。症状はゆっくりと進行し、義男は仕事を辞め、つきっきりで介護をしていたという。
「母は、最期まで一つのことを言い続けていました。『あの、蜂蜜レモンの飴が食べたい』って……」
それは、和子が若い頃から大好きだった、今はもう製造中止になっている飴だった。義男は、妻のためにその飴を探し続けた。ネットで探し、古い駄菓子屋を巡り、あらゆる手を尽くした。だが、見つからなかった。そして半年前、和子は静かに息を引き取った。
「母が亡くなってから、父は抜け殻のようになってしまいました。でも、一日も欠かさず、どこかへ出かけていたんです。後になって分かりました。父は、母のために、あの飴を探し続けていたんです。もういない母のために……」
美咲の目から、大粒の涙がこぼれ落ちた。翔太は息を呑んだ。
「事件があったあの日……父は、偶然立ち寄ったコンビニの片隅で、その飴を見つけたんです。おそらく、誰かが忘れていった一個だけを、店員さんがレジ横に置いておいてくれたんでしょう」
「……!」
「父は、それを見て、泣き崩れてしまったそうです。やっと、やっと母との約束が果たせる、と。でも、パニックになっていた父は、財布を家に忘れてきてしまっていた。小銭入れには、数十円しか入っていなかった。だから、店員さんに『お願いです。これを売ってください。お金は必ず、すぐに持ってきますから』と必死に頼み込んだ。そして……床に手をついてしまったんです」
それが、真実だった。
妻への愛と、長すぎた探索の果てに見つけた小さな希望。それが生んだ、あまりに切実な行動。それが、「土下座強要」という悪意に満ちた物語に捻じ曲げられ、世界中に拡散されたのだ。
翔太は、全身の血が逆流するような感覚に襲われた。愕然とした。自分がこれまで書いてきた記事の見出しが、脳内でフラッシュバックする。『社会の老害』『モンスタークレーマー』。自分は、この深い愛の物語に、泥を塗りたくっていたのだ。PVという、空虚な数字のために。
「なんてことを……俺は……」
声が震えた。視界が滲み、目の前の美咲の顔が、割れた万華鏡のように砕けて見えた。これまで自分が信じてきた、あるいは信じようと努めてきたジャーナリズムという仕事の価値観が、根底からガラガラと崩れ落ちていく音がした。
第四章 夕暮れの肖像
編集部に戻った翔太は、黒田の前に辞表を叩きつける覚悟で、真相を報告した。案の定、黒田は鼻で笑った。
「美談だな。だが、そんな感傷的な話、今さら誰が読む? 炎上はもう鎮火しかけてる。今さら火種を変えても、燃え広がりゃしない」
「それでも、書きます。これが真実なんですから」
「勝手にしろ。だが、うちの名前で出すことは許可しない。そんなPVにもならない記事、会社のサーバーを汚すだけだ」
翔太は何も言い返さず、自分のデスクに戻った。そして、新しいファイルを開いた。これが、この会社での最後の仕事になるだろう。
彼は書いた。これまでの扇情的なスタイルをすべて捨て、ただひたすらに、丁寧に言葉を紡いだ。高橋義男という一人の男が、妻をどれほど愛していたか。彼の沈黙の裏にあった、深い悲しみと献身。そして、一つの小さな飴が、彼にとってどれほどの意味を持っていたか。デジタルのノイズに掻き消された、静かな愛の物語を、一言一句、心を込めて書き上げた。
翔太は、完成した記事を個人のブログに投稿した。会社の名前は使えない。それでも、彼にはこれを世に出す義務があると感じていた。
記事は、最初は誰にも気づかれなかった。しかし、数時間後、誰かがSNSでシェアしたのをきっかけに、静かに、だが確実に広がり始めた。それは炎上のような爆発力はなかったが、読んだ人の心に深く染み入るような、確かな波紋を生んだ。
『俺たちは何を見ていたんだ』
『たった数秒の動画で、一人の人生を裁いていたのか』
『涙が止まらない。おじいさんに謝りたい』
コメント欄には、後悔と共感の声が溢れ始めた。デジタル世界の潮目が、ゆっくりと変わり始めていた。
数日後、翔太はプリントアウトした記事を手に、再び高橋義男のアパートを訪れた。ドアをノックすると、静かに扉が開き、高橋老人が立っていた。ネットで見た時よりも、ずっと小さく、弱々しく見えた。
翔太は深々と頭を下げた。
「申し訳ありませんでした。俺は、あなたを傷つける記事を書きました」
そして、持ってきた記事を差し出した。高橋老人は何も言わず、それを受け取ると、ゆっくりと室内に目を通した。翔太は、部屋の隅にある小さな仏壇に気づいた。優しそうな笑みを浮かべた女性の写真。そして、その横には、小さな袋に入った蜂蜜レモンの飴が、そっと供えられていた。
やがて記事を読み終えた高橋老人は、顔を上げ、初めて翔太の目をまっすぐに見た。その瞳には、怒りも悲しみもなかった。ただ、深い霧が晴れた後のような、静かな光が宿っていた。
老人は何も言わず、窓の外に視線を移した。茜色に染まった夕焼けが、古い部屋を優しく照らしている。言葉はなかった。だが、その沈黙は、どんな言葉よりも雄弁に、翔太の心に響いた。
翔太はもう一度深く頭を下げ、静かにアパートを後にした。
世界は簡単には変わらないだろう。明日になればまた、どこかで誰かが匿名の石礫を投げ、誰かが傷ついているはずだ。冷笑と無関心は、これからもこの社会に渦巻き続けるに違いない。
それでも。
夕暮れの道を歩きながら、翔太は胸の奥に、小さな、しかし確かな熱を感じていた。自分は今日、ノイズの海の中から、一つの静かな真実を拾い上げた。その小さな一歩の重みを、彼は噛みしめていた。それはPVでは測れない、人間の尊厳という、何よりも重い価値だった。彼の心にはもう、冷笑の影はなかった。静かで、ぶれることのない決意の炎が、夕焼けの光を受けて静かに燃えていた。